発心集二巻六 津國妙法寺楽西聖人の事
(つのくに みょうほうじ らくさいしょうにんのこと)
津國(つのくに)つまり摂津(大阪、兵庫のさかい地域)の和田という地に妙法寺という山寺があった。
そこに楽西という聖人(他伝未詳)が住んでいた。
楽西聖人はもとは出雲の国(いずものくに)の出身である。
楽西聖人は、出家前 農業を営んでいた。
あるとき、
ある人が新たに田をおこそうとしているのを見ていた。
その男は 牛に鋤(すき)を引かせて作業を為していた。
彼は、牛が苦しそうにしているのを、鞭(むち)打って酷使して 土地を鋤(す)いていた。
それを 在俗(ざいぞく 一般人)時の 楽西聖人はじっとみていた。
そして、
「このように生き物を苦しめ悩ましつつ、力づくで生産したものを ただ当然のように思って、受け入れている事は この上なく罪深いことではないのか。」と思い至るようになってしまった。
結局、彼はこのことが機縁となり、発心してすぐさま出家したのである。
出家して後、住むところを求めようと思い、諸国を遍(あまねく)く放浪して歩いていた。
そして、縁を感じ よい感じであると思った場所を見出した。
ここに住もうと思って、其の地のある僧の庵(いおり)を尋ねて行った。
すると、
庵の主(あるじ)は ちょっとした用事で不在であった。
見まわすと、ほだ(燃料用の木の切れ端)をまとめて取り置いているのに気付いた。
それで、何も言わずに庵に入り込んで、木を多くとって火にくべて、濡れた背中を乾かしていた。
そこに、庵の主人の僧が帰ってきた。
彼は留守中に、勝手に焚き木をしていた楽西聖人のありさまを見て言った。
「いったい、何者が 留守の間にきて、誰からの取次(とりつぎ)もなく、ずうずうしく勝手に焚火(たきび)などしているのか!」と。
「まったく、とんでもないことよ!」と随分怒っている。まあ、無理はないのだが—。
これに対して、楽西聖人は、
「私は このたび発心を起こして諸国を彷徨(さまよ)いありく、修行者です。
あなたも、私もともに仏の御弟子(みでし)ではないのか?
であるならば、何も 顔見知りであるとか、ないとか言わなくてもいいのではないか。
旅の途中で、風邪の症状が出て辛かったので、わるいとはおもったが、火の道具があるのに気付いて 使わせてもらったのです。
焚き木を どれほど焚いたとお怒りか?
あなたが、あくまでも木が惜しいというのであれば、山から伐(き)ってきてお返しいたしましょう。
また、これ以上ここの火にあたるなと申されるのならば、立ち去りましょう。
慳貪(けんどん ケチをいう仏教用語)なる者の火にはあたらないほうがましだ。このままでていきましょう!」と返した。
さすがに、この言い分を聞いて、庵の主人も道心のあるものだったので、言った。
「まあ、お怒りなさるな、事情が分からなかったので、こちらもあのように怒って申してしまったこと。許されよ。
御坊が言わるることも道理が通っておる。まあ、ゆっくりされよ。」
そうこうして、互いに仏道における信条や考えなど語り合った。
そして、互いに打ち解けて、この僧と聖人は親友となったのである。
後、同じ山の 離れたところを、切り開いて 形ばかりの粗末な庵を結んで 聖人はここに住み始めたのである。
かくして、数年を経て 楽西聖人は 貴く修行の日々を過ごされた。
そして、
聖人の噂は 福原入道(ふくはらのにゅうどう)つまり平清盛太政大臣(だいじょうだいじん)の耳にも入ることになった。
結果 一族の平守俊(たいらのもりとし)に
「まことに貴い聖人がおるという。その人について調べてこよ。」と命じられた。
そして、守俊を使いにして便り(たより 手紙)をもたせた。
「あなたのような方が、身近にいらっしゃるととても心強く思います。
どのようなことでも、御用がございましたら必ず おっしゃってください。
お力添えさせていただきます。」
という内容の便りとともに、贈り物も複数 楽西聖人に贈られた。
この清盛公 福原入道の申し出に対し、楽西聖人は
「あなたのおっしゃることに恐縮しております。
ただし、私はとりたてて能もなく、徳もあるものではありません。
あなたがおっしゃるような者では決してございません。
私のことをどのようにおききして、このようなお使いを派遣されたのかと不思議に思っております。
さきごろ頂いた物も お返しするのも恐縮ですから、今回だけは手元に置かせていただきます。しかし、今後は このようなお心遣いをいただくわけにはまいりません。
付け加えますに、
私はあなたにしていただくようなことは何もございません。
また、お近づき頂いても、あなたの御用にかなうようなことはすこしもできないと思っております。」
と、敢えてはっきりと交際の叶わぬことを述べられたのであった。
使いの平守俊も 仕方なく清盛公のところへ帰ってきて、以上の件を報告した。
清盛公は、
「やはり思った通り貴い人である。
しかしながら、かように かけはなれた在りようを望まれるのであれば、
仕方ない。
これを なお あれこれ言い続けるのは、楽西聖人の心に違(たが)うことになるのう。」
と、いわれた。
そして、それ以上 連絡をとることはしなかったのである。
さて、楽西聖人は 清盛公から頂いた贈り物を 寺の他の僧たちに分け与えて、自分は少しもとらなかった。
ある僧が不思議に思って、
「どうして、頂いた物をすこしもとらないのですか?
貧しい者が苦しい暮らしの中で、少しのものを布施したときは 彼の志は重く感じるものです。あなたは、それを敢えて受け取っているようです。
しかし、清盛公ほどの人にとっては 今回の贈り物など彼にとっては物の数には入らないほど負担のないものでしょう。受け取ったとしても問題はないと思うのですが。—」と聖人に尋ねた。
対して、
「あなたがおっしゃることはもっともなことである。
まこと、貧しき人の志(こころざし)は、身に重い布施であります。
しかし、もし私がこれを受けなければ、誰が その少ない物を得て 布施した貧しい者の想いを受け止めて、貧しき者の志に報いようとするのか。
我が身に重いからといって、これを受けなければ、自分の罪をのみ恐れて、人を救う心には欠けることになるだろう。
とするならば、貧しき者からの施しを拒むことは、きっとほとけのみこころにも背くことであろう。」と聖人はいった。
続けて、
「さて、かの清盛公 福原入道(ふくはらのにゅうどう)殿は、仏道の功徳(くどく)を積もうとして何ができないということがあろうか?いや、何でもおできになるはずである。
仏道における善知識(案内人)をお探しになったとしても、世に行徳(ぎょうとく)の高い僧はごまんといる。清盛公に招かれて、行かないという人はあるまい。
結局、この私を ことさら見知って縁を作らずとも、全く不自由することはないであろう。
わたしは たいして徳もない身であるから、清盛公の依頼をお受けしても無駄になるであろうと思って、お断りするのだ。」といわれた。
こんな風にして、あちこちから物を得ても、寺の僧を呼び集めて皆に分け与える。あとで使おうなどと考えるようではなかった。
楽西聖人の住む寺の近くに、夫に先立たれた老婆が 非常に貧しくして暮らしていた。
聖人は この人をとてもかわいそうに思って、日ごろからいろいろ分け与えていた。
ある年の師走(しわす)の大みそかに、身近な人たちから餅をたくさんもらったので、聖人はかの老婆を思い出して、餅を届けてやろうと思い立った。
かなりの夜更けになって、聖人は自ら餅をもって、老婆のうちへ歩いて行った。その際、途中で 長年愛用してきた数珠(じゅず)を落としてしまった。
寺に帰ってから、数珠のないことに気づいたが、年末の夜に草木の生い茂る山の中の道を行く気にもなれないで、探しにも行かなかった。
「長年 修行につかって愛用してきた数珠(じゅず)をなくして残念である—。」と嘆いていた。
しかし、数珠つくりの職人に新たに 数珠をこしらえるように依頼していた頃であるが、一羽の烏(からす)が何か食っている様子で、寺の堂の上で、からからと音を鳴らしているのが聞こえた。音のするところへ行って見てみたら、そこには楽西聖人が落とした数珠があった。せっかく餌だと思って得た数珠をとりあげるのはかわいそうである、と思って餌を与えつつ、数珠を取り戻した。そんな経緯で、このときから、聖人はその烏となかよしになった。
この烏(からす)は随分、不思議なところがあった。
寺に人が布施の物などを持ってくるときに、必ずかの烏が来て鳴くのである。
そして、烏がとまっていた位置から 来て鳴くまでの距離によって、「あと何日だよ」と判断して鳴くのが、間違うことがなかった。この烏、ほぼ護法童子(ごおうどうじ 仏法守護の童子の姿をした鬼神)といってもよいほどの様子だった。
楽西聖人の庵の前に小さな池があった。
蓮(はす)の花多く池にはあって、盛りの頃には 水面も見えないくらい咲いていた。
その様子は まったく縦糸が白で横が紅(あか)で織られた紅梅の絹(こうばいのきぬ)を覆ったようであった。
さて、ある年の夏、この池の蓮の花がまったく咲かないことがあった。皆、このことを不思議がっていた。
対し楽西聖人は、
「今年は 私がこの世を去る年なので、蓮の花は私がいくべき死後浄土の池に咲こうとして、ここには咲かないのであるよ。」といっていた。
そして、実にこの年 臨終正念としてめでたく 往生されたのである。
このような不思議な話が この楽西聖人には他にも多く語られるのである。
しかし、これ以上は煩瑣(はんさ)になるので記さない。
(20230902訳す)