重要記事
☆『請来目録』の中で、密教のすぐれた点を次のように述べている。「瞑想を修行するにも多くの道があり、遅いのも速いのもあります。三界唯一心の理法を観ずるのが顕教であり、金剛不壊の三密の妙行を修するのが密教であります。もし、心を顕教に遊ばせれば、三阿僧祇劫という長い年月の彼方はるかな時を必要とします。身を密教において修行すれば、きわめてすみやかにこの身このまま仏となります。速いうちでもまたとくに速いのがこの密教であります」と。それまでの大乗仏教では「成仏の可能性」を説くとはいえ、その実現は永劫の未来ともいうべき彼方に夢想されるのみであった。だが、密教の方法で修行すれば、すみやかにこの身このままで仏になれるというのである。
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空海は「成仏」という言葉を、「仏に成る」という意味で考えていない。なぜか。「即身成仏」の「成仏」のサンスクリット語が何であったかは実は明確ではないのだが、『大日経』(正式題名『大毘盧遮那成仏神変加持経』、このサンスクリット原典は現存しない)のチベット語訳に残るサンスクリット原題を見る限り、「成仏」のサンスクリット語は「アビサンボーディ」であって、これは「現等覚」を意味する。驚くべきことに、「成仏」には「凡夫が仏に成る」という意味は本来ないのである。もっぱら、「仏であること」、ただこれだけを意味する。空海はこの原義を正しく理解していた。日本仏教の開祖(のみならず、日本仏教史上の僧侶たち)の中でインド人のバラモンに師事してサンスクリット語を完全にマスターしていたのも、空海ただひとりだった。
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もしかして一般にかなり誤解されているかもしれない(おそらく空海も当初はその懸念があったろう)が、即身成仏とは、何らかの方法で「この身このままで」「現世で」「すみやかに」「直ちに」「即座に」「凡夫が仏に成る」ということではないのだ。
仏陀の叡智は釈尊ただ一人の内にあるものではない。仏陀の慈悲は釈尊ただ一人が発揮しうるものではない。むろん仏教の真髄といえる「智慧と慈悲」をこの世に実現した釈尊は稀有にして至高の存在であった。だが、それは釈尊がつくりだしたものではなく、釈尊が見出した普遍の法であった。そのことは釈尊自身が明言している。普遍の法は宇宙に遍在しているものであろう。
ならば、それは我が身のうちにも、すべての衆生にもそなわっていてしかるべきだ。「智慧と慈悲」の当体である仏心は、宇宙の万象に宿っている。そうであればこそ、一切衆生は救われる。空海はそう確信したのだ。
わが国の即身成仏思想は空海に発するが、万人の救済という視座を、仏教史上初めて理論づけたのは、何としても空海であった。
◆止(し)と観(かん)
インド仏教の瞑想法の伝統には、シャマタとヴィパシュヤナーの二つがある。それぞれ「止」と「観」と漢訳されている。
南伝仏教でもこの二つの瞑想法(パーリ語では「サマタ」「ヴィパッサナー」という)はきわめてオーソドックスな瞑想法であり、それが今でも修行のアルファでありオメガでもある
シャマタは仏教流にいえば「無我」の実践ともいうべきもので、具体的にいえば、ただ呼吸を整えるということにつきる
ヴィパシュヤナーの原義は「観察」である。
大乗仏教になると、ヴィパシュヤナーは、もっぱら〈空〉の会得ということになる。
ヴィパシュヤナーの実践を集大成したのが密教であった。