発心集 第二8話 真浄坊、暫く天狗になる事
(しんじょうぼう しばらく てんぐになること)
近頃、鳥羽の僧正(とばのそうじょう)といって 非常に貴い方がいらっしゃった。
(鳥羽僧正 覚猷かくゆう 鳥獣戯画ちょうじゅうぎが の作者とされていたが、近年は疑問視されている。保延六年1140年八十八歳没)
その鳥羽僧正の弟子で、長年同じ僧房にすんでいた僧がいた。名を真浄坊(しんじょうぼう伝未詳)といった。道心強く覚醒 往生を願う気持ちが強い僧であった。
この真浄坊(しんじょうぼう)が 師の鳥羽僧正(とばそうじょう)に次のように申し出た。
「月日が経つにつれて、死後のことを恐ろしく感じます。
したがいまして、仏教の教学(きょうがく)の習得をあきらめて、以後はひとえに念仏を唱えることに専心したいと思っておりました。ちょうど、法勝寺(ほうしょうじ)の三昧僧(さんまいそう 念仏三昧僧 念仏を唱えることが主務の僧)に欠員があるようです。
僧正様のお力で、私を その三昧僧(さんまいそう)に推薦してください。」と。
続けて、
「もし推薦いただけましたなら、この身をなきものと思いきる覚悟で、念仏の三昧僧として命を捧げ、後生(ごしょう)の往生を叶えたいと深く思っております。」と、真浄坊は鳥羽僧正に言った。
これを受けて、鳥羽僧正は、
「このように深く決意したのは、まことに有難く、感心なことである。」ということで、すぐに真浄坊の意志の通りに、法勝寺の三昧僧になれるよう取り計らった。
その後、真浄坊は 願いの通りに、しずかに三昧僧の坊に居住し、絶えることなく念仏して日々を送るようになった。
真浄坊の隣の僧坊に 叡泉坊(えいせんぼう。伝未詳)という僧が住んでいた。真浄坊と同じように後生のことを期して過ごしていたが、彼の勤行の仕方は真浄坊とは異なっていた。彼は念仏ではなく、地蔵菩薩を本尊として、勤行や真言を唱えるなど色々と行っていた。そして、種々のこじきや不治の病人を憐れんで 毎日物を施(ほどこ)していた。
一方、真浄坊は 阿弥陀仏を本尊とたのんで、寸暇(すんか)を惜しんで南無阿弥陀仏の念仏を唱え極楽往生を願っていた。彼もまたこじきを憐れんで扱ったので、多くのこじきたちが争うようにして真浄坊の周りに集まった。
以上二人の 往生を願う道心ある者が、垣根一つ隔てて住んでいたのであるが、それぞれに作法(さほう)が違っていたので、各こじきたちも他方の方へは行かず、物乞いしようとしなかった。
のちに、かの鳥羽僧正は病気になった。いよいよ死期が近いという状況となり、真浄坊が見舞いに来た。思っていた以上に鳥羽僧正は衰弱していた。僧正は自らが伏している病(やまい)の床(とこ)へ真浄坊を呼んだ。そして、
「長年 親密な間柄(あいだがら)であったのに、この二三年疎遠になったことだけで 御坊のことを恋しく思っていた。そして、今 私がこの世を去ることによって 永遠に別れようとしている。おそらく、御坊ともお目にかかるのも今日限りであろうと思う。」と、言いながら泣かれるのだった。
これを聞いて、真浄坊もとても悲しくなって、涙を抑えつつ、
「そんな風にお考えなさらないでください。今日たとえお別れしましても、死後は必ずお会いして、僧正様のもとにまた弟子としてお仕えいたしましょう。」と、言った。
鳥羽僧正も、
「このように同じことを考えていたとは、たいそう うれしいことである。」といって、病の床に安心して再び就かれた。そして、真浄坊は泣く泣く帰って行った。
その後、しばらくして 鳥羽僧正はお亡くなりになった。
さらに、しばらくして 真浄坊のとなりの叡泉坊(えいせんぼう)も、病(やまい)を得てある月の地蔵の縁日の二十四日の明け方に、地蔵の名号を唱えながら、たいそうめでたく往生された。それを 縁ある人々は 皆 貴いことであるといいあっていた。
そして真浄坊であるが、彼は叡泉坊に劣らぬ後世の往生を強く願って修行する者だったので、必ず叡泉坊と同様に見事な往生を果たすであろうと皆が思っていた。
ところが、叡泉坊の往生から二年ほど経って、たいそう不思議にも、真浄坊は精神の錯乱(さくらん)を伴う重病で 逝去(せいきょ)した。
真浄坊と縁故のあった人々は、みな不思議に納得できないことであるよ、と思いながら日々が経っていった。
そして、真浄坊の母が息子の死後もその死を嘆いていた。
かの母と親しい人たちが集まっている座で怪異なことが起こった。母に物の怪(もののけ)が取り付いて座の皆に語り始めたのである。母を通してその物の怪(もののけ)が語ったのが以下である。
「私は物の怪(もののけ)といっても、他でもない亡くなった真浄坊がこうして参ったものである。私が今こうして物の怪になっているこの有様を、誰もが不審に思っているようだから、なぜこのようなことになっているのか申し上げようと思う。」と。
続けて、
「私は、皆 存知(ぞんじ)の通り、ひとえにこの世の名利(みょうり)を捨てて、後生(ごしょう)の往生を願って修行してきた。その結果、本来ならば 生死(しょうじ)の迷いの境涯にとどまるような身となるはずがなかったのである。しかしながら、わが師 鳥羽僧正が 臨終に際し、わたしとの別れを惜しまれたとき、私が『死後は必ず、参りて 弟子として仕えます』と申し上げたことが契約のようになってしまったのである。死後 僧正が『ああ言ったではないか』とおっしゃって、何としても そのもとを去れぬようになってしまった。そして、思いもしない天狗道(てんぐどう)にひきいられてしまったのである。」と。
*天狗道—高慢なものが死後天狗になるという、信仰があった。特に僧が仏道を収め、我以上の智者なし、と高慢になって天狗道に落ちる者が多いとされた。
更に続けて、
「生前は、鳥羽僧正をひとえに 仏のように頼んでお仕えしてきたが、思慮(しりょ)ないことを安易に申して、このように我も天狗になるような思いもかけぬことになってしまった。しかし、天狗の道にはきまりがあって、沈淪(ちんりん)の期限は六年であり、来年で六年になる。六年目にあたる月に必ず この天狗道を抜け出て、極楽へ往生(九。6から9へ)したいと念願しております。
どうか、皆さん、必ず支障なく 天狗道に落ちたこの苦しみを、私がまぬかれられるように、祈り、供養してください。」。
そして最後に、
「それにしても、私が生きていたとき、『思い通り、母上が先にお亡くなりになられるならば、私が善知識となって 母上の後世(ごぜ)を弔いたいものである。一方で、思い通りにならず、私が、母よりも先に死んだならば、母を極楽に導き、仏の前にお連れしたい』とこそ念願しておりました。それが、どちらの想定ともならず、意外にもこのような天狗の身となって、母のもとに参上し、母を悩まし苦しめていると思うと無念ではある。」と、言い終わらぬうちからさめざめと泣く。これを聞いていた集まった人たちも、みな涙を流して真浄坊のこの状態を 嘆き、悲しみあった。
その後、しばらくじっくりと 集まった皆と、はなしをしながら、真浄坊が取り付いた母も、それが去る兆候からか、あくびを幾度かして、もとの状態に戻ったのである。そして、皆は 経典などを書写し、心の及ぶまで供養したのであった。
その後、年も変わって冬になって、真浄坊の母は病気になった。あれこれしている間に、また縁故の皆の集まりにて、その母は次のように言った。
「みなさん、過日(かじつ)あのようなことのありました息子の真浄坊がまた、私のところへ参りました。」と。
母の口を借りて真浄坊が言うには、
「—–ここに参った理由は、皆さまがまごころから 自分の後世を供養なさってくださったことのお礼を申し上げよう思ったからです。また、この早朝に 苦界を脱して悟りの道に入る事が出来ましたので、皆様方に 自分の苦界からの得脱のしるしをお見せしようと思ったからです。」といった後、
「天狗の世界の 日頃の 我が身のくさく、汚らわしいにおいを 皆さまかいで御覧なさい」といったあと、真浄坊がみずからの息をためてプ-と噴出した。
すると、家じゅうのすべてが臭くて、耐えられないほどであった。
その後、夜通し集まった皆と語り過ごして、明け方となった。
真浄坊は、「ただ今こそ、この身の天狗道の不浄を改めて、得脱し極楽にまいります。」といって、吸った息を吐きだすと、今度(このたび)は えもいえぬ良い香りが家じゅうに立ち込めたのである。
以上の次第(しだい)を聞いたある人が、
「たとえ、行徳(ぎょうとく)の高いとされる人であっても、必ずその人とめぐりあい縁を結ぶなどという誓いを立ててはならない。仮に 誓いを立てた相手が道を踏み外し、悪道にはいってしまったときに、無残にも このように誓いを立てたおのれも悪道にひきづりこまれるからである。」と、言ったことである。
(20230915訳す)