kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第三巻第12話 松室童子、成仏の事 The Outsider Episode 36

発心集 第三巻第12話 (まつむろのどうじ、じょうぶつのこと)

奈良の 松室というところにある僧がいた(「仲算(ちゅうさん)」に仮託されること多い。当時有名な高僧976年没四十二歳)。官職には わけあって就かなかったのであるが、徳のある僧として種々勤めを果たされた人であった。

この僧のもとに、幼い稚児で その僧が特にかわいがっている(稚児性愛の暗示あると新潮古典集成の注にあった。そうであろう。)者がいた。この稚児は、朝夕 法華経を読み仏にたてまつっていたが、師であるその僧はこれを認めなかった。

「幼いときは学問をしっかりとなせ。読経は 幼い身で 不適当である。」などと その稚児は 師である件の僧に諫められた。これにつき、いったんは師のことばに従うようにみえたが、しばらくすると その稚児はこっそりと また法華経を読経しているのであった。

しかし、その真剣な様子に その稚児が どれほどか志が深いことであろうかと皆感じるほどであったので、その後は誰も法華経の読誦をやめなさいといわなくなった。

そのようにしていて、十四、五歳になったころに、その稚児はいずこともなく行方知れずになってしまった。師である件の僧は大いに驚き嘆いて あちこちを探し求めたが、その稚児の行方はわからないのだった。

その後 数か月を経て、同じ房のある法師が、薪をとってこようとして山の奥深くに入っていったときに、彼は木の上のほうに法華経を読む声を聴いたのである。この法師は不思議に思って木の上を眺めてみると、失踪した稚児がいた。不審に思ってこの児(こ)に声をかけた。

「どうしてそんな場所にいらっしゃるのか(年少者に対して敬語の使いぶりから稚児は身分の高い出身の者と考えられる)。師があれほどお嘆きであるのに。」と。

これに対し、稚児は

「いやわかっております。師のお嘆きについてなども申し上げるつもりで、お会いしたいと思っておりました。しかし、便りができない事情がありまして、とてもおそばに近づけなかったのです。そんななかここであなたに会えたのは嬉しく思います。我が師に ここへ必ずいらしてくださいと、伝えてください。」という。その法師は急いで帰って、この件について稚児の師僧に語った。

くだんの師僧は 事情を聞いて驚いてかの場所に行った。すると稚児が出てきて師僧に次のように語ったのである。

「わたしは法華経読誦の功力(くりき)によって、法華経読誦の仙人になったのでございます。あなた様のもとを離れまして日々恋しく思っておりましたが、このように仙人の身となって後は、あなた様の消息を聞くための便りもなす術(すべ)がありませんでした。

そもそも、人間の住む世界は汚(けが)らわしく、臭(くさ)くて こういったことを我慢する方法もございません。あなた様にお会いしたいと思い続けながら、これらのことを乗り越えて参ることができませんでした。だから、今後も近づいてお目にかかることはできません。」と言って、師僧とともに涙を落して しばらくの間語り合っていたのである。

そして、師僧が帰ろうとするとき、稚児は次のように言った。

「三月十八日に 琵琶湖の竹生島明神(ちくぶしまみょうじん弁財天と千手観音が本尊。女神信仰である。)にて、仙人たちが集(つど)って楽(がく)を楽しむ会をもよおすのです。しかし、わたしは琵琶を見つけることができないでおります。どうか琵琶をお貸しできませんか。」と。

これに対し師僧は、

「たやすいことであります。琵琶はどこにお持ちしたらよいのか。」と稚児に言った。

対して稚児は

「この場所にてお受け取りいたしましょう。」とこたえて、師僧とともにその場を離れていった。その後すぐに 師僧は琵琶をくだんの場所に送り届けたが、その時はだれもその場にいなかった。であるから、琵琶を持ってきた者は、その場所の木の根元に置いて帰ったのである。

さて、こうしてこの法師は三月十七日に琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)にお参りした。そのときに、十八日の朝方の寝覚めに、遠くからことばにできぬほどの美しい音楽が聞こえてきた。その音色は、あたかも雲に響いて風に乗ってきこえてくるようであった。その音曲は 世の常のものとも思えぬ美しさよ、と感じたのであった。あまりにその音に感じ入ったので、涙が流れてくるのにまかせて聞き入っていた。そうして、次第次第に音が近くになってきて、音楽が止まったのだった。そうして暫くしてから 縁側にものを置く気配がしたので夜が明けてから 縁側を見てみた。すると、件(くだん)の琵琶が置いてあったのである。

かの師僧はこのことを不思議の事であると思ったが、

「この琵琶を 我が所有にするのは恐れ多いことである。」と思った。

そこで、その琵琶を 弁財天を本地とする権現(ごんげん)すなわち竹生島明神(ちくぶじまみょうじん)に奉納したのである。

その琵琶は初めは、えもいえぬよい香りが深くしみこんだようにしていたのであるが、さすがに年数が経ってその香りはしなくなってしまった。しかし、この琵琶は今でも竹生島にある(平経正が立ち寄り演奏したという。後に火災で焼失したという)。これらの話はただのうわさばなしではないのである。

(20240402訳す)

*訳者より

大乗仏教そのものが ユダヤキリスト教の影響下で成立した紀元後の大衆救済運動であります。前後の動きとしては 中東でキリスト教の伝説からキリスト教がローマ帝国内で成立し、この動きと連動して東洋では大乗仏教運動が発生しております。

この人類の文化史の動きの意味は 人類ヒト種の原初、元型である太陽神教のもとにある状態だけが ヒト種の適正常態である、という理解があって初めて解読されるのです。

太陽系秩序において 単に太陽系の一惑星にしか過ぎない地球「だけ」の利益を優先するかのような主張は 目先の利益にとらわれた優先順位を根本的に混同した病者の思考、ありていに言えばキ印の思考であります。同様に 地球という惑星内の全体秩序にあっても、人類「だけ」の利益を地球本体や他の生物種よりも優先するような思考は、目先利益にとらわれた 基地外の思考であります。結局このような全体観に立てない 部分の存在の利益のみ主張することは短期的にはその部分においても一時的には利益のようでありましょうが、長期的には 部分を内包する全体世界をも崩壊に導く 顛倒の思想 病者の思考 ようは狂人の思考であります。

要は 反太陽神教とも反女神とも わたし「性エネルギー昇華秘法」という【真禅】の実践者が言う 人類の文化形態は 部分により全体秩序を崩壊させる 本末転倒の大邪見なのであります。しかし、この大邪見 大顛倒思想が 正義、常識、空気のようになって地球上の小文明や個人の人生をこれまで幾たびともなく破綻破滅させてきたことの例証を挙げることにさほどの苦労は要しません。けれども、このわかった者からみたときの病者 狂人の態度や生活や行動というものは 当の狂人にいくら主張しても 糠に釘 狂人はおのれが狂気にあることがわからぬゆえに狂人 という動かしようのない事実もあります。が、だからこそ狂人の矯正というものは 正常人から見たときこれほどやっかいな仕事もないのであります。

6世紀に我が国に舶来思想として この反太陽神的な 仏教が大乗仏教の形で輸入されてきました。この反原初、反太陽神的要素を どう弱め昇華するかが日本文化の形成に携わった先人たちの命がけの死闘であったのであります。思想というものの厄介さは 人間個人の厄介さと同様であります。あきらかな悪思想、邪悪なコク魔術などというものは実は大して罪は重くない。あきらかな悪人はわかりやすくて、こちらも彼との対処を適切に構ずることにさほど苦労はないのと同じです。厄介なのは、表面は善人しかし本質の奥の奥では悪心を隠し持っているこういった輩を相手にするときにこそ、本当の戦闘が必要となるということであります。同様に思想というものは、表面は理想や美語に覆われていてその内実の毒性や破壊性を覆い隠しているときにそれを抉り出して、その毒性を無力化するということが実は最大の難事なのであります。 

よくも悪くも 上代に輸入された 大乗仏教の二大論点 浄土教と妙法蓮華経という外皮は太陽神教仏教しかしその実は 反太陽神という要素をいかに昇華し、乗り越えていくのか 

その方途の施策のための重要な資料として、古典の研究はまた「性エネルギー昇華秘法」実践のために 非常に重要であるとわたしは考えております。

さて、

今回この資料の興味深いのは 表面の文面から微妙に稚児と師僧の恋愛関係が読み取れて、それが非常に意義深いと感じられました。単なる法華経賛嘆の伝説の紹介にとどまっていないのですね。著者鴨長明はそこまで考えていないでしょうが。貴重な伝説の報告文であるが、だからこそなまなましい 日本文化の今日にもつながる問題点が見えてくるのです。

件の法華経仙人となった稚児がもと恋人の僧への訴えは生臭いですね。

「人間の住む世界は汚(けが)らわしく、臭(くさ)くて こういったことを我慢する方法もございません。」とは 要はあなたのことを恋しく思う気持ちもあるが、あの汚らわしく 便の匂い、便の処理の伴う肛門性交は耐えられない いやだ との訴えと読むと また非常に興味深いですね。しかもこれ児童の大人への訴えですね。まあ、こういったことが完全に文化風俗として容認されていた仏教社会 日本社会 というのを考えると、私は基本的には1868年以前の古き日本に太陽神教の原初は残っていたと考える者ですが 無論百パーセント理想的であったなどと、さらさらいうつもりはないです。所詮人間のすることしてきたことですからね。

中古中世近世はこういった形での性的退廃が公然と 日本文化の中に存在していたのです。まあ、人間の性エネルギーの強大さというものも改めて感じざるを得ないですね。それほどまでにしても昇華が困難にして、昇華できない場合、稚児を 肛門性交をしてまで生身の人間を性の対象にせざるを得ないほどのエナジーということであります。1868以前は性的退廃も手が込んでいる。相当に手続きも複雑です。稚児灌頂の資料とか読むとそれ感じますね、異性愛の花魁とかを性愛対象にするのも相当に儀式的手続き複雑ですもんね。同性愛特に僧侶社会の性的退廃は儀式性が相当に濃い。けど、所詮性的退廃であります。やはり 【9】を目指すものは いつの時代にあっても【昇華】が目標となります。

こういった、不完全な人間存在の汚点や美点その向こうに存在する「何か」というものを、現在 現実に【6】を乗り越えて【9】になることの【真禅】の実践の糧にしたいとただそれを常に考えているわけであります。

まだ、本編なども読書中にて今後自分の脳髄の中で【真禅】実践しながら消化し、昇華および有効な思索の材料としたいと思っております。いや正直言って いろいろな意味で「面白い」 お話でありました。