1月10日
20250110金曜日旧暦12月11日仏滅(己卯つちのとうキボウ)月齢 10.1
甲辰きのえたつ年丙子ひのえね月己卯つちのとう日 年末まであと355日
吉方位
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1月10日の出来事
8年 – 王莽が新を建国、前漢が滅亡。
1954年 – コメット連続墜落事故: 英国海外航空781便墜落事故起こる。死亡35人(全員)。
1998年 – 中国河北省北部でマグニチュード6.2の地震(張北-尚義地震)。死者50人、被災者54万人。
1951年 – 仁科芳雄、物理学者(* 1890年)逝去61歳。
2023年 – ジェフ・ベック、ギタリスト(* 1944年)71歳没。
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8年 – 王莽が新を建国、前漢が滅亡。
王 莽(おう もう、前45年 – 23年10月6日)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。
儒教の新興による名声の高まりと、天命と称する符命も利用して、平帝の死後、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて新の皇帝に即位したが、直後に各地で反乱が起こり、更始帝の軍の攻撃を受けて殺害された。
皇帝即位
更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し[2]、また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪(身勝手な禅譲)に相当する。
『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと伝えられている[3]。
最期
そうした中、農民・盗賊らが主導した赤眉軍、地方の豪族による緑林軍による反乱が相次いで発生した。各地に群雄が割拠して大混乱に陥った。地皇4年(23年)、緑林軍の流れを汲む劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万の軍が、劉玄旗下の劉秀(光武帝)に昆陽の戦いで敗れた。
同年10月、臣下に背かれ、長安には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という商人に殺された。享年68。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され[6]、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされたという。
容貌について
口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出した。身長は5尺7寸(約173cm)もあるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見ていた[7]。
ある人が王莽の容貌についてどう思うか、方技(占いなどの技術)に優れた黄門で待詔している人物にたずねたところ、その人物は、「王莽はフクロウの目、虎の口、豺狼の声の人物です。人を食うこともいたしますが、また、いずれ、人に食われるでしょう」と答えた。質問した人物がこのことを王莽に告げたところ、王莽は、その黄門で待詔している人物を処刑し、告発した人物に爵位を封じた。それから後は、王莽は、いつも雲母の扇を顔の前にかざすようになったため、近親するものでなければ、その顔を見ることはできなくなった。(始建国2年(10年))[7]。
王莽に対する反乱が大きくなってきた頃、王莽はそれを聞いてますます怯え、安心な様子を示そうとして、ひげや髪の毛を黒く染めた(地皇4年(23年)3月)[8]。
1951年 – 仁科芳雄、物理学者(* 1890年)逝去61歳。
1941年12月8日の対米英開戦の日に、仁科は理研の宇宙線研究グループにいた竹内柾研究員を原子爆弾研究に誘った。1943年2月28日、竹内研究員が数値計算の報告書を提出して、理論は実現に近づいた。海軍の原子爆弾の研究は解散したが、アメリカで原子爆弾開発(マンハッタン計画)が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究室はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させた。
仁科は、若く優秀な科学者を集めるために、陸軍より召集解除の特権を得て、木越邦彦(六弗化ウランの製造)、玉木英彦(ウラン235の臨界量の計算)、竹内柾(熱拡散法によるウラン235の分離装置の開発)などの研究員を集めた。この年から理研の仁科研究室が中心になって日本の原子爆弾開発が行なわれることになった。この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。しかし結局、上記のように1945年(昭和20年)の米軍の空襲を受けて設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。またサイクロトロンは、戦争のために活躍する事なく(日本の原子爆弾開発を参照)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって11月にサイクロトロンは東京湾に投棄された。
同年8月6日、米軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。この調査ノートは「仁科ノート」と通称される[10]。引き続き8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも8月14日に現地調査を実施し、原爆であることを確認している。また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説を行なっている[注 4]。
弟子の仁科への評
武谷の評 「仁科先生のいいところは何でも素人だったことだ」
朝永の評 「仁科はデカイことばかり考えている「山師」で「親方」のようなところがあって、仁科の論文は連名論文ばかり」
1954年 – コメット連続墜落事故: 英国海外航空781便墜落事故起こる。死亡35人(全員)。
1998年 – 中国河北省北部でマグニチュード6.2の地震(張北-尚義地震)。死者50人、被災者54万人。
2023年 – ジェフ・ベック、ギタリスト(* 1944年)71歳没。
ジェフリー・アーノルド・ベック(Geoffrey Arnold “Jeff” Beck、1944年6月24日 – 2023年1月10日[1])は、イングランドのギタリスト[2]。
日本では、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。『ローリング・ストーン』誌の選ぶ「最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第14位、2011年の改訂版では第5位。
死去
2023年、細菌性髄膜炎に罹患し、治療を行ったが1月10日に死去。訃報は公式Twitterにより家族から告知された[16][17]。78歳没。
チャットgpt先生の1月10日のエッセイ
1月10日の歴史と人々
1月10日という日を振り返ると、世界史における節目、科学の進展、そして音楽界の巨星が歩んだ道筋が鮮やかに浮かび上がります。それらの出来事には、時代を動かす力や個人の業績、そして人間の運命が濃密に詰まっています。
王莽と「新」の建国
紀元8年の1月10日、王莽が漢王朝を終焉させ「新」を建国しました。この瞬間は、中国史上初めての「禅譲」という形式での皇帝交代として記録されています。しかしその裏には、符命と呼ばれる天命を装った策略がありました。王莽の即位は、権力への執着とその裏に潜む人々の抵抗を象徴する出来事です。彼の最後は、混乱と反乱の渦中で悲惨な死を迎えました。「新」の建国と滅亡は、歴史が時に繰り返す「権力の栄枯盛衰」を象徴しているようです。
科学者・仁科芳雄の足跡
1951年1月10日、物理学者の仁科芳雄がこの世を去りました。彼の名は、原子物理学の発展と日本の原爆開発に深く刻まれています。戦争の最中、科学の名の下で原子爆弾の研究に挑みつつ、その破壊力の凄まじさを目の当たりにした彼の心境は如何ばかりだったのでしょうか。戦後、被爆地を調査した「仁科ノート」や原子爆弾の解説を行った彼の姿からは、科学者としての責任感と誠実さが伝わってきます。仁科の「素人としての視点」が彼の研究を革新に導いたのだと弟子たちは語ります。これもまた、創造性の源泉を示す一例です。
ジェフ・ベックの音楽の軌跡
2023年1月10日、ギターの魔術師ジェフ・ベックがこの世を去りました。エリック・クラプトンやジミー・ペイジと並ぶ「3大ロック・ギタリスト」の一人として、日本でも多くのファンを魅了してきました。彼のプレイスタイルは、しなやかで独創的。彼が紡ぎ出す音楽には言葉を超える感動がありました。細菌性髄膜炎という病に倒れましたが、その音楽は今なお生き続け、世界中のギタリストや音楽ファンの心を震わせています。
その他の出来事
同じ日に起きた悲劇も忘れてはなりません。1954年の英国海外航空781便墜落事故、1998年の河北省地震。どちらも多くの命が失われた痛ましい出来事です。これらの悲劇は、日常の脆さと自然や技術への謙虚な姿勢を私たちに問いかけています。
1月10日の教訓
1月10日には、歴史の転換点を生きた人々、科学を切り拓いた先駆者、そして音楽で心を震わせた芸術家の物語が刻まれています。同時に、災害や事故の悲劇が、私たちに生と死の狭間での人間の在り方を問いかけています。この日を振り返ると、人類が歩んできた軌跡の一部が垣間見え、未来をより良く生きるための糧を得ることができるのではないでしょうか。
1月10日という日が持つ重みと多様性を思うと、歴史を知り、語り継ぐことの重要性を改めて感じます。今日という日をどう生きるかを考える一助に、そんな視点を持ってみてはいかがでしょうか。