わたしの手元に安第82漫荼羅を模刻した信行寺蔵の板本尊の写真がある。ここから花押のみを抽出し、その筆跡から梵字を解析し、ボロン字と並べたのが右図である。筆を走らせることによって、< 様の2点を描いているのだと思う。やはり、ボロンなのだろう。
この点で、先人の慧眼は正しかったように思う。
バン字ではなく、摩尼。しかし、弘安以降は、ボロン字によって象ったのが、日蓮の花押であった。取り敢えずは、そのように考えることにしたい。
ソ・スとは妙見菩薩の種子である。
日蓮の真蹟遺文から、しかし、妙見を窺う資料はない。日蓮の漫荼羅には大日天、大月天、大明星天といった星の神が勧請されている。けれど、妙見の勧請はなかった。
虚構山幻想寺には、以下のような引用があった。
「日蓮の人物像をとらえるには、彼を日蓮宗の開祖という偉大な僧として考える以前に、まずワダツミの血を引く家柄に、倭人の星として生まれた事実を、深く認識して置く必要があろう。清澄山に登った彼が、薬王丸となって虚空蔵堂に篭ったというのも、修行の場が、たまたま虚空蔵堂であったということではなかった。彼の胸中には北辰への熱い祈りが秘められていたものと思われる。
(中略)
日蓮の説く「釈迦との対話者として、万民が平等の友」という教えは、それを「日本国主・天照大神のもとでは、すべての人々が平等」と置き換えることもできたであろう。
彼が出家以前に、薬王丸としての四年間を、虚空蔵堂(虚空蔵は北辰・妙見であり、天照神である)に学んだことが、それを物語っている。また彼が日蓮宗を開くにさいし、「日本の柱とならむ、眼目とならむ、大船とならむ」と誓ったことは、現世に天御中主(アマテル同一神、妙見社に祀られる)を再現し、自ら一つ目の大人となって王権の在り様を正し、ヤマタイの昔に存したワダツミのおおらかな世界を、もう一度喚び戻そうと念願したからではなかったか。」(沢史生著『闇の日本史 河童鎮魂――』1987年 彩流社刊 P286)
虚空蔵 – 妙見 – 天照大神という脈絡から、日蓮の花押が説明できれば、という着想である。
星にまつわれば、本命宿がある。生年月日を、二十七宿の一つにあて、本命宿とする。宿から東-北-西-南の順に数えていくのである。
日蓮の漫荼羅は右奧が東・左奧が北、右手前が西・左手前が南である。わたしは宝塔西面、天子南面を両立させたアイデアであると考えるが、なぜか、この方位とも一致している。
もしも、花押がソ・スで象られたものならば、上記のような脈絡は成り立つことになるだろう。
日蓮は遊学時代、11年の永きにわたって比叡山・横川(よかわ。慧心流発祥地)の定光院に住し、天台教学を学んだ。当然、蘇悉地~仏頂系の、灌頂・秘法を行ったと推測される。これは日蓮がのちに、理同事勝の邪義で叡山を汚した張本人と指弾する慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の受伝に始まるもので、台密においては胎金両部の事理を成就させる究竟の密儀とも、釈迦仏頂を本尊とする最勝の法(最澄受法の雑曼荼羅相承との混淆か?)ともされている。(最澄に五仏頂法修法の事績あり。日蓮は『祈祷抄』『本尊問答抄』『神国王御書』で、承久の乱の時、皇室の依頼で天台座主慈円が一字金輪法などを修した、と記している。)
円仁が文徳天皇の即位に際して新密法である熾盛光華仏頂の秘法(天皇の本命星=北極星に祈願する)を修したいと上奏したことはよく知られている。…
また法華経との結びつきは「十方中唯有一乗法、無二亦無三」(渓嵐拾葉集・巻第十七・第四金輪法事)の最勝の経王であるという一点に根拠をもつようだが、こじつけの理屈はいろいろあるのだろう。
日蓮がどうして一字金輪仏頂の真言「ボロン」を花押に択んだのかは分からないが、一字金輪仏頂(一字仏頂輪王)が日本では天皇という宗教的権威の本命尊であることを彼が熟知していたことは間違いない。 ―― (図は虚構山幻想寺から転載)
なかなかの説明だ。説得力の文章だとも思う。しかし、わたしはこの‘定説’に疑問を持つ。なぜ、一字金輪なのか。それでも必然性を感じないのだ。花押の相貌の変化は、弘安元年6月25日(山中説)であるという。この日の『日女御前御返事』に署された花押から変貌したのだという。この消息を通読しても、けれど、その理由は読みとれなかった。
「『不動愛染感見記』から考えるに、例えば『金烏と玉兎』のことを考えてみなければいけない。そうでなければ『不動愛染感見記』の真意はわからないでしょう。」
冒頭の2枚の画像を見てほしいのですが、最初の画像は「愛染明王」を描いたものであり、愛染が太陽の化身であることを表現しており、そこには「金烏」(きんう)と呼ばれ三本足を持つとされる「八咫烏」(やたがらす)が描かれているんですね。
八咫烏とは神武天皇を導いたとされる導きの神であり、サッカー日本代表のエンブレムでも描かれている三本足のカラスのことです。これは「金烏」と呼ばれ、太陽の化身であるとされています。
同時に「不動明王」に描かれているのは月の絵であり、月に住んでいるとされる「玉兎」(ぎよくと)と呼ばれるウサギが描かれています。
「玉兎」は「金烏」と対の概念とされるものであり、月を示しています。
なぜ日蓮が曼荼羅に不動明王を書く際に梵字の「カーン」ではなく「バン」字を使うのかという点です。
「バン」と「ウン」と「カーン」
「वं」バン
「हां」カーン
「हूं」ウン
不動と愛染を左右に並べる曼荼羅様式は『三尊合行法』に見られる形で、14世紀に確立したものです。問題は日蓮が時代的に先駆けてこの曼荼羅の様式を取っている点と、日蓮がなぜか不動を描く際にカーンではなくバン字を使っていることです。
「こんにちは」と6人の隣人に定期的に挨拶することで幸福度が最大化するとの調査結果が報告される
ギャラップによると、幸福度は定期的に挨拶する隣人の数と密接に関連しているとのこと。以下は定期的に挨拶する隣人の数と幸福度のスコアを示したグラフです。挨拶を誰とも交わさない場合、幸福度は51.5点ですが、人数が増加するにつれてスコアは上昇し、6人の隣人と挨拶を交わす時、スコアは最大の64.1点を記録しました。一方で、それ以上になるとスコアの有意な増加は見られませんでした。
幸福度に含まれる5つの要素も挨拶を交わす人数に対応しており、「キャリア的幸福度」「コミュニティの幸福度」「社会的幸福度」「身体的幸福度」は6人の隣人に挨拶することでピークに達し、「経済的幸福度」は11~15人に定期的な挨拶を行っている場合最高点を迎えます。
「音楽を聴けば頭が良くなる」だけではない…脳科学者が語る音楽が思考力と幸福度に与える驚きの効果
画像生成AIがブラウザから無料で人間の全身写真をさくっと作ってくれる「AI Human Generator」レビュー
これで人間関係の悩みが9割消える…「受け入れる」でも「拒絶する」でもない苦手な人に接する第三の方法
かつて職場の人間関係に悩んでいた私を救ってくれたのが、経営学者の飯田史彦氏の著作『生きがいの創造』(PHP研究所)という1冊の本でした。
この中で飯田氏は、「この世は魂を成長させるための学校」であると述べ、人間がこの世に生まれてくる理由の1つは「人間関係を学ぶため」だと説いています。
また、自分の周囲にいる人は、成長のために自分で雇った俳優のようなものなのだそうです。
もし試練を与えてくる人がいたら、それは自分が生まれる前、その人にその役を依頼したから――いわば自分の成長のための協力者であり、ソウルメイトなのだといいます。