(平安時代 の女性 と指定すると どうしても 時代考証不明の わけのわからない絵図を作成してしまう AI。もうちっと賢くなってほしいですね。しかし、時代考証以外の 絵自体の完成度はどんどん向上しています。もう そのまま張り付けちゃいますね。)
発心集 第四巻第6話 (げんひん ねんを あしょうのしつに かくること ふじょうかんのこと)
昔(おそらく奈良時代聖武天皇の御代ミヨのころである)、玄賓僧都(げんひんそうず—発心集第1巻1話、2話既出 法相宗の僧。弓削の道鏡ユゲノドウキョウと同族。弓削氏。弓削の道鏡が破戒の性的退廃の僧などという有名な謬見臆説ビュウケンオクセツは江戸時代の儒学者や国学者などが唱えた 反太陽神教的立場からのものである。)は 言葉に尽くせぬ高徳の僧であった。身分の高い者から 低く卑しい者たちに至るまで、仏陀のように彼 玄賓僧都は尊崇されていた。なかでも 当時の大納言(だいなごん 現代の総理大臣級)は、長年にわたりあつく玄賓僧都を仏道の導き手として頼りとなさっていたのである。
そうこうして月日が経ている間に、玄賓僧都は何事かを悩まれている様子であった。この僧都の様子に 大納言も心を痛めて、ご自身から僧都ソウヅのもとへ見舞に向かわれた。そして、「さて、僧都殿の御気分はどのようなご様子ですか。」と懇切に本人にお尋ねしたのであった。
僧都は、「もそっと近くへ寄り給え。ほんとのところを申しましょう。」というのだった。
そして、大納言は いぶかしく思いながら、玄賓僧都に近寄りなさったのである。玄賓僧都は声を殺して大納言に以下のように申し上げたのである。「ほんとのところ、大した病ではございません。先日あなたのお屋敷に詣でまいりましたときに、奥方様の姿形スガタカタチを拝見しまして、あまりにもお美しいと感じました。わずかにそのお姿を拝見してから後、正気を失ったようになってしまい、心は悶々として、この胸も塞がったようになって、どうにも思うようにしゃべることもできなくなったような有様です。あなたの奥方様に懸想(けそう—他人の妻に恋煩いすること)したなどということは、ほんらい口にするのもはばかられることだとは思います。しかしながら、あなたのことを深くたのみにしてお付き合いしてきて年数も経ってきました。たとえこのような理由であるとも、どうして信頼するあなたとの間に心のわだかまりをつくってはならないと思ってあえて申し上げているのです。」と 僧都は語った。
ここまでの僧都の告白を聞いて、大納言は驚いて、
「そんなことならば、なぜ もっと早く私に相談してくれなかったのか。簡単なことである。すみやかにあなたのお悩みを解消して差し上げましょう。
わたしの家へおいでください。あなたの望みを叶えられるよう、おっしゃるとおりに 便宜(べんぎ)をはからいましょう。」と言って ご自分の邸(やしき)にお帰りになった。
そうして、大納言は北の方(奥方)に一部始終をお話しなさると、奥方は、
「承知いたしました。僧都さまがそのようなことを いい加減なお気持ちでおっしゃるとは思えませんもの。それは 大変に思いもかけず 辛いことではございます。けれども、あなたが 懇(ねんご)ろに、お考えになってそうされようということでございますから、お望みのようにいたしましょう。」というのであった。だから、種々配慮をして、僧都の願いを叶えられるように支度(したく)したのだった。そして、僧都はきちんと作法通りの法服を着て、大納言の邸(やしき)へといらっしゃったのである。
そのような僧都の姿は 男女の密会というにはふさわしくなく、不似合いな様子に思われた。しかし、几帳(きちょう)などの間を隔てる用具はしつらえてあって、奥の情事にふさわしい準備された場所にいよいよ入室されたのであった。そこに大納言の北の方が美しく着飾っておいでになるのを、僧都はひととき(二時間ばかり)ほどつくづくとご覧になった。その間に、何やらおのれの性衝動を昇華させるための弾指(たんじ つまはじき所作しょさ)をたびたびなさっていた。
結局 そのようにして 僧都は 北の方に近づくこともなく今回の訪問を終えたのである。そして、中門の通路(寝殿造りの東西の邸の接続部で東西の門の出口)に出て、笠をかぶったり帰り支度(じたく)をして、邸を辞去(じきょ)されたのであった。その結果、大納言は僧都のことを以前にも増して尊敬するようになったのである。わたし鴨長明が思うに、おそらく玄賓僧都は、不浄観フジョウカンを実践して性的妄執モウシュウを克服されたのであろう。
(不浄観 九相によるもの『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。
脹相(ちょうそう) – 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
壊相(えそう) – 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
血塗相(けちずそう) – 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
膿爛相(のうらんそう) – 死体自体が腐敗により溶解する。
青瘀相(しょうおそう) – 死体が青黒くなる。
噉相(たんそう) – 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
散相(さんそう) – 以上の結果、死体の部位が散乱する。
骨相(こつそう) – 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
焼相(しょうそう) – 骨が焼かれ灰だけになる。
死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。—九相図 以上wikipedia九相図より)
ここにいう不浄観とは、人体の不浄なることを観想する行である。そもそも仏のもろもろの法が存在して、すべては仏のみ教えであるとはいっても、聞いてよく実感し難いことは この凡夫の愚かな心にはなかなか簡単には思い起こせないものである。しかしながら、この不浄観という教えにいたっては、観想すべきことを目に見えるように想起しやすく、心から納得しやすい。不浄観にいう 美しき女性の容色が崩壊壊滅していく様は 悟りやすく、想起しやすい。論書にも「もし、他人への愛欲の執着が強くて、自らこの執着を超越しようという心があるのであれば、必ず不浄観による観想をなすべきである。」と(出典不明)。
だいたいにして、人間の身体というものは 骨と肉で構成される仕組みが朽ちた家のようである。六腑五臓(ろっぷ胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦ごぞう肝・心・脾・肺・腎)といわれる内臓の様相も 身体の中に毒蛇がわだかまっているのと変わりはない。血液は身体を循環し、筋(すじ、キン)は関節のつなぎ目を機能させている。人体というものは、わずかに薄い皮一枚が こういった内部の構造を覆っているために、もろもろの不浄を隠しているともいえる。こういった不浄が本質の人体に、粉飾(おしろい・フンショク)を施したり、香(こう)を焚いたりして良い香りをこの身体にうつそうとしているのである。しかしながら、いったい誰がこういった努力を偽イツワりの施しをしていると知らない者がいるだろうか、いや皆偽りと知っているのだ。あるいは、人間は海や山に美味珍味を探し求める努力をしている。しかし、こうして苦労して得た種々のモノも、一晩経つと皆ことごとく不浄となってしまう。いうなれば 人体とは 装飾した瓶(かめ)に 糞(ふん・くそ)や汚物(おぶつ)を容れ、腐った死体に錦(にしき絹や美しく装飾した着物)を着飾っているのとおなじである。もしたとえ、大海を傾けて その海水すべてで洗おうとも、人体の汚辱オジョクが清められるわけではない。また、もし入手しにくい栴檀(せんだん白檀びゃくだん 高価な高木)をたいて匂いを施そうとしても、その香りも長くは続かず、やがて悪臭が漂うのである。
ましていわんや、人の魂が去ってしまい、命が尽きたあとは空しく墓場のはしに捨てられるだけである。死後の身体はふくれ、腐り果てて、ついには白い骸骨となり果てる。こういった、まことの相(実相)を知るがゆえに、人は いつも死や死を想起させるものを厭(いと)う。論書に「愚かなる者が仮の実在に耽(ふけ)り、心を惑わされるというその有様は、たとえば 厠(かわや便所・トイレ)のなかにいる虫の糞(ふん・クソ)やその穢(けが)れを愛し執着しているようなものである」と(『往生要集』に「身は臭く不浄なりと知れども、愚者は故(ことさら)に愛惜(あいせき)す。外に良き顔色をみて、内の不浄をば見ず。」とある)。
<20240713訳す>
<訳者からひとこと>
そもそも発心集の第1巻1話の隠棲遁世の 高徳の玄賓僧都も、過去にこのような 女色に迷った話がある というのが単純に面白かったですね。美談に仕立て上げられていますが、友人の大納言の北の方は 玄賓僧都に我が身を捨身供養するかのように僧への性への供物として捧げる覚悟をしてそのセッティングまでしている。そのこと自体が 玄賓僧都が何もしなかったことよりも、私としては一層衝撃ですよ。
宗教者の権威や 暗然たる社会的力というものが、現代以上に人々の心を支配していたのでしょう。おそらく、キリスト教会にせよ、仏教界にせよ 実際に こういった美談にならずに僧侶や聖職者への性の供物としてはてたオハナシというのは枚挙にいとまなく水面下にあるんでしょうね。そちらの語られぬ現実ということに人間の業の深さというか 暗澹たる気持ちになりますね。
また、
不浄観というモノ 観想方法は わりあいに広く知られた観想方法ですが、これ禁欲方法の一種ですね。「性エネルギー昇華秘法」という至高の【真禅】を知り、実践する立場からは、こういった不自然な禁欲的観想は 禁忌の侵犯のためのより一層の快楽を得るためのの前段階として 珍重された偽善的な修行方法であると正直思いますね。実際、この不浄観にて我慢の期間を経て、それをしかるべき時に破戒し 思いを遂げるという 破戒の僧や聖職者が古来山ほどいたこともなんか容易に想像ついちゃいますね。
いやはや、ことほど左様なまでに六道の人間の現実というモノは罪深い業の深いしろものであると、思ってしまいます。「一切の希望を捨てよ」ですからね。また性衝動、性エネルギーは太陽神のエネルギーですから こういった不浄観などかるがる蹴散らすくらい強大なものであるような気もしますね。しかし、これに実際 成功し、結局 なんらかの集中行為やなにかで「性エネルギー昇華秘法」様の【真禅】をなしていると同様のレベルにいたった稀有の修行者もそれなりにいたのだろうとは思います。有名無名のうらしまたろうたちですね。
聖徳太子座像や神社仏閣のつくりから それは原初元型の人類の記憶の奥深くに秘められ続けている至高禅ですからね。なんらかの生き方に徹した結果その境地に至った先達はやはりいただろうと結論せざるも得ないですね。
同時に、
やはり、女性の聖性や美しさをまっすぐにみとめ、宇宙の父と月の女神のまぐわいの歓喜の絶頂を観想し、性エネルギーを禁欲ではなく、「昇華」させるという 方法が至高にして、究極の【真禅】であると 思わざるを得ないですね。
以外にも 本編で奥方の前で玄賓僧都がなされていた弾指というのが「性エネルギー昇華秘法」かもしれませんで。指を?ハテナの形にハムサってやってたととかね。いや実際 法相の僧とかの実践されていた秘伝の「昇華の秘法」であったのかもですよ。鴨長明ほか一般人は到底うかがい知れないね。正直なところ 不浄観程度ではチトお粗末すぎるという気がしますね。
いずれにしても、ある種のひたむきさや真剣さというものが、「性エネルギー昇華秘法」の達成、完成に必要であるというのは間違いないと思われます。