kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第五巻 第三話 母、女を妬み、手の指 虵に成る事(ハハ ムスメヲ ネタミ、テノユビ クチナワ ニ ナルコト)The Outsider Episode 49

今回記すお話について、どこの国であったこととか、確かに聞いたはずだった。しかし、もうそういった些末な(サマツ どうでもいい)ことは忘れてしまった。

あるところに 年配の妻に長年連れ添ってきた男がいた。この妻は今の夫と一緒になる前の連れ子の娘が一人いたのだった。その妻が、何か考えるところがあったのであろう、夫に次のように話し始めたのだった。

「どうか私と別れてください。そして、この家のなかの一間ほどの座敷をわたしの部屋としていただけるかしら。そうして、今後はのんびりと 念仏を唱えて過ごしたいと思うの。

そうして、あなたが 赤の他人の女と一緒になってしまうよりは、わたしが連れて来た娘を新しく妻として今後は 夫婦として過ごしてほしいのよ。まったく無関係な人とあなたが新しく所帯を持つよりは、私の為にもそのほうがよいと思うの。私もいまでは随分と歳をとってしまって、夫婦であることが何かと気重に感じるものだからね。」と言い出したものだから、夫である男も驚いたことであった。その女の娘も とんでもないことで無理ですよ、と母に言ったのであった。

しかしながら、こんなことはいい加減な思い付きで言えるものではない。そうしてその女は事あるごとに熱心に繰り返し同様の内容を語るのであった。ついには 夫であった男も「あなたが、そのように強く望んでいることであるのなら、あなたの言うようにしよう。」と、言うようになった。そうして、その長年連れ添った女を 家の奥の部屋で過ごさせた。そうして、男は 妻の連れ子であった娘と新たに夫婦になって 三人が一緒に住むということになったのである。

そうして、

奇妙な三人の生活が始まったのである。

もと夫であったその男は ときどきは妻であった女の様子うかがいにきて「具合はどうですか?」などと声をかけていた。同様に なにかと 娘である男の新妻もその男も、その女を大切に気遣いながら年月は過ぎて行った。

あるときその男が外出して留守の間に、この新妻は 母のそばに行って のんびりと世間話などをしていた。そのはなしのあいまに 母がとても深刻に考えごとに耽っているように思えて、娘は不審に思って母に話しかけた。「何か心配事があるんじゃないの。わたしには何も隠さずに打ち明けてほしいわ。さあ、心配事は何なのかしら。」と。

これに母は、「別になんでもないわ。このごろ何かと気分がすぐれなくてね。」などと言ってうやむやにしようとする様子を察して、娘は、これはただならぬことではないかと思ったのだ。だから、なお一層 母を問い詰めたのである。

そうしてついに母が語ったことは次のようなことであった。

「ほんとうのところ隠してることなどないのよ。

ただね、心配事があってね。この家のなかの風変りなありさまはね、私がのぞんで言い出してあなたたち二人に強(シ)いてすすめたことですからね。ですから、誰にうらみごとなど今更いいたいなどと思っているのではないのよ。

けれどもね、

夜に目が覚めたときにだれもいない一人の自分のありさまをまじまじと自覚してね、少しばかり心が動揺することもあるのよ。またね、昼間などにも ついおまえたちふたりの様子を覗いてみたりすることもあるの。

娘と夫が新生活を始めて こうして自分一人が孤独になってしまったということは予測がつかなかったのかと言われれば 確かにそうなのだけれどね。自分の胸の中が騒いでしまうこのことを『わたしがこんな気持ちになってしまったのは、誰のせいでもない。自分が愚かであったからだ』と思い直して月日をやり過ごしていたのだけれどねぇ。やはり、不自然なことを言い出して事ここに至ったことが 重い罪にあたるのかもしれないねぇ。

あさましくも奇妙なことが起こってしまったのよ」と、母は語った。

そうして、自らの手を娘に差し出したのである。娘がその母の手をみると、両の手の親指がふたつともクチナワ(蛇の古語)になって おどろきあきれるような様となって 舌をちょろちょろと出し入れさえしているのだった。

そうして、娘は このさまをみて、目の前が真っ暗になり心も惑い定まらなくなってしまった。それ以上は もう語ることもせず、ほどなく自らの髪をおろして尼になったのである。その夫たる男も この有様 事情をきいて、又 出家し法師となったという。結局、この男のもとの妻 つまり娘の母も 全てを捨てて出家し尼になったという。こうして、三人みなすべてが 出家し、仏道修行をして 過ごしたということである。朝夕 以上の過去のあさましい体験を 懺悔し悲嘆にくれながら修行に励んで後、ようよう その娘の母の指のクチナワももとどおりになったということである。さらに後、その母は 京に 乞食行(コツジキギョウ)をし、街々を歩き続けたということだ。

「その女をこの目で見た。」と言って 昔の人が語ったのを わたし鴨長明が聞いたのは、比較的近年の事である。

さて、

女性の習性として、他人を嫉(ソネ)んだり、その所有物を妬(ネタ)む心根によって、多くは罪深い報いを得るのである。そういった女性の罪深い習性が今回の事例の様に表面にあらわれてきたことは、悔恨の機縁となって滅罪のきっかけとなせるのでその意味では良いのである。であるから、表面にはなにげない様子でいながら その実心の中ではくよくよ女である自分の罪深さを思い悩んで一生を こともなげに暮らす人こそ、強く地獄の業を創り堅固にしてしまうのである。わたし鴨長明はそのようなごくありふれた女性のことをこそ気の毒に思う。

ここは 多くの女性は 心して心して、自らの浅はかな思いは置いて 仏道を自らの心の師となして、女である自分自身の罪深さというものは、前世の報いであると思い為し、かつ、(そういった一時の思慮は)自分自身の夢の中の戯れ事と思い直すべきである。そうして、わずかでも おのれのあさはかな心について懺悔(ザンゲ)の念を起こすべきである。ある仏道の論書に、「人が若し重い罪を創るとも、少しでも悔いる心があれば、後世において苦を受ける定業(ジョウゴウ)とはならない。」と、書かれている。

20250617訳す。

<訳者よりひとこと>

一つの怪異譚として面白かったですね。しかし、時代の制約とはいえ、女性一般に対するまあ僧侶 仏教者である筆者の見下し加減はアリテイにこれも興味深いと思いました。

女はおろかにして、あさはかなものである という一般論は 仏教ほかがこうして過去何百年もかけてかたちづくられてきたのでありますね。原初元型の 縄文土器や土偶の時代の 素朴な 女性礼賛や母性礼賛の気風は いまから千年前にこうも女性蔑視のありふれた風潮として 知識人一般の態度となっていったのであるな、とそういったことの確認として興味深く感じました。ひいては 千年前からごく最近においても、こういった女性は愚かなものである というひとつの常識的見解がごくあたりまえのものとして蔓延していることは素直に認めなければなりません。

現代において問題をややこしくしているのは、近代の女権論が 政治的女性の権利拡張の運動として、その実「愚かな女」という概念を裏側から補強してきたことは否めないのですね。でありますから、現代においては単純に 女性は素晴らしい と女性の味方のふりをして語ることは容易であり、その実一見女性の味方のふりをする女権論者が 奥底では女性一般をもっとも馬鹿にし 蔑(サゲス)んでいる地点にいるのと同じ現象を現出していることですね。

女権論を主張する女性は 深き次元で女 一般の実は敵であり、また女権論を主張する男性は 健全な男性性の欠如した、キモイ存在として弱者の権利一般として女性の権利も主張しているという悪循環が確立されているように思います(あわよくば弱い男の立場として弱者女性の味方のふりをして 運動に群がって来たオンナとヤレるかも のような醜い心性を感じるのですねwww)。

真の意味で 女性の味方 女性の擁護者と成れるのは、原初元型の 女神のサムライ 

「性エネルギー昇華秘法」の者だけであります。思えば、1945まではこういった

女神の戦士 女神のサムライもある一定数存在しました。松山歩兵22連隊の墓碑銘「もっとも勇敢な戦士は、もっとも愛情深き者なり」という無名の天道(テントウ=太陽神教)のサムライがわずか80年前に万単位で存在したということは、2600年の日の本の歴史において特筆すべきことと拝します。

加えて本編の教訓としてよみとれることは、 男性女性という地点を超えて、

コギトエルゴスム諸法「有」我な処世態度が 現世の諸矛盾や 諸問題をつくりだすのだという現代的ミーイズム問題の先駆として面白いとも思いましたね。

つまらぬ、おのれの「我」エゴの賢げな思惑 見解こそが 現世の地獄をつくりだす。そういったオハナシとして今回の怪異譚を拝すべきかと思いましたね。こういった傾向性は 単に「女の愚かさ」として片づける問題ではないのですね。現代の悲惨は このミーイズムというくだらぬ個人の「こだわり」というドーデモイイレベルの次元のモノが個性あるいは個性の尊重の名のもとに最大限 保護され そういったモノに固執することへの尊重が常態化しております。

封印されていたパンドラの箱からこの地上にあふれかえってしまったコギトエルゴスムの黒魔術、呪い を自然に呼吸する地上世界ということです。

現代の病根はここにあり、ということですね。千年前は特例的なこの個我エゴへのこだわりは例外的なこととしてこのオハナシは描かれておりますが、この例外的な事象がもう時代の空気アトモスフィアとなってしまった地点が現在の今ココということです。

おわり