kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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発心集 第三巻11話 親輔養児、往生の事 The Outsider Episode 35

発心集 第三巻11話(ちかすけようじ、おうじょうのこと)

これは いまから中頃ほどの昔のことである。

壱岐の前司の親輔(いきのぜんじのちかすけ)という人がいた。

(壱岐:今の長崎県壱岐郡、前司:前任の国司の意)

この親輔が 養子をもらって、この養子を幼いときから育て養ってきた。

この養児が三歳になったときから数珠をもってこれを遊び道具として、他の事にまったく興味を示そうとしなかった。父母である親輔夫妻は この養児を愛して、紫檀(したん)の香木の数珠(じゅず)を持たせたのであるが、以来 阿弥陀仏の御名(みな)を口癖のように唱えるようになった。この子のこの振舞を母もはじめは、こどもらしくなく縁起がわるいなどと言って注意しやめさせようとした。しかし、この養児はまったく阿弥陀仏の名を唱えることをやめる様子もなかった。

この子が六歳になったときに重い病気に罹ってしまった。病になって数日経ってから、床のなかに臥せったままで、手遊びに使った念珠がそばにあるのを見て言った。

「わたしの念珠の上に塵(ちり)がたまっている。」と。

そう言って、その子は深く嘆いている様子であった。

この話を聞いた人たちは 泣いてこの子のことを可哀そうであると嘆きあった。

そうして、父母に向かってその子は次のように言った。

「からだが汚れて いやなので、湯あみをしたい。」と。

重病者の沐浴は許されないことであると この願いはかなえられなかった。

その後しばらく経ってから、人の介助あって その子は床を起きて、声をあげて、

「聞妙法華経提婆達多品(もんみょうほけきょう だいばだったほん)

 浄心信敬 不生疑惑者、不堕地獄(じょうしん しんぎょう ふしょうぎわくしゃ、ふだじごく)」という箇所から「若在仏前蓮華化生(にゃくざい ぶつぜんれんげけしょう)」というまでの、法華経の提婆達多品の中の句を読誦(どくじゅ—音声を出して読む)した。

(訓読文 「妙法華経の婆達多品を聞き、浄心に信敬して疑惑を生ざれば、地獄に堕ちずして、–」から「若し仏前に在らば、蓮華のなかに化生せん」まで)

その子の経文を声を出して読む声は 殊に美しく思われた。その子は まだ六歳にて幼いので、日ごろこの法華経の文言(もんごん)を教える者はいなかったはずである。であるから、この音声(おんじょう)を聞いた人たちは皆驚き 貴いことであるよ、と感動したのである。

結局、その子は眼も落ちくぼんで、最後は息を引き取ったのだが、父も母も泣き悲しむことといったら限りのないことであった。

そうして、日数が経て後に、その母が昼間にうとうとしているときに、夢か現実かはっきりしないようすで この亡くなった子のことを見た。その時のその子のありさまは ことに容姿が素晴らしく美しく見えて、清らかな感じであったという。

その子は、その母に向かって、

「わたしの姿をよく見る事が出来ますか。」といった。これに対し、

母は、「よく見えますとも。」と応えた。

これに対しこの子は

「即往南方、無垢世界、坐宝蓮華、成等正覚」

(そくおうなんぽう、むくせかい、ざほうれんげ、じょうとうしょうがく)と声を出してまた法華経の提婆達多品の八歳の龍女が男の身を得て成仏した箇所を読んだ。

(訓読文—すなわち南方の無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して、等しく正覚を成じ—)

そうして、その法華経の文言を読み終わって後に、たちまち母の前から消えてしまったという。

以上のことは嘉承二年(1107年)のころのことである。

(20240310訳す)

*訳者から

中古や中世の日本の信仰世界を垣間見ていて、

現在に比べて なんと素朴な 六道のひとびとであり、であるからこの六道を乗り越えて発心し九になろうつまり出家して覚醒往生しようと志したものが多かったことかということに正直驚きを感じます。確実に人間のレベルが高い。知のレベルが高い。

こういったときにこそ六道輪廻ということばは成立するとも感じております。

現代社会は 六道輪廻以前の(というか以下の)かつて、だれも予想しえなかったくらい、ヒトとよばれる存在の全体的レベルが低下している時代であります。輪廻という悠久の生命循環にさえ乗れない、自らの意思で 自らの望み通り 唯物 つまりたった一度きりの人生思い通り生きよう、という ただの欲望の野放図な肯定と汚辱にまみれて生きることを自由と開き直る そういった時代が現代の地点であります。具体的には金儲けと性的放縦が人生の謳歌のようなバカげた 幼児のままで一生を皆が終わろうとするような時代であります。それこそ自由意志という名のエゴが最大限に拡大され、甘やかされ、野放しにされた そういった時代となってしまいました。 

このような時代にあって、同時代人の動向に関心は生きている以上払い続けていかなければならないのは生きていくために無論必要なことであります。ただ、友とすべきは同時代の者だけである必要は 深き人生を生きていくためには特にないということです。優れた人間との対話が つながりが その人間の資質を磨き向上させます。その意味で 古典に触れることは 過去の少なくとも現代人よりすぐれた人間たちと対話し、考え方を交換する貴重な機会であるとわたしは考えております。

宗教的教義書ではなく、過去の 宗教的な苦闘を経てきた僧や一般人たちの物語に触れ続ける意義は わたしにとって 貴重な時間の過ごし方のひとつになっております。

具体的には 「性エネルギー昇華秘法」という現代の真の禅の実践者としての 思索の深化にもわたしには欠かせない読書の分野のひとつです。

今回のお話では 阿弥陀仏の信仰は 我が国の女神信仰の基礎であり、法華経の信仰は 常時の仏つまり太陽神からの教えを受け続ける方途であった、という中世の求道者の素朴な ありかたがうかがえる内容となっております。