kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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発心集 第三第6話 或る女房、天王寺に参り、海に入る事 The Outsider Episode 30

発心集 第三第6話 或る女房、天王寺に参り、海に入る事 The Outsider Episode 30

*いや 今回 AIの平安時代女性の生成が全くうまくいかない。

しかし絵としての完成度が高い物が多いので ご笑覧ください。これが今のAIのリアルな現実です。

発心集 第三第6話 或る女房、天王寺に参り、海に入る事

(あるにょうぼう、てんのうじにまいり、うみにはいること)

鳥羽院の治世(1107~1123)の頃、ある皇女に母と娘で一緒に宮仕えしている女房がいた。年数を経て、その娘は 母に先立って儚(はかな)く亡くなってしまった。残された母が嘆き悲しむ様子は尋常ではなかった。

しばらくの間は、女房の同僚たちも、「娘を先に無くすなどと、さぞ気落ちのことでございましょう。嘆くのも無理もない。」などと同情的であった。そうこうしているうちに、一年、二年ほど過ぎた。しかし、かの娘をなくした女房の嘆く様子は、少しもおさまる気配がなかった。職務上、日柄(ひがら)に併(あわ)せてのつとめもあることから、彼女が泣いているのが具合の悪いことも多くなってきた。めでたい日などに涙を不吉なものとするときでも、同じように涙を抑えながらつとめ暮らしていたので、人目について隠しようもなくなってきた。

ついには、同僚たちも

「もうかなりの年月が経ったのに娘の死を未だ嘆き悲しんでいるのは理解できない。子が親より先立つようなことも、今に始まったことではなくよくあることなのに。」などと、皆が非難がましい口ぶりで, 騒ぎ陰で咎めるようになってきた。

こうして、娘が亡くなって三年目にあたる年となった。

ある日の明け方に人には告げず、ちょっとした外出のふりをして、住んでいた屋敷を飛び出た。着物一揃(ひとそろ)えと身の回りの生活のもの一式を入れた手箱を一つ袋に入れて、女の童(めのわらわ下女)に持たせてのことである。

そして、京を過ぎて鳥羽の方(都より約6キロメ-トルの地)へ行き進んだ。同行の女の童(めのわらわ)がいったいどこにいくのだろう、と不審に思っていたが、さらにさらに進んで行って日が暮れてしまった。その日は橋本(鳥羽より更に10キロメ-トル離れている)というところで一晩過ごした。そして、夜が明けて、また出発した。

そうしてやっとのことで、その日の夕方に大阪の四天王寺へ参りついたのであった。そうして、当地のある人の家を借りて、「ここで七日ばかり念仏を唱えて過ごしたいと思います。けれども、京から何も用意せずに参りました。わたしの身ひとつと女の童(めのわらわ)とだけで参りました。」と家の主人に 持ってきた着物を一つとらせたのである。

家の主人も「お安い御用です。」と、いって 滞在中の相応のことは用意したのであった。

そうして、その家から毎日四天王寺のお堂にお参りして、拝みに通ったのであった。他のことは一切気に掛けず、一心に念仏を唱え過ごしていた。持参の手箱と着物二着は 有名な天王寺の仏舎利に奉納した。

そして、七日が満了して京へ帰るのだろうかと、主人は思っていたのだが、その女房は、「ここに来る前に思っていたよりも、とても心も澄んで充実した心持ちになることができました。つきましては更に七日を念仏して過ごしたいと思います。」といって、また着物を一式主人に取らせて、あわせて二七の十四日間を祈願して過ごしたのだった。

さらに、その後「いっそ、三七の二十一日を祈願して過ごしましょう。」といって、主人にまた改めて着物をとらせようとした。これに対して主人は、「いやもう十分であります。このように 七日の祈願ごとに ご用意なくとも、これまでで頂いた分で、しばらくは足りるはずです。」とその女房にいった。女房は「そうはいっても、世話をしてもらう謝礼に持ってきたものを持って帰るわけにはまいりません。」といって、強(し)いて主人に着物をとらせた。そうして、三七の二十一日のあいだ 迷いなく天王寺にまいり念仏して過ごしたのであった

二十一日の日数が満ちたとき、かの女房は「日も満ちて、これから京へ帰らなければなりません。だから、有名ななにわの海を見てみたいと思います。どうか舟にのせてみせてもらえますか。」という。主人は 「簡単なことでございます。」といって、案内して浜へまで女房を連れて行った。そして、すぐに 舟にふたりでのって 沖へ漕ぎだしたのだった。

女房は 噂(うわさ)にたがわぬとてもよい風情(ふぜい)の海である、といって 「もう少し遠くまで。もう少し。」と 舟を漕ぐ主人にいって 自然と遠く沖へ舟はこぎ出ることになった。

そうこうしているうち その女房は西に向かって念仏をしばらく唱えていたかと思うと、海に 自らずぶりと落ち入ってしまった。舟を漕いでいた主人は、「ああ。おおごとだ。」と思って、その女房を舟にひろいあげようと思い慌てたのであるが、まるで大きな石を海へ投げ入れるようにして沈んでしまったので、どうしようもなかった。「ああ、とんでもないことになった。」と、落ち着かず騒いでいるうちに 空にひとむらの雲がわきいでてきて、舟のまわりに香(かぐわ)しいにおいが立ち込めてきた。この有様に主人はただならぬものを感じ貴く感じ入って、泣く泣く浜に漕ぎ帰っていった。

そのとき、浜には大勢の人が集まって何かを見て騒いでいる。これを主人は知らぬふりをして、何事か?といる人たちに問うてみると、「海の沖の方に紫の雲が立ち起こっているのが見えたのです。」などと、皆口々に いいたてている。

さて、主人が家に帰って 女房の残したものをみていると、かの女房の筆跡で彼女が見た夢の様子を書き記したものがあった。そこにはこう記(しる)されてあった。

「初めの七日は 地蔵菩薩、龍樹菩薩がおいでになってお迎えくださっているように夢に見た。

次の七日は 釈迦の両脇侍(りょうきょうじ)の普賢菩薩と文殊菩薩がお迎えに来てくださったように夢に見た。

そして、三七の二十一日は観音菩薩や勢至菩薩の二十五菩薩以下諸々(もろもろ)の菩薩と共に阿弥陀如来がお迎えに来てくださった夢を見た。」

とかくのごとく書き置きされていた。

*注

三種の来迎の思想 当時 庶民レベルにも本文の如く信じられていたとわかる。

第一の来迎主体は 釈迦滅後弥勒菩薩の出現までは 地蔵菩薩と龍樹菩薩が来迎す、と信じられていた。文献「愛宕の山は地蔵・龍樹のまします所なり」(『今昔物語』十三、十五)

「或いは地蔵、龍樹等の菩薩は無仏の世の大導師、仏滅後の大論師なり」(『転法輪抄』神祇上末)

第二の来迎主体は 三尊 釈迦如来と両脇侍 普賢菩薩と文殊菩薩。これが釈迦三尊。

第三の来迎主体は 「唐土の諸師の曰く『二十五菩薩は、阿弥陀仏を念じて往生を願うものを擁護したまふ』」(『往生要集』下)

訳者記

現代の価値観で 安直に本文を読んで結論を出さないことであります。

また、世の中全体が 貧しく、皆いきることに精一杯の時代でもありました。

着るもの一つ手に入れることも大変な時代で、であるからこそ、本文の如く

着物が貨幣の役割をしていることもわかります。

貧しいながらも宮仕えを娘と母とでしていた下級貴族階級の女人の話であります。庶民ではない。しかし、何の後ろ盾もない弱い立場の女房が たった一つの希望でもあったであろう一人娘が自分より早くなくなったあと、一体どのように世の中に処していけばよいのか。また、人生の終末を迎えればよいのか、といった切実な問題を抱えて 生きていく ということの大変さは 現代的視点からは思いもつかないものであるかと思われます。自分が彼女の立場ならどうするだろうか?と考えてみるといいと思います。それでみえてくることもあるでしょう。

このように生きる事だけでもなかなか、思いに任せぬ時代に 浄土教や法華経という外来思想がはやって 普通のヒトたちがどのように 人生の終わりに 処そうとしたのか そういう視点から、この発心集を拝読していくと、学びも大きいのではないかと思われます。

単純に 自殺はダメだとか、自殺は負けだとか いえない問題であった、自ら命を絶つ一定数の人間たちがいる事によって、社会全体の調和も維持されていた そういう点もあると思います。無論 現代においてさえ 自殺のそういった意義は皆無ではないのでしょうが、一般には 「生命が大事」 「死んではいけない」の風潮の現代であります。

いずれにせよ、徒に死を賛美するでもなく、ヒトとしての終末の選択が 自裁 という形で 終わりを迎える。そういったことが許容されていたということは 人生の選択肢の広さということもいえるのではないかと思われます。とにかく自殺はだめだとか、負けだ、とか形式的な生命尊重の絶対性とか 敗北扱いをする。 こういったきれいごとの思想あるいは残酷な生存主義に偏った現代の普通が、実は 異常で残酷なのだという可能性もあると思われます。

(20231223記)