発心集 第四巻第4話 (えいじつ、ろとうのびょうしゃをあわれむこと)
比叡山に 叡実阿闍梨といって 有験、高徳の僧がいた。
(えいじつあじゃり—十世紀後半の人らしい。伝未詳。)
ときの帝(みかど:天皇、円融天皇 他書に「御悩み(おんなやみ)」御病気で、脳病=神経の病)の脳の病が重くおわしましけるころの話である。
叡実阿闍梨に 朝廷よりお召しのこえがかかった。叡実はたびたび辞退申し上げた。しかし、重ねてのお召しの仰(おお)せをついに断り切れずとなってしまい、仕方なく出仕することとした。そして朝廷への出仕の途中の道でのことである。流行病に冒された乞食女が足も手も動かなくなって、ある屋敷の門のそばで腹ばいになって動けずによこたわっていた。
叡実阿闍梨は この病人のありさまをみて、悲しみの涙を落しながら、牛車から降りた。そして、 病人を憐れんでそのもとへ行った。おつきの者に 敷物を持ってこさせて敷かせて、病人の身の上に日よけをこさえて覆い、何か食う物をと、持って来させた。そうこうしているうちにかなりの時間が経ってしまった。
朝廷からの勅使(ちょくし:天皇の侍者、使い)の者が、「おい、日が暮れてしまうよ。よくもよくも そんな余計な不都合なことをするものであるな。」と 叡実に言った。
これに対し、
「もう参内(さんだい)はやめだ。おまえさん(勅使)は、そう伝えてくれ。」と言った。
勅使は驚いて、叡実に理由を聞いた。
叡実阿闍梨はこれに応えて言った。
「この仮想の世を厭(いと)うて、我が心を仏道にすべてお任せしたのだ。であるから、帝(みかど)のことだと言っても、とりたててわたしには貴いこととは思われぬ。仏道における目から見れば、帝に比べこのような非人だといっても、おろそかにはできないな。ただ、帝も非人もわたしにとっては同じように思えるだけだ。
それになあ、みかどの祈祷(きとう)のために 有験(ゆうげん—祈祷の効果の高い)の僧をほかに呼べばいい。そしたら、比叡山でも高野山でもありがたい坊さんは大勢いるのだから、誰かは喜んで参内するだろう。私がことさらに行かなくても、とりたてて不都合はないだろう。
ところがだよ、この女乞食はな、この人を厭(いと)い、汚(きた)ながる人はたくさんいるが、わざわざ近づいて面倒見る人はまずいないだろうよ。だからな、もしこの私がこの乞食を捨てて去ってしまったなら、すぐにでもこの女乞食はこと切れてしまうだろ。だから見捨てられないんだよ。」と言って、その女乞食をのみ面倒を見て、ついに参内(さんだい)することはなかった。
このはなしを聞いた当時の人々はみな、稀(まれ)に見るありがたいことである、と噂したのであった。
この人、叡実阿闍梨は のちに自分の臨終の際に、覚醒往生を遂げたのである。くわしくは『続本朝往生伝』(しょくほんちょうおうじょうでん。大江匡房(まさふさ)著。康和3年(1101)から天永2年(1111)までの間の成立。書名の「続」は、慶滋保胤(よししげのやすたね)の『日本往生極楽記』に続く意。)に述べられている。
(20240518 訳す)
<訳者記す>
真言律宗の 叡尊や忍性の非人救済という行為がいかに当時において意味のある太陽神教としての仏道の根源原初へ回帰するのに重要な行為であったのかうかがえるないようであります。
現世の唯物論を超越したこの身には、天皇も非人もおなじ人間である、それに、天皇はたくさんの霊験ある僧がいくらでも寄ってくるだろうが、 目の前の死にかけている乞食は今私が見捨てたらこのまま死んでしまうんだよ、という発言ね。【条理】と【道理】の、世に媚びないまことに筋の通った説明であります。
慈愛のための慈愛は、問題をややこしくすること間違いなしですね。道理と条理から 導かれた結果の行為が 慈悲深く見える ただそれだけというような透徹した 道理 それが最高の智慧(女神の智慧)に基づいた振る舞いということでありましょう。
今回のおはなしも 鴨長明発心集のなかでも すぐれた名逸話のひとつかと思われます。