kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第一第3話 平等供奉、山を離れて異州に趣く事

第一第3話 平等供奉、山を離れて異州に趣く事(びょうどうぐぶ やまをはなれていしゅうにおもむくこと)

*供奉(ぐぶ)は内供奉の略で宮中に仕えて読師などをした高僧。

中ごろ、比叡山には平等供奉(びょうどうぐぶ)という非常に高貴な人物がいた。彼は、天台と真言を極めた仰ぐべき高僧であった。

ある時、彼が便所で用をたしていたときに、突然、人生のはかなさを悟り、「なぜこんなにもはかない世界で、名誉や利益に囚われ、この嫌な身体を惜しみながら、空しく日々を過ごしているのだろう」と思い始めた。過去の行いを後悔し、長年住んでいた場所も嫌になり、もう二度と戻る気持ちはなく、素朴な白衣の下着で、足元には草鞋を履いたまま、何も持たずにどこへ行くとも決めずに、比叡山西の雲母坂(きららざか)を下り、京都の方へと向かった。

「どこへ行き、どこで止まるべきか」という考えもなく、ただ足を運んでいるうちに、淀の方へと迷い込み、下り船があるのを見つけて乗ろうとした。

彼の姿は普通ではなく、奇妙だと思われて、船頭は乗船を承知しなかったが、乗船を願う平等の顔つきが実に真剣であったため、船頭は結局 彼を乗せることにした。「どういう事情で、どこへ行くんだい?」と船頭が問えば、「特に何かを考えて決めたわけではなく、どこへ行くかも決まっていません。ただ、どこかへ行きたいと思っています」と平等は答えた。「とても理解できない行動だなあ」と船頭たち皆は首をひねっていたが、それでも粗野な船頭たちであるとはいっても人情がないわけではなかったので、たまたまその船の目的地である伊予の国へと向かった。

伊予の国に着いてからは、どこへ行くとも決めずに彷徨い、乞食をしながら平等は日々を過ごした。地元の人々は彼を「門乞食(かどこじき)」と呼んだ。

比叡山の坊では「供奉様がちょっとでかけると出て行ってから長い時が経っているのは異常なことだ」と言いあっていたが、そんなことになっているとは誰も想像できなかった。「もしかすると何か理由があるに違いない」と言っているうちに、日が暮れ、夜も明けてしまった。彼の行方を尋ねても答えはない。もうどうすることもできずに、彼は亡くなったものと思い、悲しみながら後の弔いなどの始末を坊の人々は進めた。

その後、伊予の国の守護である人物(当時の伊予守)で、供奉の弟子である浄真阿闍梨という人物と、長い間親しくしていた人がいた。その人は伊予守で浄真阿闍梨に祈祷などを頼む間柄であった。この人物が京から任地の伊予へ下るに際し、「伊予は遠い地方なので、あなたに同道してもらえれば心強い」と浄真阿闍梨に頼んだ。そして伊予守は浄真阿闍梨を伴って伊予に向かった。

しばらくして、平等供奉である彼の門乞食は、何も知らずにその伊予守の邸宅の中に入ってきた。物を乞う間に、子供たちはかの門乞食の後ろに立って大笑いしていた。その場に大勢居合わせた地元の人々は、「異様な風体の乞食じゃ。さっさと出て行け」と激しく𠮟りつけていた。しかし、浄真阿闍梨は彼を哀れに思い、「何かあげましょう」と言って近くに呼び寄せた。かの門乞食は恐る恐る縁側に近づいてきた。その姿は人間らしくなく、痩せ衰えて、あちこちが垂れ下がるぼろぼろの衣服を着て、本当に異様で卑しい風体だった。しかし、よくよく見て思い出すと、彼は自分の師匠だと阿闍梨は気づいた。阿闍梨は悲しみに打ちのめされ、簾(すだれ)の中から転げ落ちるようにでて、縁側の上にその乞食の手をとって上がらせた。伊予守から始まり、その場に居合わせた人々が驚き、不思議に思いつつ、阿闍梨は泣きながらいろいろなことを話した。しかし、平等供奉である乞食は言葉を少なくして、かたくなに暇(いとま)を請うてその場を発ち去った。

あまりのことに言葉も出ないままに、師匠に着せる麻の衣服を用意して、彼がどこに行ったのかを阿闍梨は探したが、どこにも見つけることができなかった。最後には、地元の人々に頼んで、山や森を探したが、師匠と会うことはできず、そのまま彼の行方はわからなくなった。

その後、長い時間が経った後、人々が通らない深山の奥にある清水の近くで、「死体がある」と山の人が言っていたので、不思議に思って浄真阿闍梨が行ってみた。すると、平等供奉だった法師が西(極楽浄土の方角)を向いて合掌していた。とてもあわれに有難く貴いことに思い、泣く泣く弔いを行った。

昔も今も、本当に菩提の心を発する人は、このように故郷を離れ、見知らぬ場所で名誉や利益を捨てて死ぬものである。菩薩が無常を超越したこの世はマトリックスであるという無生忍の悟りを得るためには、顔見知りの人の前で神通力、超人的な能力を示すことは難しいと言われている。ましてや、今菩提への心を発したばかりでは、まだ不退の位に至っていないので、何かにつけて心が乱れやすいものである。故郷に住み、なじみの知っている人と交流していると、どうして一瞬の妄心を起こさないでいられるだろうか。

(20230626訳す)