kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第五巻 第一話 唐房法橋、発心の事 (とうのぼうほっきょう ほっしんのこと)The Outsider Episode 47

平安中期に 但馬守 国挙(たじまのかみ くにたか:兵庫県北部を統治した国守の国挙クニタカ)の子で、蔵人所(クロウドドコロ:政治権力を持った宮内庁みたいなもの。 天皇の秘書的機関)の雑色(ゾウシキ:下級役人)であった国輔(クニスケ)という人がいた。
ある内親王に仕える下女に思いを寄せていて この国輔は夢中になっていたころである。父の国挙(クニタカ)が但馬守(タジマノカミ)に任命されて下向(ゲコウ:京より地方赴任)する際に、随って行かないわけにはいかなかった。よって、京より遠く地方の父の任地へと下って行った。その思いを寄せて関係のあった女と一日会わないだけでも耐えがたく感じていたが、父について都を下向せざるを得ないという事情はどうしようもなかったのである。国輔は その女と将来のことをあれこれと約束して、泣く泣く別れたのであった。

そうして、あらたな父の任地に下った後にも、別れた女のこと以外に とくに考えることもないのだった。任地より京への便(ビン)があるたびに手紙を その女に送ったのであったが、届いてないような具合だった。なんらかの支障があって、女からの返事は一向になかった。そうして鬱々として心が晴れることもなく、歳月が過ぎて行った。そうこうしているときに、京から来た人の話によると、「京では 疫病がひろがって、人々が多く罹患(リカン)しているのですよ。死者も多く出て世情は騒然としております。」とのことだった。そんなハナシを聞くにつけても まず思いを寄せる女の安否が一層気がかりでしかたがなかった。

そうこうして後に 国輔は、どうにかして事情をつけて京へ女の安否を尋ねて戻ったのであった。するとかつて その女が勤めていた内親王の宮(みや:邸宅)を使いの者に訪問させてみたのだが、そこにいた人のハナシによると、「もうとうの昔に、病気になってしまいここは辞めて出立(しゅったつ)なされた。」とのことだった。使いの者は空しく国輔のもとに帰って ことの次第を語ったのだが、それを聞いて国輔は、たちまち苦悩で胸がいっぱいになってしまい、もうどうしてよいのか思案もできなくなった。とはいえ、再度その内親王の邸(やしき)に くだんの女の行方を尋ねに行かせたが、誰も知る者がいないのだった。もうどうしようもなくなって、国輔はあてもなく激情にまかせて 馬に乗って居所を駆け出して行ったのだった。

そうしていると、そういえばその女は、西ノ京の方に知っている人がいるようなことを言っていたような気がするな、とぼんやりと記憶がよみがえってきた。そうして、西ノ京の方へ行って あてどなく方々尋ね歩いてみた。すると粗末な家の前に くだんの女が召し使っていた見覚えのある女の童(メノワラワ:少女の下働き)が立っていた。国輔はこれを見つけて 感極まってその少女に声をかけようとしたのだが、しかし、その少女は隠れるようにその粗末な家のなかへ逃げるように入ってしまった。やむなく、国輔は馬を降りてそのあばら家に入って暗がりの中を探し見た。すると探していた女だとわかった。この女は顔を少しそむけるようにして髪をくしけずりながら座っていた。「ああ、無事でいてくれたのだね。」と、女の背中から抱きしめて、ここしばらくの思うに任せなかった彼女への気持ちを、心を込めて語りかけたのであるが、彼女はそれについて何もこたえない。国輔は、やむなくさめざめと泣く以外にすることはなかった。

「わたしのことを、恨んでいるのだなあ」と、感じいって心苦しく思った。しかし、涙がでるのを我慢して一層彼女に慰めの言葉をかけつづけるのだった。
「ねえ、どうしてあなたは 背中だけをわたしに向けつづけているの?早くあなたに会い続けたいと思い焦がれていてやっと会えたのに、背中ばかり向けていたのではいつまでたっても恋しい思いが晴れないよ。」と言って、彼女を自分の側に向けようとするが、彼女も声を上げて国輔に泣き勝るようになってしまい、どうしても国輔の方を面と向こうとしない。

そして、「ああヒドイよ。あなたも私のことを心から恨んでいるのだね。」と言って、彼女を強いて自分の方に向けさせたのであった。すると 女の面相からは あるはずの二つの眼球がなかったのである。木の付け根が地面から抜けて黒い空洞ができたようになっていた。それはまったく正視できないような様だった。

国輔は、心も動転して、しばらくはことばもでず黙り込んだ。しかし、気を取り直して、「これは、一体 なにがあったの。」と問うた。その女は泣くばかりで、何も語ろうとしない。やむない次第となって、そこにずっといて二人の様子をみていた先ほどの女の童(メノワラワ)が泣きながら国輔に事情を語り始めた。

「あなた様が 但馬におくだりの後に、しばらくすればお手紙なども来るのではないかと、ご主人様は人知れずお待ちでした。けれども、お手紙はくることもなく、一年経ち二年が経って、ご主人様は次第に物思いに沈むようになってしまいました。それでも、毎日の明けや暮れをどうにか暮らしてお過ごしでしたが、そうこうしている間にはやりの病(ヤマイ)にかかってしまい 内親王さまの宮(ミヤ)を去らざるを得なかったのです。あてにしていたご親戚もいろいろ不都合がおありで、身を寄せられませんでした。そうして、そこを断られた後はほかにあてもございませんでした。

やむなく この場所でわたしがご主人様のお世話をさせていただいているうちにはかなくも息をお引き取りになられました。そうして仕方なく、お亡くなりになったご主人様をこの家に置いておいても仕方のないことだと思いましたので、ご遺体をこの家の前に置かせていただいたのです。すると、日中のお昼ころに 思いもしませんでしたが、ご主人様は生き返りなされたのです。」と泣きながらはなす。

つづいて、
「その生き返りなさいます前に、鳥や他の獣などのしわざで、既にとりかえしのつかないこのようなありさま(鳥か何かの獣に眼球を食われてしまったことを言っている)になっておいでで、何とももう申し上げようもございません。

本来ならば、わたくしどものほうから、あなた様の下をおたずねすべきかと思いますが、このような思いもかけない有様となってしまった心苦しさのために、こうなってしまっては何としてもあなた様に 生きていることを知られたくない、とご主人様が深く思われたことももっともかと思われます。ですから、あなたさまからこうして隠れるようなかたちで過ごしていたのです。」と少女は涙を抑えながら語り終えた。この次第を 国輔は聞いて心苦しく思いまた悲しいことはこの上なかった。

「いったい前世のどのような罪科の報いとしてこのようなメに遭うのであろうか。
こうとなっては 今こそもう今世(コンゼ)のこの仮の世はここまで、と思い切るべきだ。」と発心した。そうして、すぐにその場から比叡山にのぼったのである。そうして叡山の横川(ヨカワ)に当時あった甘露寺(カンロジ)の教静僧都(キョウジョウ ソウヅ 園城寺派オンジョウジハまたは寺門派の長吏チョウリ)の房に所属していた慶祚法師(ケイソ ホウシ)の弟子となった。そうして後に真言の秘法を伝授された。唐房(トウボウ)の法橋行因(ホッキョウ ギョウイン行円とも)というのがこの人である。のちに比叡山坂本の日吉大社(ヒエタイシャ)の山王(サンノウ)権現(ゴンゲン)に灌頂(カンジョウ密教入門儀式)を奉(タテマツ)った人がこの行因法師である。

この行因法師が 発心して俗界から初めて比叡山にのぼったとき、自分でも道に不案内で案内人もなかったので、さきざきで人に道の行方をききながら進んで行った。そうして 俗界の西の果てとされる「水飲み」という場所で檀那僧都 覚運(ダンナソウヅ カクウン檀那流始祖 比叡山東塔の檀那院に住したことが由来 伝統的修行 学問を重視 また第三世 慈覚大師 円仁の流れ)にその姿を見かけられた。覚運は、「なにやらいぶかしいことだ。あの登山している人物(行因のこと)の様子をみるに どうやら出家のために比叡山を登ってきた人に違いない。その姿形(スガタカタチ)をみるに 非常な叡智をうかがわせる良い目つきをしている。あの人物はいったい当山のどこへいこうとしているのだろうか。いって探ってこい。」と、人をやって調べさせたのである。

そうして その使いが帰って覚運に次のように報告した。
「これこれの次第にて、先ほどのくだんの人物は 当山の甘露寺(恵心流 寺門派 第五世智証大師円珍の流れ)の僧都のもとに入門しに登山している様子です。」と。

この報告を聞いた覚運は、
「心配し 思った通りだ。あああ。あのような智者を我が慈覚大師(円仁)の流れ(山門派=檀那流 修学修行重視)にできないで、智証大師(円珍)の流れ(寺門派 恵心流)に行かせてしまったとはな(甘露寺は智証円珍の寺門派だった)。まことに残念なことである。」といわれたということだ。

後に めでたく出家修学がかない、寺門派甘露寺にて真言密教の修学を開始なさった初期のころであるが、行因法師の以下のようなハナシが伝わっている。入門したての行因法師に対して 指導の師匠 慶祚 大阿闍梨(ケイソ ダイアジャリ)がその 出家に際しての彼のこころがまえを試してみようとしたのであろう。次のように言われた。

「御身(オンミ)が俗人であったときに、モノマネをよくして 滑稽な動作にてみなをよく楽しませたと聞いておる。千秋万歳(センジュウバンセイ:長寿健康をことほぐ、身分賤しき者のなす余興の万歳踊り 或る意味賤しい陰陽師の余興だからこれをせよとは 屈辱的な要求であった)をうたってみよ。御身(オンミ)の歌舞(カブ)を見たい。」と。

この師の慶祚の要求を聞いた 行因は 平然として、「承りました。」と言って、千秋万歳をなす賤しい陰陽師(オンミョウジ)が被るという 紙の冠(カンムリ かぶりもの)をかぶって、上手に歌い舞ったのである。

これをご覧になった師匠の慶祚 阿闍梨は涙を流して次のようにおっしゃった。
「きっと 怒って拒否するものであろうと思っておったが、行因は まことの求道の心得(グドウノココロエ)のある者である。なんと得難き人材であるか。」とのたもうて行因法師のことをほめたたえたということである。

(20250202 訳す)

<訳者より ひとこと>

ここまでで思うのは 出家って 富裕層 貴族層のオハナシだったのだな、ということです。
いや 致し方ない現象なのかもしれませんが、庶民層からの出身にて高僧になった 比叡山や高野山で修行して大成した人物のオハナシは皆無なのかもしれんですね。真剣に調査したことないですが。

鴨長明だって 加茂氏の出身。比叡山や高野山って下層から上級まで ただし政治の主流となれなかった貴族階級の出身のアウトサイダーのたまりばだったということですね。

あと
人間というものの基本特性ですが、何事においても人が集まるところに 「政治」が始まり、「派閥」が生まれる ということなのですね。宗教界であろうが何であろうが(いや文明構築の基礎根源の部門である宗教・教育会であるからこそか)、洋の東西を問わず派閥の対立、流派の対立が常態ということです。そして、派閥の争いの本質は 結局どちらが上か下か というマウンティングであるということです。 

さらに 人間の集団には 必ず「性的退廃」が生じる ということです。これが古来現在でも「宗教・教育」界は 「性的退廃」は表面にはないことにして 運営が進行していくので「性的退廃」は非常に巧妙に手が込んだ状態で発生するとなります。隠蔽か 特殊文化のコーティングをするか という二つの存在形態で「性的退廃」は進行します。

「性的退廃」は 西洋エウロパでは 隠蔽つまりかくれて行う性「犯罪」が基本であります。日本では 特殊文化として変形させる というありかたが基本となります。ようは隠れて犯罪を行うのが西洋的です。一方、文化として人間界の犯罪とはならないように社会総体を共犯関係に巻き込んで性的退廃を行うのが日本です。

どちらにせよ太陽系基準では犯罪です。しかし、社会に暗黙の裡に容認させる儀式や形式に変形させて社会の構成員を共犯関係に巻き込むという意味で日本における宗教者の性的退廃は淫靡にして巧妙でその犯罪性が明確になりにくいという特性があります。

そして宗教界のごく少数派の例外的存在アウトサイダーにおいて 「性的退廃」を克服できる真正のアウトサイダーが出現するというのも共通の現象です。ただ、これは数値で証明はできませんが 西洋の宗教界は 真正アウトサイダーは超例外的存在であり、日本においては 「性エネルギー昇華」の真正アウトサイダーの存在は 少数者とはいえ、西洋に比較してかなり数の上では多かったのだろうな というのは容易に推測されるのです。

もちろん 
西洋においては アウトサイダーは「異端」の烙印が容易に押されて 弾圧抹殺されてきているということもあります。これでは「性エネルギー昇華」の者が生き残る可能性は限りなく0にて例外的な存在のようです。一方 日本では少数派とはいえ 真言律宗あるいは真言立川流あるいは天台玄旨帰命壇等の形式で 「性エネルギー昇華」の修行者の一団が間歇的に観察されます。無論 こういった集団以外でも 独自に「性エネルギー昇華」の実質を満たす行者に成り得た存在も 一定数存在したのであろうということは推察されます。

また日本では 庶民階級にて おてんとさま主義というか 素朴な太陽神教の気風が1868まで(あるいは1945まで)、まだ残っていたと思われます。この状態の下では、庶民階級において 愛すべき女性は妻のみにて 職務や信仰修行にて 独自の「性エネルギー昇華」の実質を満たした存在も多かったのであろうな、ということも観察されるのです。

これ 日の本が 大八島オオヤシマの女神メカミのシマであり、
庶民階級に 無名の 日女ヒメや日子ヒコつまり 阿カ女【オカメ】や日男【ヒョットコ】が相当数いたであろうことは間違いないと思われます。

これが地球テラというメカミの大地の 心臓というべき日本オオヤシマ女神のしまの
ながきにつづいたしあわせの状態であったと思われます。

であるからこそ ザビエルは「この民族は滅ぼさねばならない」と黒卐反太陽神教コタン将来イエズス会の立場で痛切に感じたと思われます。その諸施策が 500年を経て完成しつつあるのが現状ということです。