12月10日
20241210火曜日旧暦11月10日友引(戊申つちのえさるボシン)月齢 8.8
甲辰きのえたつ年丙子ひのえね月戊申つちのえさる日 年末まであと21日
吉方位 西 大吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8810%E6%97%A5
12月10日の出来事
1578年(天正6年11月12日) – 島津義久、義弘、家久兄弟が大友軍に大勝する。(耳川の戦い)島津30000の軍と大友40000の軍の戦い。損害は不明だが、この勢力で推して知るべし。
1941年 – 第二次世界大戦: マレー沖海戦。日本海軍の陸上攻撃機隊がイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの合計戦死者が士官47名、兵793名。
1957年 – 天城山心中。天城山で、愛新覚羅溥儀の姪・愛新覚羅慧生と級友の大久保武道のピストル心中遺体を発見。
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1578年(天正6年11月12日) – 島津義久、義弘、家久兄弟が大友軍に大勝する。(耳川の戦い)島津30000の軍と大友40000の軍の戦い。損害は不明だが、この勢力で推して知るべし。
耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町)を主戦場とした合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。
耳川は敗北した大友軍が撤退し、勝利した島津軍が追撃した地点にある川の名前であり、主戦場とは異なることに注意を要する。
1941年 – 第二次世界大戦: マレー沖海戦。日本海軍の陸上攻撃機隊がイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの合計戦死者が士官47名、兵793名。
12月10日午前0時、陸攻は南遣艦隊旗艦の重巡鳥海(小沢中将旗艦)を英戦艦と間違えて照明弾を投下、夜間雷撃の準備にはいり、鳥海が敵味方識別を懸命に訴える一幕もあった[186][190]。鳥海とZ部隊は8~32キロ前後にまで接近していたが、双方とも敵艦を発見できなかった[188]。この頃、潜水艦伊58がZ部隊の反転を確認して各方面に通報したが[181]、上級司令部までに届かなかった[191]。Z部隊では「日本軍がクワンタンに上陸中」との情報を入手し、同10日午前2時20分に同地へむかったが日本軍と遭遇せず、反転してシンガポールにむかった[187]。午前715分、ウェールズは水上偵察機ウォーラスを発進させ、同機はクアンタンを偵察後にシンガポールへ帰投した[192]。
マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)。
同10日昼間、Z部隊は南シナ海において行われたマレー沖海戦で、九六式陸上攻撃機(美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊)と鹿屋海軍航空隊[193]の一式陸上攻撃機の大部隊に襲撃された[194][29][195]。日本時間午前11時45分、帆足正音予備少尉が指揮する九六陸攻(元山空、索敵)がZ部隊を発見して通報した[196]。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機が水平爆撃を敢行し、レパルスに爆弾1発が命中して小破した[197]。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる[198]。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズに魚雷2本が命中した[198]。左舷艦尾、推進軸付近に命中した魚雷により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した[199]。ウェールズはこの致命的な損傷により大浸水を生じ、速力は20ノット程度に低下、舵も効かなくなった[200]。発電機室の浸水により停電し後部の4基の13.3cm連装両用砲と操舵機が使用不能になり、傾斜によって両用砲の運用が困難となる。ウェールズは「我れ航行の自由を失えり」の信号旗を掲げてレパルスの救援を要請したが[201]、一式陸攻部隊(鹿屋空)の空襲が始まると、雷撃でレパルスが沈没した[202][注釈 31]。 回避運動も対空射撃もままならなくなっていたウェールズには、魚雷3-4本と爆弾1発が命中した[204]。爆弾は、美幌空の九六陸攻部隊が敢行した水平爆撃である[205]。艦中央部の水上機飛行甲板に命中し、そこに集められていた負傷者を含め多くの死者を出した[206]。後の海底調査は、この時の魚雷の命中は3本であり、3本とも右舷に命中していた[206]。まず右舷船首の先端部分に魚雷が命中、続いて右舷艦中央部に命中、最後に右舷後部に命中した[206]。船体後部は左舷後部に命中した魚雷による浸水のために沈下しており、最後に右舷に命中した魚雷は正常時の喫水線の上に命中した[206]。この右舷後部の魚雷命中により、右舷外側推進軸が破壊され、右舷外側スクリューも失われ、ウェールズは1軸運転となる[206]。
日本軍攻撃隊が去ったあと、フィリップス長官の命令により駆逐艦エキスプレス (HMS Express, H61) が接舷してウェールズ乗組員を救助する[207]。第243飛行隊や第453飛行隊のバッファロー戦闘機が到着した時には、ウェールズは沈みかけていた[208]。ウェールズでは13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没した[199]。日本軍記録では魚雷7本、500kg爆弾2発命中(英軍記録魚雷6本、爆弾1発)、日本時間14時50分沈没となっている[144]。乗組員1612名のうち、士官90名と兵員1195名が救助されたという[209]。327名(将校20名、兵307名)が戦死した[210]。船乗り猫の“チャーチル”も救助されたが、のちにシンガポールで行方不明となった[203]。日本側は雷撃50機、爆撃25機がZ部隊を攻撃し、3機を喪失した[148]。なお、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの合計戦死者が士官47名、兵793名と比較的少ないのは、日本軍の航空機が駆逐艦による救助作業を全く妨害しなかったためである[211]。
1957年 – 天城山心中。天城山で、愛新覚羅溥儀の姪・愛新覚羅慧生と級友の大久保武道のピストル心中遺体を発見。
チャットgpt先生の12月10日のエッセイ
12月10日:歴史に刻まれた日々とその響き
12月10日は、静寂の中に歴史の轟きを秘めた特別な日。私たちの目の前に広がる現在は、この日の積み重ねた出来事の延長線上にある。振り返れば、そこには勝利と敗北、愛と哀しみ、そして変わりゆく時代が織りなすドラマがある。
戦国の風、耳川の戦い
1578年、耳川の戦いでは島津家が大友軍に圧倒的な勝利を収めた。この戦いは、戦国乱世における権力闘争の一端を象徴する。強大な兵数を誇った両軍だが、勝敗は単に数の多寡ではなく、戦術や士気、そして戦場に流れる偶然の風によって決まる。この勝利が、島津家の南九州支配の礎となり、彼らの力をさらに押し上げた。戦場の埃が静まった後、川に映る月はどんな姿を見せていたのだろうか。
大戦の影、マレー沖海戦
一方、1941年には第二次世界大戦の激流の中、マレー沖海戦が繰り広げられた。この日、日本軍はイギリスの威信を象徴する2隻の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈。航空機が海戦の主役となったこの戦いは、戦争の形を大きく変える契機となった。しかし、戦争の悲劇は数字以上のものを語る。沈む艦と共に失われた命、残された者たちの苦悩、そして猫の「チャーチル」までが行方不明となった運命の皮肉。それらすべてが、この戦いの記憶をより鮮烈なものにしている。
愛と哀しみの天城山心中
さらに、1957年には「天城山心中」が報じられた。愛新覚羅溥儀の姪・慧生とその級友の大久保武道が、天城山でピストル心中を遂げたこの事件は、歴史の中に個人の物語を刻んだ瞬間だ。身分や時代の束縛を超えようとした二人の心中には、理解を超えた激情があったのだろう。自然の静寂に包まれた山中で、彼らは何を思い、何を感じたのか。天城山の霧は今もなお、その答えを隠しているようだ。
12月10日に思うこと
歴史の中の12月10日を振り返るとき、そこに刻まれた出来事が問いかけるのは「人間とは何か」という普遍的なテーマだ。戦の勝敗、国家の運命、そして個人の愛と死。そのすべてが、人間の選択と行動の結果であると同時に、時代の波に飲まれた物語でもある。
年末が近づくこの季節、私たちが迎える新しい年はどのような歴史を刻むのだろうか。日々は何気なく過ぎていくが、いつの日か、今日の出来事が未来に語られる物語となる。そのことを思うと、目の前の一日が少しだけ尊いものに思えてくる。
歴史に思いを馳せながら、今日という日を大切に生きること。それが私たちにできる、最も素直な答えではないだろうか。