kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集第五巻 第2話 伊家並びに妾、頓死往生の事 (これいえ ならびに しょう、 とんしおうじょうのこと)The Outsider Episode 48

(相も変わらず 「平安時代」で 画像作成依頼しているのに 時代考証わけわからん絵を作ってきます 絵自体のできはいいので 面白いから張り付けておきます)

平安の中期に、朝夕を帝(ミカド)にお仕えする男がいた。見目(ミメ)の優れて美しい女とねんごろになって長年つれあって一緒に住むようになった。

しかし、他に心を寄せる女ができてしまったのであろうか。宮仕えを理由にして、次第に訪れが滞(トドコオ)るようになってしまった。

これにつき その女は、「思いもしなかった 男の訪問の途絶えであること」と思い煩っていた。そうこうするうちに終(ツイ)に男はその女のもとへ通いにくることはまったくなくなってしまった。

そうして その女は なにかにつけ心細く思い嘆きながら年月(トシツキ)を過ごしていた。

そうしてあるとき 男が用事のついでに、たまたま女の家の前を通り過ぎることがあった。

その女に仕えている者が 男の姿を見かけて、「たった今、殿が 当屋敷の前を通りかかったようでありました。そうしてやはり ここがかつて通っていたご主人様の家であるとは思い出されたようでございます。乗っていた牛車(ギッシャ)ののぞき窓から 当屋敷の様子をうかがってらっしゃる感じでございました。」と女主人に語った。

女は 家人のこのコトバを聞いて、「殿に 申し上げたいことがあります。お立ち寄りくださいませんか、と申せ。」と命じた。

この命につき、家人は「もうすでに通り過ぎてしまいましたものを。もはや御戻りにはなられないのではないでしょうか。」と言いながらも、男の乗った牛車を追いかけて行った。

家人は どうにか男の牛車に追いついて、女主人がこうこう申し上げております、と申し上げた。対して、男は「よくわからないが、一体なにごとであるか。」と思いはした。しかし、かつて通った女が特に言ってきていることを聞き捨てにもできないと思い、牛車を停めて女の邸へ引き返していった。

邸の門から立ち入ってみれば、雑草が深く茂って 以前とはうってかわって荒れた庭の様子である。それを見ていると なんともいえぬ寂寥(セキリョウ)の感がこみあげてきた。つまるところ、この自分が女に対して為してきた不実が改めて思い知らされるようであった。それもあって どうかしてか落ち着かないような気持となってきた。そうして、女は 久々の男との再会を特に喜ぶ様子もない。ずっとそのままの姿勢でいたかのように脇息(キョウソク ひじ掛け)によりかかって 法華経を読誦なさっている。憂いのある様子で少しやつれはしているが、とても美しく愛らしく感じられた。その髪が顔にかかる様子などもかつて見知った人とも思えない様子である。

このさまをみて、男は「いったいどのような悪霊(アクリョウ)がこの自分にとりついて 自分を狂わせて、この女(ヒト)をしてこのような物思いをなさしめたことであろうか。」と痛感した。数年来 この女に対して為してきた酷い仕打ちを改めて思い起こして心から深い思いが沸き上がってきた。そうして、女に対して今までの不本意な無沙汰のいきさつなどをねんごろに語り掛けた。

それに対して女は何か言いたげな気配ではあったが、特に返事もなかった。経を読み終えてから、と思っていたのかもしれない。やむなく、男は気も晴れず、落ち着かない様子で女が経を読み終わるのを待っていた。

そうして、

「於此命終 即往安楽世界 阿弥陀仏」(オシミョウジュウ ソクオウアンラクセカイ アミダブツ 法華経薬王菩薩本事品。 前後含めて読み下しは「若し如来の滅後、後の五百歳の中にて、若し女人ありて この経典を聞きて 説の如く修行せば、」「ここにおいて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の、大菩薩に囲饒イニョウせらるる住処に往きて 蓮華の中の宝座の上に生まれん」)というところを繰り返し、二三度ほど読誦して、やがて眠るがごとくに座ったまま息絶えていた。

さて、この時のその男の気持ちを想像するにどれほどのものであったろうか。此の男とは太政官でなにがしの弁とかいう者であるとは聞いているが、その名までは覚えていない。(今昔物語ではその後病死とある、今鏡では しばらくのちに隠棲したとなっている)

人を恋い慕う思いの強さから中国では 男を思うあまり石と化してしまった女の望夫石(ボウフセキ)のはなしが名を知られている。あるいは男に残された辛さのため悪霊などになってしまうといったはなしもよくしられるところである。それが今回のこの女性は、男から忘れられ、捨ておかれたという機縁を往生のもととして、念願のごとく我が終末を全うしたのである。それは非常に貴い心映えであったというほかない。

ああ。今回のこのエピソードを前例として、恋の悩みを持つ人たちがそれを機縁として往生を願う気持ちへ転換できるならば、どんなにか立派な心掛けであるよと言えるのに。現実にはなかなかそのようにはできはしないのだ。

たとえ、相思相愛で愛し合った仲であったとしても、世を変えて幾世(イクセ)のときも相愛のままでなどいられはしない。たとえば、楊貴妃は 玄宗皇帝との間に比翼の誓いをむなしく残して果てた。孝武帝の妻 李夫人は死後 むなしく 夫 孝武帝の焚いた香の煙(反魂の煙ハンゴンノケブリ)にのみ姿をみられたのみである。いわんや、それほど思いも深くない人のためには、何かにつけて憐れむなどということもあるはずがない。恋心がありあまるとき、あるときは富士の高嶺をひきあいにだしてみたり、海士(アマ)の袖(ソデ)に恋心を譬えて詠んでみたり、心を込めて恋心を表現してみたりしても結局意味はないのである。思う相手に一人胸を焦がし、袖を恋の涙で濡らすということは この上なく無駄なことである。

いかにいわんや、この現世だけで生が終わるわけではないのだ。その行為の報いも必ずあるのであるから、来世となっては 思い焦がれたその反動で、今度は自分が人に物思いをさせることになったりする。すべては このように世々生々(セゼショウジョウ輪廻の生 永劫回帰)たがいに極まることもなくして、生死の絆(キズナ) 軛(クビキ)とならんことは 非常に罪深いことであると言わざるを得ない。であるから、このたびの生において、思い思ったの愛憎を超越して極楽に生まれるのであれば、この世の憂きも辛きがあったとしても それは、夜眠る夢が変って見えることと異なることがないのである。そうして、この世にて出会う愛憎の相手を仏道への善智識とさとって 恋する相手を仏道に導こうとすることこそが、本来あるべく様であると思われる。仮に 往生を遂げ極楽にて生まれてなお忘れがたいほどの愛憎の気持ちがあるのであれば(まあそういった必要はないではあろうが)、仏に恨み言を言えばよいではないか。

<20250331訳す>

<訳者より一言>

男と女の間の愛憎の感情について これも所詮 今世のマトリックスにおいてのつまらぬ執着に過ぎぬのであるから、仏道の縁として転換せしめよ、という結論ですね。

まあ、言ってしまえばそれだけのことではあるのですが、愛憎の渦中にある人間には基本的にこういった教え聡サトシは一切通用しないであろうな、ということもわかろうというものです。まあ熱病のような感情ですからね。これも「性エネルギー」があれくるって恋愛の業火に男女を焼き尽くさんばかりに燃え盛るほどの強大なエネルギーであるということです。

この意志のちからではいかんともしがたいほどの強大なエネルギーを有する「性エネルギー」を コントロールし「昇華」せしめる法という視点 これが

般若波羅蜜多であり、また般若波羅蜜多理趣なのか ということです。

ここで結論されたような 心持に簡単にはなれないのです。そう、「意志」の力ではいかんともし難いのが 愛憎のエネルギーですね。顕教的解決ではやはり難しい、密教的な解決しかないのでは、って率直に思いますね。

般若波羅蜜多「性エネルギー昇華」にしか解決はナイということですね。ハイ。