平安時代中期に ある田舎にひとりの男がいた。
長年 相愛の思い深くして連れ添った妻がいた。この女が 子供を生んでのちに 重い病となって床に臥せてしまった。夫は 愛しい妻のこととて、病の床に常にいて看病していた。
しかし、
遂に回復することなく臨終となってしまった。その際、妻の髪の毛が熱発した体温にて乱れてしまうのを結びまとめようとしたのだった。そのために、たまたま傍(カタワラ そば)にあった手紙の反故(ホゴ いらない紙くず)の端を引き破って 妻の髪の毛を結びまとめてやったのだった。
そうして、それより程なくして妻は息絶えてしまった。残された夫は、泣く泣く葬送に関する諸事を済ませて、はかなくも妻の亡骸(ナキガラ 遺体)を火葬したのだった。その後年数も経って故人を弔う仏事の供養を懇(ネンゴ)ろに営んだのである。
しかしながら、残された夫の亡き妻を思う気持ちは少しも慰められないのだった。時が経つにつれて一層、亡き妻の事を恋しくどうしようもなく思い焦がれる気持ちが尽きないのだった。
「ああ、どうにかして もう一度、妻が生きていた時の姿を見たいものよ。」と、涙にむせびつつ日々を明かし暮らしていたのだった。
そうして、あるとき 夜も随分更けた時分のことである。思い焦がれていたこの女が 夫のやすんでいた部屋へやってきたのである。夫は その姿を見て、夢ではないかと思った。
しかし、
まぎれもなく望み続けた妻が生前の面影のままそこにいる。それを見てあまりの嬉しさに まず涙がこぼれ落ちたことであった。そうして、女に語り掛けた。
「さてさて、命は尽きて もはやこの世の生とは無縁となって あの世へ逝ってしまったのではなかったのか。いったいおまえさんは どのようにして冥界からここへ来られたのか」と問うた。
すると、
「まったくあなたの云う通りよ。ひとたび冥界へいった私が、この世に帰ってくることなど道理からも説明ができないし、過去にも聞いたことがないわ。けれども、あなたのもう一度 会ってわたしの姿を見たいという思いの深さによって、ありえないことを無理に実現させてこうしてやって来たのよ。」と女は語った。

(いやAI生成の 絵のレベルが過去のものより格段に向上していますね。
やや時代不明の内容ではあるものの 絵としての完成度はとても高いと感じます)
そのほかにも 妻にも夫にも心のうちに秘めた思いがあったであろうが、そのすべては無論コトバで書きつくすことはできない。そうして、 夫婦で一緒に添い寝をして睦まじくあるようすは 生前とかわることはなかった。
夜明け時分となって、女の霊が 帰りがけに何か物を落とした様子で 寝所をここかしこ探している風であった。しかし、それが何であったのか 夫はわからなかった。
そうして、
妻の霊も完全に去ってしまい 夜も完全に明けたのちに そのあとをみてみると、元結(モトユイ 髪留め 髪結び)が一つ落ちていた。拾ってみて仔細(シサイ 細かく)にみてみたが、妻が臨終の際に 自分が髪を結ってやった まさに反故(ホゴ 紙切れ)の切れ端に間違いなかった。あの元結(モトユイ)は妻のなきがらと一緒に焼いて葬ったので、決して残っているはずがない。しかしながら今手元にあるのは間違いなくあの元結である。
男は とても不思議に思ったのだった。念のため 自分がその元結をこさえたときに破り残した手紙があったので、それにあてがってみた。すると、すこしも違いなくあわさって 元結の残りの反故紙であると確認した。
以上の話については「これは この今の世の不思議である。決して 根も葉もないことではないよ。」といって、澄憲法師(チョウゲンホウシ 藤原信西の子 八十六歳没)が よくひとに語っていたことであった。

また このような話もある。
昔 小野篁(オノノタカムラ)が 相愛にして子までなした異母妹の逝去して後に、夜な夜なこの女がこの世に現れては 篁(タカムラ)と互いのことを想いあう歌を詠み交わしたというハナシが伝えられている(『篁物語』)。このとき 亡き女の歌を詠む声のみが聞こえて、泣く泣く手で女に触れようとしても 触れられなかったということである。
以上の複数のエピソードから、ひとの思いの深さ 念というものが深く強くなると、常識では考えられないような現象が起こることもあるのだ、ということを知るべきだ。
これまでのハナシをみると 亡き妻などの一般の人間存在を思ってでさえ奇瑞(キズイ 奇跡)があるとわかる。まして、仏や菩薩といった存在を一心に念じて お会いしたいと願うのならば、仏や菩薩は その念じたヒトの前に必ず現れるよと種々の経典でお誓いなさっているのだ。だから、この仏菩薩の誓願を聞きながら 修行を重ねて仏や菩薩にお会いできないなどというのは、修行者自身の心がけに問題があるというほかない。したがって、妻子を恋しく思うように 仏菩薩を恋しく思いたてまつり、名誉や利益を欲するように仏道修行に励むのであれば、仏菩薩が姿を現し目通り叶うということも難しくはないのだ。
それなのに、心を仏菩薩にお会いするのだということに定めることもなく、今は末法の世であるから仏菩薩にお会いするなどということは難しいことである、とか
「この凡夫の身は 拙(ツタナ)く愚(オロ)かであるので 願いがかなうはずがない」などと決めつけて、消極的な心持ちとなってしまうのは、 ただ志(ココロザシ)が低いということを原因とするのである。
ある人が次のように言っている。
「カゲロウという虫がいる。このかげろうは 夫婦(メオト)の契りが深いという。その契りの深さは他の生き物の中でもえりすぐりであるという。その証拠を以下の様にして示そう。
さてこの虫つまりカゲロウの雌雄一対(シユウ イッツイ)をとってきて、銭二文のうち一文づつそれぞれ別々にその死骸を張り付けて、朝に市場へ行ってそれぞれ別の商人に買い物の対価として流通させる。商人は商品の対価としてこの特殊な硬貨をうけとり流通してしまえば、多くの人手に渡っていき、その銭をあつかった人手の数もわからないくらいであろう。しかしながら、カゲロウの夫婦(メオト)の誓いが深いことによって、夕刻には必ずもとの一揃い(ヒトソロイ—この場合ツガイ 夫婦)となって帰ってくるのである。」と。この故に、硬貨 銭(ゼニ)の異名は多いが このカゲロウの故事をもって 銭のひとつ異名を「蜻蚊(セイブン—かげろう の意)」というのである。
虫の夫婦(メオト)の契(チギ)りなどここでわざわざ書くのも意味のない気もする。
しかし、
このような他愛もないハナシにおいても道を求めるということを思うべきである。われらは 深く思い立って仏法にめぐりあおうと思うのであれば、その思いというものはどうしてカゲロウの夫婦(メオト)の契りに異なることがあろうか。いや、その思いの強さという点からいえば、異なることはないのだ。
たとえ、
自らの悪業(ゴウ)にひかれてしまい、思いもせぬ横道にそれてしまったとしても、仏は 機に応じその悪道に堕ちた者のところへ必ずあらわれて、お救いくださるであろう。
(20251022訳す)

<訳者よりひとこと>
不思議譚として単純におもしろかったですね。
道を求める思いの強さの大切さを 鴨長明が出家の立場で強く訴えているということです。
「性エネルギー昇華秘法」実践者の立場で言えば、不空 法身 毘盧遮那との合一の思いあるいは南無観世音の 観音助けたまえ と念じるときの思い というものは、死を覚悟するほどの強烈な思いでないとだめである ということです。
ただ、信じる対象の吟味というものがなくただやみくもに「信」を説くおしえはちょっと違うかなという気もします。ここで諸例があげられていますが 結局は「恋心」というもの 性エネルギーの行き着く先は?という問題であるのですね。特にわれら「性エネルギー昇華」を目指す女神の行者サムライにおきましては。また、「恋心」を信のエナジーの例としてとりあげた長明の直観は間違いではなく、性エネルギー=生殖衝動=自分と対の性をもつ存在への合一の思い とはそれほど強大な御し難い太陽のエナジーということであるからであります。
ここで長明のいう「仏法」とか「仏道」を「太陽神教」とか「女神」に置き換えて考えてみれば われら「性エネルギー昇華秘法」実践者におきましても 学びの大きい内容となると拝します。—了—

