kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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20230831注目記事日中随時更新

【神様が味方する人の考え方】
「つらく、悲しく、苦しいこと」がどうしても人生に必要な理由

100%すべての人が、絶対的な価値を持って「これが幸せだ」と思えることは、地球上には存在しない。それが私の結論です。

 幸せは、「感じた人にのみ存在」します。感じた人にのみ、「幸せ」が生まれるのです。

 同様に「不幸」という現象も、この世には存在しません。

 たとえ、どれほどお金を持っていても、その人が「不幸だ」と思っていれば、その人は「不幸な人」になります。

 逆に、お金がなくても、環境に恵まれていなくても、本人が「幸せだ」と感じていれば、それが幸せになるのです。

 今日、自分にとって「幸せだ」と思える出来事があったとします。すると、「昨日までのケンカや争い、病気や事故なども、すべてが『今日の幸せ』に至るための要因だったこと」がわかります。

  • 「人の間で喜ばれる存在になること」
  • 「『ありがとう』と言われる存在になること」

 にほかなりません。

愛染明王信仰の興隆と白河法皇

愛染明王の彫刻や絵画の遺品は意外と多くあって、奈良西大寺に蔵される叡尊上人ゆかりの重文像を始めとして鎌倉時代を中心に多数の名品が存在しています。

愛染明王は密教の根本経典とされる『大日経』や『金剛頂経』には記載が無く、従って胎蔵・金剛両部曼荼羅の中にその姿を見出すことは出来ません。

それでは此の明王を説く経典は何かと云えば、それは『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』、略して『瑜祇経』と称される密教経典です。本経は弘法大師空海によって初めて我が国にもたらされ、その後も恵運(えうん)・宗叡(しゅうえい)といった入唐八家(にっとうはっけ)の祖師によって将来されています。

『瑜祇経』に関する本格的研究は早く台密(天台密教)の安然(あんねん。841-915頃)により行われ、その著『瑜祇経疏』三巻は台密を代表する優れた経典研究書の一つに数えられています。又た東密(東寺密教。空海系真言宗)の真寂法親王(886-927)は『瑜祇惣(そう)行記』を製作しました。

しかしその後平安中期を通じて本経に対する関心は薄れて、愛染明王を本尊とする修法すなわち愛染法も一部の真言僧によって細々と伝承されていたに過ぎなかったようです。そもそも弘法大師が『瑜祇経』を請来して以来白河天皇の時代に至るまで、愛染明王像の制作や同明王を本尊とする御修法(みしほ)について記した史料はほとんど存在していません。

それだけに天皇による法勝寺の愛染明王を本尊とする八角円堂の建立は、同明王に対する信仰のみならず密教史の上からも特筆すべき出来事であったと考えられます。

この様に此の頃から天皇家の周辺で愛染明王に対する信仰が急速に深まりつつあった事が伺えますが、白河天皇の同明王に対する尊信の念は生涯を通じて衰えることがありませんでした。

天皇は応徳三年(1086)に譲位して上皇となり、永長元年(1096)には出家して禅定仙院すなわち法皇になりました。当時の貴族の日記によれば天治二年(1124)五月25日、白河法皇は御所に於いて百体もの愛染王像を図絵して供養し、更に晩年の大治二年(1127)三月十二日には法勝寺の北に丈六愛染王三体と等身愛染王百体を本尊として安置した新造の御堂を供養している。

一方、当時の摂政藤原忠実も熱心な愛染明王の信者であった事が伺えます。忠実の日記『殿暦』には同明王に関する記事が多く見られるが、興味深く思われるのは忠実自身の為には勿論、時には白河法皇の御為に愛染法を修しています。例えば天仁二年(1109)正月26日に当時鳥羽天皇の摂政であった忠実は法皇の御祈りの為に十体の愛染王像を造立し、又た同年七月28日には法皇の為に愛染王法を始めている。

白河院(法皇)は特に珍奇なるものを好む傾向があったらしく、例えば如意宝珠の収集に随分と熱心であった事が知られている。

後三条天皇の即位が実現しました。しかし当時の貴族社会に於いては呪詛・調伏が盛行していたと伝えられ、後冷泉天皇の予期せぬ死に対しても不穏な噂が語られるようになりました。それは皇太弟が護持僧の成尊(せいぞん 1012―74)に命じて天皇を降伏(ごうぶく)したと云うもので、時代が下がると此の説は当然の事として世間に受け入れられ、多くの書物が此の事を書き記してきました。またその際に成尊が行った修法は、愛染明王を本尊とした降伏法であったとされています。

成尊が後冷泉天皇を降伏した事に付いて記す早い例として、理性房賢覚(げんかく)の口説を弟子の宗命(しゅうみょう)が記した『対聞記』に、
久安五年(1149)九月一日〔物語のついでに伝授して下さった〕

今は亡き成尊僧都は後三条院が春宮(皇太子)の時の御持僧(護持僧)として後冷泉院を調伏なされたが、その時には愛染王法を修されたのである。明王の「彼を持せしめよ」の手には薄様(うすよう)紙に書状を書いてお持たせになった。其の書状には「アビシャロキャ親仁ヤ、ソワカ」(親仁を降伏すること成就せしめ給え)と書いて、「彼を持せしめよ」の手の中に籠められたのである。その時の本尊は今も小野曼荼羅寺に現存している云々。そうして後冷泉院はお亡くなりになった云々。

『覚禅鈔』と並んで真言修法の百科全書として有名な書に台密の承澄僧正(1205-82)作『阿娑縛(あさば)抄』がありますが、此の事に関する記述はよくまとまっていて物語としての完成度も高いので以下に紹介します。(既に速水侑著『呪術宗教の世界』p.136に訳出があるので転載させて頂きます)
この法は、もともと東密の修法である。その理由については、他聞をはばかることなので、他にもらしてはいけない。後冷泉天皇の世、当時東宮であった後三条院の御前に、東宮護持僧の小野僧都成尊が祇候すると、ちょうど髪をくしけずっていた後三条は、白髪が一すじ落ちたのを成尊に示し、「お前は私のために、いつもどのような祈祷をしているのか。これをみよ」と落涙した。成尊は恐懼して、「護持僧の任にありながら、そのようなお気持とも存ぜず過してまいりました。身の暇を賜わり一心に祈願いたしましょう」と、そのまま本寺にひきこもり、七日間、愛染王法を修した。すると後冷泉天皇は、病気となってほどなく没し、後三条が即位した。後三条は在位わずか五年であったとはいえ、ともかく本意を成就したのである。成尊は「むげに心短かくおわす君かな」ともらしたそうだが、まことに法験のきわみといわねばならぬ。このことがあってから、愛染王法は多く東寺の人が修し、延暦寺では行なわない。かのときの像は、手は拳を作り上向きにして左乳のあたりにおく三尺の木像で、今に伝わっているという。(柴田注:真言のことなど一部省略されている)この霊験により、後三条は愛染王法に帰依し、成尊に学んでこれを白河院に授けた。白河院も深く信じて、法勝寺建立のとき、愛染王像を円堂(八角堂)に安置したのである。

愛染王を本尊として修する愛染法は息災・増益(ぞうやく)・敬愛(きょうあい)・降伏・鉤召(こうちょう)の五種法に通じて効験があるとされ、その事は上に述べた明王の像容と深く関わっています。又それに付いては白河院政期より以降愛染法が隆盛するにつれて驚くほど多くの口伝が生み出されました。ここではその一端を紹介しますが、それとても他に異説のあることは言うまでもありません。
先ず頭上の獅子冠は、修行者自身にとっては菩提(さとり)を求める心の勇敢さを表し、他に対しては自在に調伏する事の標示です。その上の五股鉤は、衆生(しゅじょう)を鉤召/誘引して本尊の大欲・大貪染(とんぜん)の世界に引き入れるのです。大欲・大貪染とは個人的欲求を超えた大いなる欲望に憑かれていることを言い、愛染明王の三昧/本質そのものです。

前にも述べたように愛染明王を説く経典は『瑜祇経』のみであり、両部密教の根本聖典である『大日経』や『金剛頂経』には全くその言及が無い。してみれば愛染王は両部曼荼羅の諸尊と如何なる関係にあるのでしょか。

さて初めの愛染王と曼荼羅諸尊との関係については、先ず『瑜祇経』が金剛界系の経典である事と愛染明王が金剛薩埵の化身である点に留意する必要があります。

次に古来真言宗の学僧の間に、愛染明王/『瑜祇経』が説く大染の三昧(覚りの境地)と金剛薩埵/『理趣経』の大楽の法門(教理)とは同じであるとする考え方のある事が挙げられます。

金剛界密教の精要は普通三十七尊の曼荼羅で表現されその中尊は大日如来ですが、修行者の菩提心を中心に考えれば中尊は金剛薩埵になります。また『理趣経』の十七尊曼荼羅はこの観点をより鮮明に凝縮して表現しています。そして此の金剛薩埵が大貪染(とんぜん)の三昧に入って励起した時には愛染明王となって活動するのです。

理趣経曼荼羅と愛染明王

(3)十七尊曼荼羅/理趣会曼荼羅と五秘密曼荼羅味Pcv0に付いて

『金剛頂経』自体は大日如来では無く金剛薩埵の一尊曼荼羅を説いています。金剛薩埵は大日如来の菩提心そのものであり、また金剛薩埵が金剛界曼荼羅の法を修して仏の智慧を成就した姿が大日如あ来ですから本質的に両者は一体です。

『理趣経』一巻はその総体が金剛薩埵の三摩地法門であるとする古来の定説は曼荼羅の上からも裏付けられます。

(4)愛染明王・金剛薩埵一体の口決について

愛染・金薩一体の口決は既に平安初期の真言宗に存在していた可能性があります。

元海大僧都の写瓶(しゃびょう)の弟子であり松橋流の開祖とされる一海阿闍梨(1116―79)の次のような口説が伝えられています。

亡くなられた元海大僧都は、五秘密法と愛染法とは突き詰めれば一つであると心得るように命じられた。  自分が此の事を考えるに、それも理由があると思う。愛染明王の曼荼羅には二様がある。一つは理趣会曼荼羅十七尊の中心に愛染王を置く。又の様は五秘密曼荼羅の金剛薩埵を改めて愛染王と為すのである。元海大僧都によれば、故定海大僧正は後説を以て特別に秘密の説としておられた。

(5)大楽思想と愛染明王

『理趣経』は一字真言を別にすれば理趣すなわち教理のみを説いているからその理趣を修行実践する経典が別にある筈であり、それが実に『瑜祇経』である事を示さんとしたのであり、二つには金剛薩埵の飽くなき利他行の究極の実践が愛染明王に転化する事を訴えんとしたのでしょう。

『理趣経』に説く所の大楽の世界に生きる金剛薩埵の姿を更に突き詰めると果たして『瑜祇経』に説く愛染明王に転化するのでしょうか。ごく単純に考えると金剛薩埵の「無縁の大悲」が一切衆生に対する愛着の念すなわち大愛染(貪染/とんぜん)に転じて愛染明王に成ったのだとも言えます。是に付いては明王の身体が赤色なる事を説明する次のような口決が注目されます。即ち報恩院流祖の憲深僧正(1192-1263)の口説を記した『薄草子口決』の中で、

愛染明王は敬愛を本誓とするからその事に相応する赤色をしているのである。しかし実にはより深い意味合いがある。此の尊の慈悲の念は心肝をも染め上げ、憐愍の情は骨髄にまで達している。衆生の苦しむ様を見て憂い悲しむが故に全身の毛孔から血が流れ出し、その事によって遍身赤色(へんしんしゃくしき)と成るのである。

此の仏眼尊と愛染明王とを同一尊とする口決は前章の冒頭で紹介した元海大僧都の『厚造紙』に記されていて、

愛染明王・仏眼仏母・降三世明王は同一の仏である。(普賢)延命菩薩も亦た同じである。それは何故かと云えば皆金剛薩埵の所変であるからである。

と述べています。又た愛染・仏眼一体の口決は只の教理的或いは観念的レベルに留まらず、実際の修法に於いてもそれが採用されるように成りました。即ち現今通用の愛染法次第は『瑜祇経』の「金剛吉祥品」に説く仏眼尊の「三種印真言」を本尊加持に加用していますが、此の事は白河院政期以前には見られなかった事であり、鳥羽院政期に至って醍醐小野の次第に是が用いられるように成ったのです。

猶お賢覚は醍醐三流の一つ理性院流の開祖として非常に有名ですが、宗命もその写瓶(しゃびょう)の弟子として当時著名の真言僧です。

『覚禅鈔』と並んで真言修法の百科全書として有名な書に台密の承澄僧正(1205-82)作『阿娑縛(あさば)抄』がありますが、此の事に関する記述はよくまとまっていて物語としての完成度も高いので以下に紹介します。(既に速水侑著『呪術宗教の世界』p.136に訳出があるので転載させて頂きます)

この法は、もともと東密の修法である。その理由については、他聞をはばかることなので、他にもらしてはいけない。後冷泉天皇の世、当時東宮であった後三条院の御前に、東宮護持僧の小野僧都成尊が祇候すると、ちょうど髪をくしけずっていた後三条は、白髪が一すじ落ちたのを成尊に示し、「お前は私のために、いつもどのような祈祷をしているのか。これをみよ」と落涙した。成尊は恐懼して、「護持僧の任にありながら、そのようなお気持とも存ぜず過してまいりました。身の暇を賜わり一心に祈願いたしましょう」と、そのまま本寺にひきこもり、七日間、愛染王法を修した。すると後冷泉天皇は、病気となってほどなく没し、後三条が即位した。後三条は在位わずか五年であったとはいえ、ともかく本意を成就したのである。成尊は「むげに心短かくおわす君かな」ともらしたそうだが、まことに法験のきわみといわねばならぬ。このことがあってから、愛染王法は多く東寺の人が修し、延暦寺では行なわない。かのときの像は、手は拳を作り上向きにして左乳のあたりにおく三尺の木像で、今に伝わっているという。(柴田注:真言のことなど一部省略されている)この霊験により、後三条は愛染王法に帰依し、成尊に学んでこれを白河院に授けた。白河院も深く信じて、法勝寺建立のとき、愛染王像を円堂(八角堂)に安置したのである。」

以上の事から後三条天皇の命によって大御室性信が愛染王御修法を始めた事、また白河天皇/法皇の時代に愛染明王に対する信仰が興隆した事の理由が納得して頂けたかと思う。

勿論、母親を異にするとは云え皇太弟が兄の天皇を降伏(ごうぶく)した事など朝廷の記録に記されるはずも無いし、当時の貴族の日記にもそうした風聞(ふうもん)を書き記したものは残っていないが、前章で見た『対聞記』のように此の事は遅くとも鳥羽院政期には醍醐寺僧の間で公然の秘密になっていたと考えられる。

また愛染王は忿怒身の明王でありながら大赤蓮華に座し、しかも蓮華座の下に宝瓶(ほうびょう)があって種々の宝が溢れ出ています。
それでは此の様な愛染明王の姿は何なる経典に説かれているのかと云えば、それは最初にも述べたように『瑜祇経』です。詳しくは『瑜祇経』の第五章「愛染王品」に於いて、金剛手菩薩(金剛薩埵)が世尊(せそん/仏)に対して画像法を説かんことを請う一節に次のように記されています。