
(プロンプト:「不動明王と制多伽童子 矜羯羅童子」ってお願いしたら上の絵です。ま、いいか)
ここ近年のことである。
比叡山の西の西塔(サイトウ)の西の谷に南尾(ミナミノオ)というところがあった。この南尾に極楽房の阿闍梨という人がいた。彼が住んでいた極楽房という僧房は 南尾の中でも 反対側の北尾の方向を見渡せて その視界には北尾までの登ったり下ったりする道が隠れずよく観える場所であった。
あるときこの極楽房の阿闍梨が 経をよんで 脇息(キョウソク 肘机 寄りかかって楽な姿勢をとるための道具)によりかかって 少しまどろんで夢を見た。
— 北尾の方からひどくやせこけた牛に積み荷を背負わせて山を登っている人が夢中で見えた。そのやせ牛は、荷の重さに疲れ果てて舌を垂らしてあえいでおり坂道を上るのに難儀していた。このやせ牛のそばに 赤い髪の毛をした目つきが賢そうな小童(コワラワ 不動明王の脇侍の矜羯羅童子(コンガラドウジ) 制多迦童子(セイタカドウジ)の暗示 矜羯羅は不動明王の慈悲の心を、制多迦は力や方便の心をあらわすとする)がついていた。その小童は、牛の後ろや前になったり、まわりを走り回って 押し上げたり、助けたりしながらしているので、牛はどうにか山道を登っているのだった。その光景は不思議で 小童は ただの人間とは思えない様子であった。

(まあAIの 絵の生成能力 確かに1年前とは比較にならないくらい向上してますね。 童子のイメージがちょっと違うんだけど まあいいか。純粋に 絵として美しいね。)
これを見ていた 極楽寺の阿闍梨は、
「あの小童は、ああ!いったい何者なのだろうか」と、思ってその光景を眺めていた。すると、阿闍梨の傍にいたある人が 「あれは 転生を繰り返すわれらの生々(ショウジョウ それぞれの人生)に 加護の誓いを 間違いなく果たそうとしている童子であるよ。」というのを聞いて 目が覚めた。
そうして
目覚めたのち 現実に同じ場所に目を向けてみると、夢の中でみたように少しも違わないありさまが見えた。あの夢の中と同じような牛が 重い荷物を背負って坂道を上るのが見えた。しかし、赤髪の小童は 牛のそばにはいなかった。

以上のことを考えてみるに あの牛の前世は 不動明王の信仰者であったのではないだろうか。ただ因果(インガ 物事の原因と結果)の理(コトワリ)により人知の及ばぬ制限があって、不動明王の信仰にかかわらず、業(ゴウ カルマ宿業のこと 前世の因縁)によって畜生である牛に生まれてきたのであろう。しかしながら、不動の信仰をしていたこの者のことを やはり完全には見捨て難くて、この者つまり牛の前に立ち後ろに立って、不動明王がお助けになろうとなさっているに違いない。

と、このように考えて、阿闍梨はとても深く感じ入り、貴いことであるよと思ったのである。そして、そばにいた小僧に、「小僧よ。入れ物に米をいれて持ってきてくれ。」と声をかけて持って来させた。そして、それを持って かのやせ牛のところまで阿闍梨は走って行った。牛のところまで来ると、牛をしばらく休ませて、持ってきた食い物を与えたのであった。
仏の誓願が空しくないということは この話のごとくである。
であるから、仏あるいは諸神に 我らは世々生々(ヨヨセイゼイ。ヨヨショウジョウ。時代の変遷および人生の繰り返しの中で。いつも。常に。我ら行者は永劫回帰なれば。)にお会いし仕えるのであると願うべきである。
(20250923訳す。)
<訳者より一言>
不思議譚ですね。
要点は、
最後の結論のごとし。
われら 般若波羅密行者【性エネルギー昇華秘法実践者】は 世々生々に永劫回帰して、
諸仏菩薩あるいは初神にまみえる者です。
特に、究極は それら諸神は父神と母神の化身 展開として、
父神と母神と一体たるべき子神の眷属たるものです。
これを
「蘇民将来子孫也」というのであり、
究極は単なる仏教という次元さえ超越した原初と元型の永劫の時の行者であるのであります。
なんと ありがたいことでありますか。
了。
*
なんか 去年の9月に訳したままになってました。日々多忙にて
以前のペースの様には『発心集』アップできません。
しかし、何年かかろうとも 継続します。
まあこれも たのしいから やってることの一つですからね。

