以下詳しくは元サイト様で学んでください。
私は個人的なメモ書きとして、ここに抜粋し記させていただいております。
元サイト様心より感謝申し上げます。
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創価学会の喧伝で誤解があるが 日蓮は平和主義者ではない 間違いがあれば武力行使 罪人は死刑 という考えの持ち主である 相手にしていたのは軍人ばかり つまり武士だけだった
佐々木閑『科学するブッダ』犀の角たち を読む
佐々木閑『出家的人生のすすめ』を読む
先に日蓮の花押の鍵手・蕨手の意味は ン ではない、月であるで日蓮門下の判形相伝をいくつか挙げた。
・鍵手・蕨手と呼ばれてきた
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は「はらい」手と日朝は呼び、梵字で読みは「ダ」である。月、月支を表す。
・左側下
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は梵字
(ボロン)であり、如意宝珠、つまり摩尼宝珠である。星、唐(漢土)を表す。
・署名の日蓮は、日(太陽)、日本を表す。
概ね、以上の相伝があり、日蓮花押は日・月・星の三光、日本・中国・印度の三国を表すという。
日蓮が日とはその名前のとおりであるが、
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の月、先に種々検討してきたけれど、月とは心を意味するのではないか。
が如意宝珠というのは、日蓮が虚空蔵菩薩から授かった珠であり、連想すれば、虚空蔵、明星を意味するのではないか。また、『観心本尊抄』には「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令」といい、一念三千を珠という。つまり、月(心)に珠(一念三千)を表しているのだと思える。
以上は、先に記したことのおさらいである。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52205776.html5
わたしの気持ちのなかには、宇宙だ、生命だという創価学会の仏法や日蓮教学“解き”に対する憤りがある
本当に心底くだらないと思うし、この汚濁を如何に日蓮理解から取りのぞくかに苦慮してきた
さて、日蓮の理解には天台学は必須であり、その基本的な理解がないと限りなく脱線する
しかしながら、日蓮は天台学の迹門中心を、本門中心とし、殊に地涌の菩薩を重視した点に特徴がある
しかも、日蓮は、いわば法華経典から一念三千、さらに唱題のみへと、晩年になるほど先鋭化していく
この時系列を無視すると、日蓮が法華経や、一念三千の宣揚で終わったと勘違いが生じる
いわゆる三大秘法は、日蓮の教学の中では別枠である
いわば上一人の授戒を意識したものであり、万民に当て嵌まるものではない
また、漫荼羅は特に選定された弟子檀那に与えたものでこちらも万民に宛てたものではない
三大秘法と漫荼羅が万民に宛てたように解釈したのは民主主義と民主平等に馬乗りした創価学会の改変、もっと具体的に言えば正本堂という似非戒壇の金集めと、漫荼羅複製の乱売のためのでっち上げに他ならない
彰往考来師頂戴資料(21)平野元三郎著『房総の虚空蔵信仰と日蓮聖人』
清澄寺と信義真言との関係、また、「不思議法師」の実在の可能性など、興味津々と拝読した。
まったく、いまわたしが愚見するテーマからは外れるのだが、虚空蔵菩薩は鰻にのって現れるので、虚空蔵菩薩を祀る地方によって、鰻を食べない風習があったのだという。この点については佐野賢治著『民俗学研究』(1976.12号)に禁忌の歴史民俗学的一考察としてまとめられているのだという。(P349)
彰往考来師頂戴資料(20)薗田香融著『古代仏教における山林修行とその意義』
1自然智宗(P144)
・山寺…古代仏教の本すじは、朝廷や貴族のいとなむ官寺・氏寺を中心として発展してが、これらとは別個に、幽邃な深山に、僧尼が自身の「精進練行」のためにいとなんだ山林寺院と、そこを根拠とする山林仏教の流れが存在した…浄行者(P143)
・神叡…芳野僧都(P144)
・最澄の文献…『顕戒論』巻中「開示唐一隅知天下上座明拠」…「何況比蘇自然智」・『法華秀句』上末…「比蘇及義淵、自然智宗…」(P145)
・護命…月之上半入深山…(P146)
・神叡-尊心-護命(同)
・自然智宗の起源…奈良町初期以来…教学の上でも、あるいは僧綱政治の上でも、奈良仏教を代表する最有力の学派(P147)
・最澄『内証仏法血脈譜』所引の「吉備真備纂」の道[王*(叡-又)]…三論集に造詣が深かった…(P147)
・最澄撰『大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集』…「比蘇」(P148)
・最澄は入唐以前に、すでに天台の宗義を知っていた。それは道[王*(叡-又)]や、法進(鑑真の随僧)のもたらした教籍によって啓発されていたからであった。
・「生知」(生まれながらの知)を尚び、「学知」(学習の知)
・われわれは二つの新しい事実をつけ加えることができる。一つは、道[王*(叡-又)]が、やはり自然智宗の一員と考えられたことであり、もう一つは、「自然智」の解釈の上に、最澄が「生まれながらの知」といい換えていることである。
・比蘇山における山林修行は、後天的な学習によって獲得せらるる「学知」と対照せられるような、「生知」すなわち「生まれながらの知」を獲得することを目標としたのであろう。(P149)
・「自然智宗」は、三論とか法相とかの特定の宗派・学派に関連するものではない。(P149)
2 求聞持法(P150)
・『元亨釈書』…比蘇山寺…神叡…「世言。得虚空蔵菩薩霊感」…養老3年
・1.虚空蔵菩薩法…大虚空蔵菩薩護念誦法…福徳・智慧・音声…唐・不空
2.五大虚空像法…五大虚空蔵速疾大神験秘密式経…増益・息災・所望…唐・金剛智
3.虚空蔵求聞持法…虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法…求聞持…唐・善無畏
・比蘇山…自然智宗…「虚空蔵求聞持法」によって「聞持」の智慧を得ることを目標とした山林修行の一派
・『五十巻鈔』(P152)
・「自然智宗」の行者たちが行った修法は、真言密教の最も典型的な一修法だった
・勝虞
・唯識(有宗)や三論(空宗)の学習を努める学僧たちが、記憶力の増進を希って密教的修法に熱中している間にしらずしらず空有の観念論を超える高次の到達していたのかもしれない。思想は非思想的なものを媒介としてのみ、前進することができる(P155)
3求聞持法の伝来と発展
・空海がいう「一沙門」(P156)
・入唐した道慈が「求聞持法」を請来し、これを善議→勤操と大安寺三論学派に伝授したことはかなり信用してよいのではないかと考えている。その理由は、道慈が帰朝したのは養老2年のことであるが、それははるばる中印度から長安に到達した善無畏三蔵が、「虚空蔵求聞持法」1巻を訳出した翌年に当るからである。帰朝まぎわの道慈が、この新訳出の1巻を携えて帰ったことは、大いにありうべきこと…『玄宗朝翻経三蔵善無畏贈鴻臚卿行状』…『宋高僧伝』(P157)
・『覚善鈔』には求聞持法の「法験事」として、護命と共に道昌の事績をあげている。(P158)
・道詮…『僧綱補任』巻一裏書(P159)
4官寺と山房
・如法修行(P160)
・「浄行」はすなわち「如法修行」(P161)
・「一たび耳目を経れば、文儀倶に解し、之を記して永く遺忘せず」(続日本紀、養老3年11月乙卯条)
・暗誦を学解の埒外に置こうとする考え方自体がすでに現代的な思惟(P162)
・「求聞持法」の修法は、記憶力の増進という即身成仏の補助手段(
・浄土経は即身成仏を否定し、彼土入証・往生成仏
・山林修行の役割について…山林仏教が、古代人の現世意識と直接対決する。かしこの谷こなたの山に、「別所」がいとなまれ、僧尼は「聖」となり、民衆は直接、山林行者に結縁しようとした。浄土教はこうした場面から醸成された。民衆は、聖たちの聖性の分譲ということでは満足しなくなった。成仏の可能性の否定とうことから中世仏教は出発するのである。(P163)
彰往考来師頂戴資料(20)薗田香融著『古代仏教における山林修行とその意義』
― 特に自然智宗をめぐって ―
この叢書のテーマが虚空蔵信仰であり、よって、薗田師が取り扱う“山林修行”とはそのラインからの考証になっている。
副題でいう自然智宗については、先の『安房国清澄寺宗派考』で高木豊師も取り上げていた。当論攷のほうがよりしっかりとした説明になっている。
知っておくべき点は求聞持法は自然智宗によって継承されたということだった。また、こうした修業の場は、国家運営の寺院とは別に山寺で修されていたものであること。しかし、山寺はけっして官寺と別個に成り立っているのではなく、官寺にあるものも月半分は山寺にあるという具合に密接な関係にあったこと。
自然智とは、学知に対する“生知”であること。ならば、本来、生まれ持った知恵の発露に相違なく、虚空蔵信仰、求聞持法という如法修行の“取り返される”ものであること。つまり、その脈絡は即身成仏にあること。
やや横道だが、浄土念仏は、此土即身成仏を否定する立場にある。このことと、日蓮の浄土批判は何らかの関係あると思えた。
当論攷の奥付を見ると「昭和41年」とある。となれば、わたしは小学校5年の頃に当たる。つまり、今から45年前の玉稿である。
溜息が出た… 何故ならば、彰往考来師からご提供をいただき、ここのところ、あれこれ愚案してきた骨組みのいくつか、この2段6頁のなかに既に尽くされていたからだ。
・日
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(吽)と法鑁が同一人物であること。
・『五輪九字秘釈』日吽本は日蓮写本を、さらに写したものであること。
・日蓮と日吽が師弟関係であったという類推。
・日蓮の清澄山退出は建長6年9月3日以降であること。
ざっとこうした点を、45年も前に高木豊師は言い当てている。
なお、「醍醐寺『理性院血脈』」についても言及されているが、これは’05年にブログでも記した「『日蓮』掲載 「もう一人の日蓮」 再読』で、のちに再考されている。
現段階で、“二人の寂澄”の判別が、まだしっかりと整理できていない。
日吽の弟子という寂澄と、院主は別人であるのか。それにしても、かなり年齢差はあるものの、同時代に同じ名前の、それも歴史に名を残す人物が共存していたというのは、どうにも理解し難い。
「山川は、清澄寺が真言宗となった時期を考え…弘賢…明徳3年当時、清澄寺は真言宗醍醐三宝院流親快方、あるいは地蔵院流の法派」(P558)
「日蓮遺文に即して考えれば、伝日興書写の『立正安国論』に「天台沙門日蓮勘之」とあることから、さらに『法華経題目抄』に「根本大師門人日蓮撰」とあることも、清水の論拠に加えてよかったのではないか」(P559)
「日蓮撰『本尊問答抄』(直弟日源写本)」(P562)
「求聞持法…これは空海にはじまるのではなく、遡って奈良時代、山寺に虚空蔵菩薩を安置し、自然智=記憶力の増進を祈って求聞持法を修することによりこれを達成しようとする僧団があった…自然智宗」(P564)
「文明15(1483)書写の『慈覚大師建立求聞持七鈔』…丑寅三弁宝珠現鏡中」(P565)
“山寺”の用例、「清澄山寺ともいえる場」(P567)
“上人”の用例(P568)
「寂澄は大和国の人で照道房と号し、叡尊に菩薩戒を受け、叡尊の関東往還に随行、懺法(法華懺法カ)勤修の祈りには、調声(導師の音頭)を行なった僧であり、仏法興隆のため宋から将来された律書を、「西大寺衆首比丘」叡尊から一期の間預けられるほどの弟子であった。そしてまた、小野流の三宝院流親快に継承した実勝から受法している」(P570)
彰往考来師頂戴資料(14)小林芳規著『國語史研究史料としての中山法華經寺藏三教指歸注』
遺文からのみでストーリーを追えば、そうも思える。しかし、漫荼羅には不動愛染、そして摩尼宝珠、あるいは
(バン)、あるいは一字金輪という真言義を内秘されている。「漫荼羅」という表記も一行が訳出した『大日経』、また『大日経疏』の用句ではないか。岡田栄照師の言を籍りれば「、「日蓮の宗教を考察するに際し、密教を無視することは絶対に不可能である」。同師が『空海と日蓮』で指摘するとおり、『立正安国論』は空海著『三教指帰』の影響をもって紡がれている。こうした点は、日蓮のおける真言の受容は、開会と言ってもよいと思うが、ともかく、漫荼羅と教義のなかにしっかりと看取できるのだ。
近世宗学はいうなれば訓詰註釈の学として日蓮遺文にあらわれる表現の典拠をかかげ、原典を推定しきたのであるが、何故かその典拠を空海の著作に比定することを回避しているように思われてならない。
日蓮が修学中、空海の著作に親しんでいたことから類推する時、この方面の検証が拡大深化されねばならぬであろう。
彰往考来師頂戴資料(11)北川前肇著「日蓮聖人の『立正安国論』と『三教指帰』」
もっとも北川師によると、日蓮への『三教指帰』の影響にいち早く着目したのは、行学日朝で「御書見聞集」の『安国論私抄』であるという。(P60)
15世紀のことになる。以来、500年間も、北川師が改めて論述するまで、議論されなかったのか。疑問に思う。
彰往考来師頂戴資料(10)ルチア・ドルチェ著『儀礼により生成される完全な身体』
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『日本における宗教テクストの諸位相と統辞法(The Global Stature of Japanese Religious Texts / Aspects of Textuality and Syntactic Methodology)』(阿部泰郎編 2008 名古屋大学大学院研究科、第1部基調講演)所載)『儀礼により生成される完全な身体 ― 中世密教の“非正統的図像”と修法をめぐって ―』、著者・ルチア・ドルチェ(ロンドン大学・SOAS 日本宗教研究センター)。
この資料については、梅沢恵師が『日蓮筆「不動愛染感見記」について』で参照している。また、阿部泰郎師は、先に阿呆陀羅經師がご提示くださった資料『文観著作聖教の再発見-三尊合行法のテクスト布置とその位相』の著者である。今回の話は、文観、三尊合行法へと収斂する。
なかんずくこうした文献が、日蓮宗が開催した特別展の図録『鎌倉の日蓮聖人』に載ることは、つまり、日蓮門下における漫荼羅理解が、この段階まで足を踏み入れていることを意味するのだろう。
「この段階」とは、日蓮漫荼羅における不動愛染梵字から三尊合行法に相通じる真言密事を読みとるという意味である。
さて、講演者であるドルチェ師は「日蓮の著作の中に、有名な『不動・愛染感見記』というものがあり、そこでは不動と愛染がそれぞれ月と太陽に関連づけられている。このテクストは私が三尊合行法に興味をもつようになったきっかけである。…二明王はペアになっていて、三尊形式で描かれていないが、時代が下がった14世紀の資料では、これとちょうど同じ形の二明王形式で表現されているのを見ると、日蓮の図像も如意宝珠を中心とした観想のプロセスと関係しているのかもしれないと思わせる。ここで参照にされるのは、宇治の三室戸寺の室町時代の摩尼宝珠曼荼羅である。・日蓮の文字曼荼羅、いわゆる法華経大曼荼羅は、中央の法華経の両側にに不動と愛染の種子が配されており、これも三宝院の三尊合行法の考え方に近く、影響されているのかもしれない」(P70)という。
ここでドルチェ師が挙げる曼陀羅は安2(文永9年2月16日)である。師が中央7文字を宝塔に凝すといった日蓮門下の発想を知っているかどうかは言及されていないのでわからない。しかし、仁和寺蔵『御遺告大事』に載る図、すなわち、五輪塔の左右に不動愛染といった形像図を挙げる。明星=虚空蔵=宝珠といった関連は師が知らないわけもなく、こうした前提で、南無妙法蓮華経を判断するからこそ、日蓮曼陀羅をもって三尊合行法に近い考えと取り沙汰されるのだろう。
なお、ドルチェ師が、モデルに選んだ安2は、わたしはこの比較にとっては、やや相応しくないと思う。何故ならば、この曼陀羅ばかりは、不動愛染の位置関係が、他と異なって左右逆だからだ。左愛染・右不動の他の曼陀羅・漫荼羅を挙げたほうがよかっただろう。
それにしても何と、わたしが2006年から5年間、考え続けてきた日蓮漫荼羅に秘された摩尼宝珠と不動愛染について、国際会議の場で議論がなされ、ほぼ、同様の結論に達していたのだ。わたしはただ50年の長きに亘って日蓮漫荼羅を配してきた直感から書いた。だから、そんな愚鈍蒙昧な愚見とドルチェ師のごとき論説を同一俎上の論じるには憚りがある。しかしながら、日蓮漫荼羅には摩尼宝珠曼荼羅を内秘されているという気付きは間違いがなかったという確信を支えてくれた。
この時点でわたしは『観心本尊抄』の「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」との一節から、妙法蓮華経五字に裹まれる一念三千宝珠と不動愛染という相関を観ている。たぶん、ドルチェ師の考えも同様なのだと思う。
しかし、その半年後、既に何度も引用したが、日蓮の前期花押は、梵字摩尼を表象したものであることに気付く。そして5年を経て、後期花押が一字金輪へと変わり、かつ不動愛染と相関することにも思い至った。
わたしがネット上で書き殴っているだけのことと思っていたことは、実は日蓮漫荼羅理解の、現段階と同じステップを踏んでいたのだ。正直、驚きを禁じ得ない。さらに蛮勇を敢えて誇れば、妙法蓮華経の五字に裹まれた宝珠から、さらに日蓮花押に摩尼宝珠を密説されていると観る点で、画竜点睛を打ったと自負したい。
彰往考来師頂戴資料(9)真鍋俊照著『空海請来梵字法身偈と摩尼宝珠曼荼羅』
驚くことに、真鍋師は、実に1200年来、その行方も意味もわからなかった法身偈につき、ここで解明している。
「仁和寺『摩尼宝珠曼荼羅』に記入されている梵字をみると、平安時代から鎌倉時代にかけて行われていたという如意宝珠法で唱えられていた真言・陀羅尼とはやや違う内容…それではこの摩尼宝珠曼荼羅の梵字とは何であろうか。実はこれこそ正しく縁起生偈(PratIyasamutpAda)の偈文なのである。この偈文は後に法身偈と別称されるようになるが、これこそ空海が請来した偈文と断定したいのである」(P72)
では、具体的に法身偈とは、
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では、具体的に法身偈とは、

(2) hetu tesAM tathAgato hraM evaM vA,
(3) dI tesSAM ca yo nirodha,
(4) evaM vAdI mahAsraveNa
(1) いかなる物事も縁〔因縁〕によって生起する。
(2) 如来はそれらの因〔原因〕を説くものなり。
(3) またこれらの滅〔滅尽〕を
(4) 大沙門が説かれたものなり
一般的な漢訳
諸法従縁起
如来説此(是)因
彼法因縁尽
是大沙門説
彰往考来師頂戴資料(8)梅沢恵著『日蓮筆「不動愛染感見記」について』
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著者である梅沢恵師については、不勉強にして存じ上げなかった。しかし、この論攷は、溜息が出る程の秀作だ。不動愛染感見記と摩尼宝珠曼荼羅の関係を見事に分析している。
図は、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅の全体(左)と上部三光図(右)部分である。
目次は以下のとおり
1曼荼羅本尊における不動・愛染の種子
2日蓮自筆「不動愛染感見記」
3「不動愛染感見記」の内容
4三室戸寺摩尼宝珠曼荼羅の三光図像
5「四帖秘決」「日愛染月不動事」
おわりに
三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅を、わたしは不動愛染感見記に先行するものと、どこか勘違いしていたが、実際は室町期であった。
梅沢師が相似・相違を分析されているが、たぶん、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅は不動愛染感見記を参考にしたものではないように思える。
日蓮以前に原画があり、鎌倉期には日蓮に、室町期には摩尼宝珠曼荼羅に影響を与えたのだろうと思える。これはもちろん、現段階の憶測に過ぎない。
梅沢師は慈円(1155~1225)口伝を弟子慈賢が記した『四帖秘決』の「日愛染月不動事」を引用し、「生身」に言及する。
「『以凡夫肉眼奉見生身仏。日愛染。月不動中…』…日蓮の言葉の中に「生身愛染」、「生身不動」とあることを考えれば・「生身仏」との一致は注意されてよいだろう」(P157)
以下の推測はリアリティを覚えた。
「『四帖秘決』は慈円の口伝所書として比叡山内で伝領されており、遊学中の比叡山において、日月、三光の図像について知る機会があったのではないだろうか」(同)
彰往考来師頂戴資料(7)寺尾英智著『鎌倉の日蓮をめぐる三つの日付』
寺尾英智師が言う「鎌倉の日蓮をめぐる三つの日付」とは、(1)鎌倉進出の時期(2)松葉谷法難(3)伊豆流罪の従来説へ、経年で歴史資料を精査され、改めたものである。
試みに大石寺版『冨士年表』で、この三つを見てみる。
(1)1253 建長5 4.28 ○ 草庵を鎌倉松葉ケ谷に構う(勅願所広布録)
(2)1260 文応元 8.27 松葉ケ谷法難(…霊記)
(3)1261 文応2 5.12 伊豆配流・日興供奉
先に挙げた『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』でも、寺尾師は解明をされていた。師が根拠とされるのが、冒頭に挙げた『災難対治鈔』(市川市中山法華経寺所蔵)。
「『吾妻鏡』…建長8年8月6日鎌倉で大風雨があり、山崩れで死者が出た多数出たことが記録されている。ところが日蓮は、災難に言及する場合はこの大風雨をはじめとして、この前後に起きた暴風や地震などについて示すことはない…建長8年8月とは災難興起の起点を示したものではなく、日蓮が鎌倉に進出した時点、それは種々の災難を鎌倉で実際に体験しはじめた時期でもあったのである」(P147)
説得力がある。
(2)松葉谷法難
さして、気にも留めず、従来説をそのまま、鵜呑みにしていたのだが、松葉谷法難の日付は確定的な証拠に基づいていなかったことには、いささか驚いた。
寺尾師は、遺文はもちろんのこと、経年順に、日澄『日蓮聖人註画讃』、日朝『元祖化導記』、日精『日蓮聖人年譜』、豊臣義俊『法華霊場記』、日省『本化別頭高祖伝』、日諦・日耄『高祖年譜』、小川泰道『日蓮大士真実伝』と精査している。しかも、古来の門下の年中行事には四大法難の一つに松葉谷法難は数えられながら、法難会が営まれなかったことを挙げる。未詳であった証左である。
つまり、『論談敵対御書に記される弘長元年5月12日に松葉谷で襲撃を受け、翌日13日に伊豆へ送られた2日間の出来事だという。
従来説では松葉谷法難から8か月を経て、伊豆へ流罪とされるが、これほど時間を空くと読みとることに困難を感じると、寺尾師は指摘する。
結論していうところに頷けた。
「5月12日という日付は、日蓮がいうところの王難の日付として、確定して行く。日蓮が入滅したとき、日興は『宗祖御遷化記録」に
一、弘長元年五月十二日、伊豆国に流さる。御年四十 伊東八郎左右衛門尉の預かりなり。立正安国論一巻を造り西明寺入道に奉る故なり。同じき三年赦免。
と記録したのである」(P149)
こうして、累ねられた研究によって、旧説を改めていくことは、実にけっこうなことであると思う。
彰往考来師頂戴資料(6)宮川了篤著『日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』
では、日蓮は修法をいつ行ったか。
遺文から探る限り、具体的に「虚空蔵求聞持法を修した」といった記述は見られない。しかし、宮川師は「本稿で『不動・愛染感見記』『伯耆公御房御消息』等の遺文を考察し、日蓮と求聞持法の関係を明らかにしようと試みる」(P188)として論攷を進められている。
・『伯耆公房御消息』と求聞持法
『不動・愛染感見記』と求聞持法との関連は、何となく、想像できる。だが、『伯耆公御房御消息』を挙げることは、意味を採りかねた。しかし、師の解明を経、大いに納得できるところとなった。この点を先ず、忘れないうちに、先に記してしまおう。
「『伯耆公房御消息』…ここで求聞持法と関係ありとする文は、「明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給い候」の箇所のみである。求聞持法の口伝の一つにあげられるものに、閼伽水事がある。『覚禅鈔』では「口云。閼伽水ハ行者汲レ之。(中略)寅時以前不レ汲」と説き、『渓嵐拾葉集』では
一。閼伽水事。示云。求聞持法ノ法ハ取レ水作法最極ノ秘事也。灌頂一箇ノ大事有レ之口傳云云(中略)一。取水時分事 示云。丑ノ終リ寅ノ時ト者龍神吐レ水ヲ時分也。仍テ難陀跋難陀ノ二龍居テ2須弥最低大海底1吐レ水ヲ也。故ニ寅ノ初ニ成スレハ大海ノ水生レ波音発ル也
と説明している。以上によって判る如く、求聞持法の秘事である、取水の刻限を指定しているのである。これは日蓮自身が求聞持法を修した経験の証左といえよう」(P204)
『伯耆公房御消息』は、定本番号:428、祖寿:61、系年:弘安5(1282)著作地:身延、真蹟:日朗代筆、正本富士大石寺蔵である。日朗代筆であるため、日蓮真蹟とは考えず、内容についてよくよく吟味したことはなかった。このような所に、しかし、“ツボ”があるものだと思ったものだ。
・虚空蔵から宝珠を授かった時期
宮川師は「日蓮は12歳の時から毎日作法次第に準じ、虚空蔵菩薩へ供養を捧げ、時には求聞持法を修したであろう。それ故に虚空蔵菩薩から智慧の寶珠を授かるという、顕祈顕応とも云うべき原体験を得た…虚空蔵菩薩が現前に高僧となって現れ、智慧の寶珠を袖に授けたのである。時に日蓮16歳の出家の年とみたい」(P199)とする。
では、12歳から16歳の間に、求聞持法をただ1度修したとするのが宮川師の見解か。そうではないようだ。
「真言宗中興の祖といわれている真言宗信義派の開祖で伝法院流の祖と仰がれる覚鑁(1095~1143)をもってしても8回目で結願を迎える程の難行」(P187)と例を引く。つまり、日蓮も、ただ一度で満願したのではないと言うのだろう。
師は、虚空蔵菩薩が16歳の日蓮に寶珠を授けたとしたあとに、33歳の書である不動愛染感見記を検討する。実に16年の歳月の隔たりがある。その間、日蓮は何度となく、求聞持法を修す。そして、建長6年正月に、これを成就する。そして、書されたのが不動愛染感見記であると結論される如くである。
・建長6年正月、日蝕と月蝕の意味
近代、天文学上の計算から、旧暦の建長6年元旦、つまり新暦でいえば1254年1月21日に日蝕はなかった。そのために感見記には疑義があるという人もある。しかし、宮川師は佐藤政二著『暦学史大全』上巻「第2編・第1章、鎌倉時代から江戸時代初期までの暦学の沿革について」を取り上げて論攷されている。「1日(朔日)は毎月日蝕であった事が判り、15日は月蝕」(P203)という当時の捉え方を挙げる。
愛染感見記に「元旦」(朔・1日)というのは日蝕(䖵)、不動感見記に15日から17日(望)というのは月蝕を意味する日付という解釈である。
換言すれば、鎌倉時代当時、盛んだった求聞持法は、日蝕月蝕を何年も待つことなく、1日・15日を満願日として修されていたことを意味するのだろう。日蓮もまた、その慣例に倣ったことになる。
宮川師は、不動愛染感見記の存在こそ、日蓮が求聞持法を修した証拠の一つであるとする。腑に落ちる。
師は小結として、以下のように記す。
「日蓮自身が求聞持法を修した行者だったが故に、『伯耆公御房御消息』に見える取水の刻限まで指摘できるのである。さらに『不動・愛染感見記』はまさに求聞持法を修した結果であろう。この『不動・愛染感見記』は筆者(宮川)に疑問を残してくれた。疑問点は建長5年4月28日に清澄山で立教開宗宣言をしているのにも拘わらず、翌6年に法華経に説示されていない不動・愛染を感得し、しかも図絵にしたのか。これは同時に開宗後、日蓮は鎌倉に行ったという日蓮伝を覆すことになる。開宗後、日蓮は清澄山に翌6年6月まで居たとするのは推察することは少々冒険であろうか」(P206)
先の『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』では寺尾英智師は、日蓮の鎌倉進出を建長8年とした。日付の相違はあるが、宮川師もまた、従来説に疑問を呈している。
・「日蓮授新佛」について
わたしは宮川説には齟齬を来すことがあると思う。以下の点である。
感見記には「日蓮授新佛」と書かれている。訓読すれば「日蓮は新佛に授ける」ととなる。しかしそうなると、いくつか疑問が生じる。そもそも求聞持法の結果、感見記が生じたのであれば、日蓮が授けるというのはおかしいではないか。
感見記が求聞持法満願を証する書だとしよう。
新佛とは新発意菩薩、新たに灌頂することと思われる。
感見記は、日蓮が新たに灌頂をしたというのである。
ならば、意味するところはこうではないか。
つまり、日蓮の弟子に当たる者が、建長6年6月に求聞持法を満願成就した。それを期して、日蓮が密教灌頂をした。
そんな弟子がいたのかと、疑問は生じる。だが、この建長6年、日蓮から密教灌頂を受けたおぼしき人物が、一人だけ思い浮かぶ。先の寺尾英智師の『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』で言及される日蓮写本『五輪九字明秘密釈』を、日蓮の許で、清澄寺で写した日
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(吽)である。文献に遺る人物で当て嵌めれば、他にはいない、もちろん、これはまったくの憶測に過ぎないが。
違う視点から考える。
わたしは灌頂に係る証文などは見たこともない。だから、感見記がそうした体裁を整えているかどうかも皆目見当がつかない。それでも、「授」という限り、そうした意味が籠もるようには思う。証文や、允可証の類であれば、実際に受け取る者の名前があって然るべきである。しかし、感見記で名前が出るのは、ただ「日蓮」ばかりではないか。あとは大日如来で、已来、23代の相承という。これはいったいどのような訳だろうか。
過日、大木道惠師とも話していたのだが、「日蓮授新佛」の読み方を、私たちは根本的に間違えていないか。“被”が落ちているのではないか。つまり、“日蓮が新佛を授かった”という意味ではないのか。
では、日蓮は誰から授かったのか。求聞持法を修した師から授かったのであれば、感見記は日蓮の字であること自体おかしい。
日蓮が書き、そして、日蓮自身が授かる可能性はあるのか。
あるだろう。大日如来、もしくは虚空蔵菩薩からである。仏菩薩は感得できても字は書かない。となれば、感得した本人自ら書くしかない。
相承したのは大日如来か、虚空蔵、授かったのは日蓮という感得である。
「自解仏乗」、このとき、自ら日蓮を名乗ったという想像は、心躍るではないか。
そしてまた、こう考えれば、宮川説は齟齬を来さないこととなる。
感見記の図は日蓮が描いたのか
彰往考来師が、まずご指摘下さったことだが、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅の、独学徒師が「三光図」とご指摘下さった最上部分。ここに描かれる不動・愛染は『仏舎利と宝珠、漫荼羅が天皇受戒の法具となるとき』と題して記したとおり、そのデザイン・キャラクターは、細かい相違はあるものの、感見記とほぼ、同一である。日蓮のオリジナルではない。となれば、日蓮の描画とする従来説は、どうも、納得できない。
当時、求聞持法は盛んだったという。この満願成就をしたものには通じて允可証が出される。その定型的な図柄が、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅と不動愛染感見記に共通する図だったのではないだろうか。あるいは、虚空蔵求聞持法を達成した者が描く定型図といったものではなかったのか。もし、他に感見記と同じ体裁の古文書が見つかれば、この憶測は成り立つかも知れない。しかし、現段階では、やはり判然としない。
それにしても、感見記が、求聞持法という修法と関連した書であり、そして、摩尼宝珠曼荼羅と同一図形を有する。つまり、この宝珠と不動愛染、そして、虚空蔵求聞持法は一本の糸で繋がっていることは、意味するだろう。
求聞持法は盛んに行われていた。本尊は摩尼宝珠と同一視される虚空蔵菩薩。愛染不動が脇士である。のちに日蓮が自らの漫荼羅に採用する梵字で記す秘事である。
宮川師は、この論文の最後に、以下のように記す。
「櫛田良洪氏の著した『續真言密教成立過程の研究』において、資料紹介されている「悉曇求聞持成就口決事』に見ることのできる「虚空蔵者根本智躰、南方宝生仏内証文殊愛染不動明王惣躰也、成2就スレバ求聞持ヲ1(中略)文殊愛染不動ノ事ハ種子ニ付テ口決アリ」と記述されている。求聞持法においては愛染不動は切り離して考えられない」(P206)
いまのところ、文殊については解明できない。しかし、虚空蔵、宝珠、不動愛染は、虚空蔵求聞持法と不動愛染感見記、そして、日蓮漫荼羅と、同一信仰圏上に延長にあることが判明したように思う。
重要な点。ここに「愛染不動ノ事ハ種子ニ付テ口決」とあるように、両明王は種子(梵字)であることも漫荼羅図示と一致している。
さらに付加したい。虚空蔵菩薩の内証である宝生仏を南方という。
『四大天玉の図示の位置について』として愚考したことだが、日蓮漫荼羅における四大天玉は東西南北を表し、右側上に持国(東)・下に廣目(西)、左側上に毘沙門(北)・下に増長(南)の方位を決めている。
漫荼羅を立体的に見るとき、上とは奥遠くであり、下とは手前近くとなる。
花押が摩尼宝珠を象ったという愚見は、すでに何度も記した。
宝珠は虚空蔵、宝生仏であり、漫荼羅を立体的に見れば、日蓮(署名)に懐かれた最も手前にある。手前とは南である。「南方宝生仏」と一致する。
摩尼宝珠曼荼羅、宝生仏、日月、明星、虚空蔵、宝珠、不動愛染、覚鑁、『五輪九字釈』、虚空蔵求聞持法、不動愛染感見記といったキーワードは、このテーマを考えるとき、共通関連して、次々に浮上する。そして、それらは渾然一体となって、日蓮漫荼羅へと昇華していく。
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彰往考来師頂戴資料(5)寺尾英智著『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』
建長3年、日蓮は『九字秘釈』はいったいどこで書写したのか。
そのわずか、3年後、「清澄山住人」として、日
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(吽)が『九字秘釈』を写している。
この両写本はどのような関係にあるのか。清澄寺は若き日蓮が住した寺である。しかし、日
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が写した建長6年には、日蓮は鎌倉にいた。日蓮と日
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、両写本には関係がないのか。まず、第1の疑問。
不動愛染感見記はいったいどこで書かれたのか。
『五輪九字明秘密釈』との関係はどうであろうか。
修行が神秘体験が経験する場所は庶民が市をなす鎌倉の一隅、草庵のこととは思えない。しかし、従来説では、日蓮は建長5年の清澄寺の説法で所を追われ、翌6年には鎌倉にいることとされてきた。しっくりしない。第2の疑問。
不動愛染感見記は虚空蔵求聞持法と関係はないのか。
では、この修法を日蓮は、いつ行ったのか。そもそも虚空蔵求聞持法とはどのようなことをするのか。第3の疑問である。
『五輪九字明秘密釈』の著者は覚鑁と表記される。しかし、これは中世から現代に通ずる漢字文化上の都合であって、たぶん、覚
(バン)と、漢梵両用で表記するのが正しいのではないか。
しかし、『五輪九字明秘密釈』を写した日蓮は、まさに漢梵両用文化圏の一人だった。不動愛染を梵字で記す日蓮漫荼羅が誕生したのは必然的なことであったことになる。
寺尾師は、複数ある『五輪九字明秘密釈』写本を対校し、その関係を分析している。取り分け、日
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写本が日蓮写本をさらに写したものであることを突き止めている。この研究は素晴らしい。
こうした優秀な先生が、今年(’11)4月から立正大学で教鞭を執られることは、まことに有意義である。また、立正大学は、日蓮教学の拠点として、今一度、蘇生して欲しいと念願する。
寺尾師は言う、日蓮は建長6年には『五輪九字明秘密釈』を持して清澄寺を本拠としていた。まだ退出はしていなかった。その日蓮の許可をもってさらに書写をしたのが日
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であると。
寺尾師は、複数ある『五輪九字明秘密釈』写本を対校し、その関係を分析している。取り分け、日
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写本が日蓮写本をさらに写したものであることを突き止めている。この研究は素晴らしい。
こうした優秀な先生が、今年(’11)4月から立正大学で教鞭を執られることは、まことに有意義である。また、立正大学は、日蓮教学の拠点として、今一度、蘇生して欲しいと念願する。
寺尾師は言う、日蓮は建長6年には『五輪九字明秘密釈』を持して清澄寺を本拠としていた。まだ退出はしていなかった。その日蓮の許可をもってさらに書写をしたのが日
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であると。
顕密兼学は、伝教以来の学風である。けれど、顕教・法華経の行者と仰がれる日蓮を密教で解釈することを、門下は畏れてきた。しかし、覚
の『五輪九字明秘密釈』という密教書釈を写し、虚空蔵求聞持法を修し、さらには不動愛染感見記を書く。のちに『大日経』の用句である“漫荼羅”を選んで図す。そこには不動愛染を梵字で記すのみならず、花押を梵字で表象し秘事を籠める。こうした有様は顕教ではない。密教である。ならば、密教には密教の弟子がいたところで不思議はない。生涯を通じてというより、鎌倉に進出する前夜、少なくとも清澄寺に住する日蓮とは、そうであったのではないだろうか。
寺尾師は当論攷のなかで、『吾妻鏡』と『災難興起由来』その他の遺文との考証から、建長8年と日蓮鎌倉進出の時期であると結論している。つまり、不動愛染感見記は、鎌倉市中で記したのではなく、いまだ清澄寺にあった時の出来事であったことになる。腑に落ちる。
虚空蔵求聞持法とどのような修法か。また、日蓮はいつ行ったのか。不動愛染感見記との関連は?
この疑問に応じた資料呈示が、実に次の宮川良篤師が記す『日蓮聖人に見る虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』の論攷テーマである。
阿呆陀羅經師ご教示:阿部泰郎著『文観著作聖教の再発見-三尊合行法のテクスト布置とその位相』
三尊合行法とは、中世密教の展開のなかで形成された秘法である。本尊の分身として脇侍の二尊を設定し、三尊を併せて修法することにより、二元的な次元を超越し、不二を止揚した“三位一体”の究極的な秘伝の儀礼化といえよう。東密では、その本尊を「一仏二明王」すなわち舎利=宝珠(ないし各種の尊格に変換可能)と不動・愛染の二明王とするのが一般であった。この法は醍醐寺を中心とする小野三宝院流で特に重んじられた。
文観著作と判断され、しかしより上位の水準に位置すべき三尊合行法聖教として『御遺告秘決』一巻(小巻子)がある(『真言宗全書』収録)。
『秘密伝』は、一書の裡に金峯山(および吉野-天河-熊野)の宗教体系の諸位相が多元的にテクスト化され包摂されている。しかも、その「習」の所説には、垂迹の蔵王の一身に三仏ないし三尊等の三種の功徳が摂されるという、不二の秘尊としての天河弁才天と胎蔵大日たる熊野権現の二尊を併せて、金峯蔵王を三尊一体の宝珠と口伝に説く点で、それは三尊合行法の論理と象徴体系に重なるものである。
彰往考来師頂戴資料(2)仏舎利と宝珠、漫荼羅が天皇受戒の法具となるとき
感見記の末文は「日蓮授新佛」となっているから、日蓮が誰がしかに授けたものなのだろう。“新佛”が「灌頂を受けた者を指すらしい」とは、すでになくなったHPの名作「虚構山幻想寺」で知ったのは、随分と前のことである。
所蔵の摩尼宝珠曼荼羅から、想像を逞しくすると、不動愛染感見記は2枚ではなく、3枚セットではないのか、そして失われた1枚には虚空蔵菩薩と宝珠にかかる記述があったのではないか…、あくまで想像に過ぎないが、心躍るところである。ここまで、前回に記したこと。
虚構山幻想寺の作者は、愛染感見記につき、「黒い鳥は古来日神の使いとされてきたカラス。これが日輪中の赤いカラスならば天皇(王権)の象徴ということになる。三本足ではないことに注目」と書く。
感見記は墨筆であるから色はわからない。しかし、三室戸寺所蔵の摩尼宝珠曼荼羅は彩色である。その烏を見れば黒で描かれている。飛翔しており、足は描かれていない。兎は野に跳ねる素朴な姿である。
三室戸寺所蔵の摩尼宝珠曼荼羅と感見記の図が一致するのは、なにかこの信仰文化圏では常套の図柄であったことを示すではないか。
『仏舎利と宝珠』概説に「平安時代半ばより真言密教では舎利をあらゆる願いをかなえる不可思議な玉である如意宝珠や、末法時代の衆生を救済するとされた一字金輪仏と同一視する教義が盛んとなった」(P179)とある。わたしが愚考してきた日蓮花押・摩尼宝珠・一字金輪と関連する。
なぜ、弘安元年に一字金輪に花押を変えなければならないのか。
わたしはこの理由を『諸人御返事』に求める。このころ、俄に公場対決が叶う風気が漲る。この喜びを記すのが、この書である。公場対決の勝利は日蓮は確信していた。「我が弟子等の出家は主上上皇の師」となると喜びが伝わる文面である。こうした確信の基、その後、熟考数か月を経、漫荼羅を天皇授戒に用いる様式に再構成したのではないか。
この法の本尊は五輪塔に象られ,二顆の宝珠すなわち舎利を納め変じて如意輪となって中央に在り,左に不動(忿怒尊=胎蔵),右に愛染(敬愛尊=金剛)の二明王を配する(これは観心寺本堂の三尊構成に等しい).〔中略〕
先ず,宝珠の正体を両部合体の如意宝珠蓮華密印とし(如法尊勝法と如法愛染法に重なる)不動と愛染が宝珠をもつ意義を説く.次に,この三尊をもって迷悟の体と釈し,不動愛染が三毒の煩悩と現じてそのまま仏果瑜伽の功徳また煩悩即菩提の一宗の肝心の理を表すものと説く.次に,宝珠尊形を釈し,これを如意輪と示し,その最極の習いとして,これが一字(仏)頂(金)輪王たる帝すなわち日輪同体の内侍所神鏡たる天照太神の所変と解き,その上で帝王の即位には舎利(金輪)の真言をもって即位の真言とする,と言う一箇の王権観の体系を描くのである.」
…宝珠の正体を両部合体の如意宝珠蓮華密印…不動と愛染が宝珠…宝珠尊形…如意輪…一字(仏)頂(金)輪王…天照太神の所変…舎利(金輪)の真言をもって即位の真言…、漫荼羅本尊を持って国王受戒に臨むとき、摩尼宝珠と一字金輪は愛染不動は必須なのだ。だからこそ、弘安元年、公場対決を経、国主授戒に臨むとき、花押は摩尼宝珠に重ね一字金輪を懐く必要があったのではないか。
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ここで重要な点を知った。三室戸寺蔵摩尼宝珠曼荼羅は、尊像化された宝珠・不動・愛染という三つで構成されるていることだ。
宝珠といえば、如意輪観音、釈迦仏舎利と常套なのだ。しかし、日蓮と如意輪、また仏舎利を結ぶような事跡は思いつかない。日蓮と宝珠といえば、まさに虚空蔵菩薩しかない。仏菩薩像形式としてはまったくイレギュラーなのかも知れない。しかし、不動愛染感見記が2枚ではなく、3枚でセットであったとしたら、失われた1枚は宝珠の図、もしくは宝珠を授けた虚空蔵菩薩ではなかったか…。
【論攷】日蓮漫荼羅における梵字:一字金輪花押と愛染不動の意味
*謹んでメモ書きさせていただく
・日蓮花押:摩尼宝珠
かつて『日蓮と梵字』(3)において、日蓮花押は梵字の「摩尼」を象ったものではないかという仮説を発表した。
マンダラ様式の一つに「摩尼宝珠曼荼羅」がある。中央に摩尼宝珠、左右に不動・愛染を脇士に置く。日蓮の花押が摩尼であれば、まさに梵字で示された部分は、この摩尼宝珠の様式を採っていることになる。
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摩尼宝珠曼荼羅
三室戸寺のHPには載っていた。しかし、これは『不動感見記』の写しそのものではないか。試みに並べてみた。左上が、三室戸寺がいう摩尼宝珠曼荼羅、下が『不動感見記』である。
不動(愛染)を描く図を摩尼宝珠曼荼羅ということは興味深い。
中央の摩尼宝珠・如意宝珠を、一字金輪へと昇華するとき、天皇即位の意義が具えられる。元来、戒壇は天皇受戒を意義とする。つまり、日蓮が漫荼羅梵字をもって、天皇受戒義を含む本門戒壇を、漫荼羅の密事したものであったのではなかろうか。
そして、その密事は、摩尼、一字金輪、不動・愛染を梵字で記すことによって、漫荼羅の上に秘匿し、籠めたのではないだろうか。