発心集 第四巻第9話 武州入間河沈水の事(ぶしゅういるまがわ ちんすいのこと)
武蔵の国の入間河(現在の埼玉県 入間市)のほとりに 大規模な堤防を築き、水害を防いで 多くの田畑をつくって民家が密集している村があった。その地域で 貫首(カンズー責任者)とされるある男が 惣村ソウソンの頭目として長年その地域に住んでいた。
あるとき五月雨(サミダレ旧暦五月 現在の六七月 梅雨)どきになって、地域の河の流出する水量が多くなり始めた。しかし、長い年月の間に この地域の堤防が決壊したことはなかったので、「まあ増水はしているが、大丈夫だろう。」と みな特に水量が増えたことについて驚かなかった。
そうこうしているうちに、雨量はますます増えてきて、雨が堤ツツミより溢アフれこぼれ出すように降ってきた。そうして、激しく雨が降り堤防より水が溢れ出すさまが尋常でないと思われたある日の夜中に、突然に雷鳴のような 世にも恐ろし気に鳴り響く音がしたのだった。この音を聞いて 先の貫首カンズと寝ていた家人たちが皆驚き心配そうに顔を突き合わせた。そうして、「あの不気味な音は何の音だろうか。」と 不審がっていた。この事態に、貫首も 郎等(ロウトウ 家の使用人)を呼びだして言った。「どうも堤防が決壊したようだのう。お前、行って確かめてこい。」と。
そうして、屋敷の戸を引き上げて外を見ると、二、三町ほどを遠く見渡してみたのであるが、水があふれかえっている様子はさながら海のようであった。
「これは一体どうしたらよいだろう。」と言っているうちにも、みるみる増水してきて、屋敷の天井までも水がのぼってきたのである。この事態に、貫首の妻子をはじめとして、そのほかの家人たちも全員が可能なだけ屋敷の天井に上って 柱の上に横渡している桁(ケタ)や梁(ウツバリ、ハリ—棟を受ける建物の材木)につかまって口々に大声を出して叫んだ。
みながそうこうしている間に貫首と郎等(ロウトウ使用人)は、葺板(フキイタ)を駆け上って屋根の上にのぼりあがった。そうして どうしようか、と考えているうちに建物自体がぐらぐらと水の流れに揺らいで、ついに建物を支えていた柱の根が抜けたのである。そうして、屋敷は家の形を残したまま 湊(ミナト)の方に流れ始めた。
その時に、郎等(ロウトウ使用人)が言った。「もう駄目のようでございますな。海も近くなってきました。湊を出て沖に流されてしまえば、この建物は すべて海の波に打ち砕かれて、微塵(ミジン)となってしまうでしょう。それよりも、今万が一の望みを掛けて水の中に飛び込んで泳いで助かることをお試みなさいませ!このように広く放流された水でありますれば、もしかすると水深が浅いところがあるかもしれません!」と叫んだ。
この郎等の叫びを聞いた 貫首の幼い子や妻たちが、「わたしたちを捨てて 父上はどこにいらっしゃるのか!?」と泣き喚いた。その声を この上なく悲しいと思ったのであるが、どうにもこうにも助ける手立てがない。この絶体絶命のなか「われらの内の一人だけでも助かるかもしれぬ。 もしかすれば!」と思い立ち、その郎等とともに水の中に貫首は飛び込んだのであった。その時の気持ちは 生きた心地も無論なかった。
その後しばらくの間は 貫首と郎等との間で互いに声を掛けながら泳いでいった。しかし、水の流れは速くて結局互いに行方(ユクエ)知れずとなってしまった。
「もうだめだ。力がこれ以上でない。この水の流れはいずこを終点としているのか見当もつかない。もうおぼれ死ぬしかないのか。」と、貫首は心細く悲哀の感情で満たされてしまった。やがて、その悲哀も極限までいったとき、仏と神に念じる気持ちが起こってきた。
「果たして わたしのいかなる過去の罪の報いとして、このような悲惨な目にあうのであろうか。」とあれこれ思いながらさらに流されていった。そうして、流され泳いでいる途中の波間に少し水底が黒ずんで見える所があった。「あの黒く見えるのは もしかしたらもとあった土地だろうか。」と思ったので、どうにかその位置に泳いでいってよく見てみた。すると、その黒く見えたのは 土地ではなくて 流れ残ったとるにたらない蘆(アシ)の葉の先細りの葉でしかなかった。結局期待したほんのわずかの浅瀬もありはしなかったのである。
仕方なく 「ここですこし休もう」、と思っているわずかの間に なにやら自分の全身のあらゆるところにまとわりついてくるものがある。非常に驚いて それは何であるかと、探ってみると、自分の体にまとわりついてきたものは すべて大きな蛇であった。大水で蛇たちも流されて、ここにあったわずかな蘆(アシ)の葉にひっかかって、次第に鎖のように長く連なって、数知れずそこに集まって居たということのようである。その蛇たちが 蘆の葉のところへ流れ着いた貫首の体にここぞとばかりに数多く巻き付いてきたのである。全身に大蛇たちが数多く巻き付いてうごめいているのは このうえなく気味悪く、厭(イト)わしいことはたとえようもなかった。
空は墨を塗ったように真っ暗で 星一つ見えることはない。あたりは見渡すばかりの白波で 少しの浅瀬も見当たらないのであった。わが身には隙間なくびっしりと大蛇たちが巻き付いて全身が重たい。もはや これ以上泳ぐだけの力も残っていないように思われた。地獄の苦しみといってもこれほどとは思えないほどの夢を見ているような気持ちになって、情けなく悲しみの感情で いっぱいになってしまった。
その最悪の心地となって呆然としている間に、しかるべき仏神(ブッシン)の救いの手があったのであろうか。意外にも水底の浅いところに流れ着き、その場に必死で取りついたのであった。そうして、そこで全身の大蛇どもも 片端からつかんで自分の体から引きはがして投げ捨てた。そうして、しばらく休んでいると、東の空が明るくなってきたので、当方に見える山を目印にして どうにかこうにか陸地に泳ぎ着いたのであった。そこで乗れる船を探して浜の方に漕いでいったのであるが、目も当てられぬ惨状であった。波に破壊された集落の家家(イエイエ)は、もはや木っ端(コッパ)の木片(モクヘン)へとなり果てていた。さらに、波打ち際に打ち寄せられた 男女および馬や牛といった家畜たちの数は 数えられないほどであった。
その数々の死体の中で、貫首の妻子や家人たち全部で十七人であったが、一人残らず遺体となって発見できた。そうして、泣く泣くもとあった家の方へ歩いて行って見てみると、三十町余りの広さの集落の跡が ただのなにもない河原へと化して何も残っていなかった。
あの多かった家々も、蓄え置いてあった食べ物やそのほかの種々のモノも、朝に夕にと召し使っていた奴(ヤッコ家つ子=使用人)たちも すべては一夜のうちに滅び消えてしまった。そのうちであの一緒に逃げだした男の郎等一人が 特に泳ぎが上手(ジョウズ)であったので、辛(カラ)くも生き残って、その翌日に貫首(カンズ)のところへ安否を尋ねて帰って来たのである。
このようなこの世の無常を示す話を聞くことの意義は、聞いた人が現世の仮想現実に厭離(エンリ、オンリ)の心を起こすためである。であるのに、このような話を聞いても自分には関係がない あくまでそういったハナシもあるだろうくらいに思って、「自分は そのような悲惨な事態には遭遇しない。」という根拠のない主張は いったいどういう根拠があって言っているのであろうか。この現世での人間存在の 人の身というものは はかなくて、壊れやすいものであるといえる。ヒトの世というものは、苦しみを集めて成しているともみれる。人の身は儚(ハカナ)いものであるけれど、いったいどうして一生の間 海や山を通らないで過ごしたりできようか。できはしない。
海賊が恐ろしいからといって、むやみに財産を今から放棄しなさいなどという極端なことをいっているのではない。海賊などという特例を持ち出すまでもなく、外に仕事に出かけて 我知らず 罪をつくってしまうとか、妻や子を養うために 無理を重ねて 結局わが身を滅ぼしてしまうといったことなど枚挙にいとまない。そのほか、人生において思いもかけぬさまざまの困難に遭遇すること、数知れずである。そうして、種々の障害に遭遇する理由も 夫々(ソレゾレ)まちまちである。そう考えると、結局 不退の国つまり浄土に生まれるということだけが、もろもろの苦しみにあわずに済ますことのできる唯一の方法であると思われる。
<20241103訳す>
<訳者より一言>
鴨長明は何より 方丈記 が有名ですが、その畳みかける災害描写の迫真性は 彼一流の筆致なればこそのモノであります。今回の 水害のハナシの描写も訳していてなんかまた方丈記読みたくなってきましたね。
彼の言っていることは 何時の世でも実は人生の枢要の問題であると確信します。ヒトは皆この世の安定や 安楽が永久に続くと錯覚しておりますが、それは実は儚い夢まぼろしである、というのは古来 歴史や物語でもなんどもなんども聞いているはずなのに、現実には
数学的確率論を無視したありえない 自分だけの幸福や 「何をやろうと俺の勝手だろ」とか、「みんなそんな心配だれもやってない」のような 阿呆の極致のような現実逃避に次ぐ現実逃避を重ねています。
まあ、身近にこういった根拠のない楽天お気楽主義で生きている人たちが 自分の場合 家族だったりするので 本当にこういった人たちの転落劇が始まったときに、その災害迷惑がこちらにくるのが最小限となるように平時にいろいろ手を打ったりしていますが、それも限度があります。これは各人の運命起動の破滅現象が発生した場合のハナシですね。これを逃れられるヒトは現実にはただの一人もいないんですが、どんだけ他人事なんだよ、という唖然とする現実をわたしは 家族の姿で実感しております。
一方 いたずらに目先が利いて 救済のためのカルトとかにはまって本末転倒の準備主張に他人を巻き込む 財産蕩尽する 最後は 自分自身破滅していく、という特殊な形態のニンゲンも 私は身近な家族や親族で直接観察していますね。これはこれで悲惨ですが、いったい上記二者のどっちがましなんだろう、と考えたとき、実はカルトにはまってる人間の方が まだましなのかも、と最近チト考えているんですね。
どのみち、戦後社会で 無宗教のニンゲンは 憲法秩序の エゴ第一の欲望追及自堕落ニンゲン主流で、多少正義感とか自分のエゴよりも 公の観念が強かったがゆえに カルト活動にはまってしまうという人間の比較ですね。
これどっちもどっちという気もするのですが、単純に「美しさ」という点では カルトに騙されて財産蕩尽させられているバカのほうが エゴ第一ではありますが、少しは公を名目だけであったとしても掲げて少しは考えている以上 多少まともなのかな、という感じです。
憲法秩序化の エゴ第一の自分のためだけにうまいもの食べて、旅行行って、テレビ見てというバカは これが高齢化すると目も当てられない 太った醜い化け物になってしまう、という実態をまじかに見ていて、この場合美しさのかけらもないモンスターになってしまうんだなあ、と結論せざるを得んですね。
破壊的カルトのバカ高齢幼児と 憲法秩序下のバカ高齢幼児は 実は 破壊的カルトに属した高齢幼児が多少ましなのかな、という 今のところ結論ですかね。
まあ、滅びゆく黙示録の獣の高齢幼児666としては どっちにせよ五十歩百歩の団栗の背比べかもしれんですけどね。