kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第一第5話  多武峰僧賀上人、遁世往生の事

第一第5話  多武峰僧賀上人、遁世往生の事

第一第5話  多武峰僧賀上人、遁世往生の事 (とうのみね そうがしょうにん とんせいおうじょうのこと)

*僧賀上人—長保五年(1003年)没。八十七歳。奇行と高徳で知られる。増賀上人とも。

僧賀上人(そうがしょうにん 増賀上人)は、経平という宰相の子であり、慈恵僧正(じえそうじょう)の弟子だった。

彼は幼少の頃から優れた徳と才能を持ち、人々から「将来、立派な人物になるだろう」と称賛されていた。しかし、彼は心の内では世俗を厭い、名誉や利益に惑わされず、ただ極楽に生まれることをのみ人知れず願っていた。彼は納得ゆくだけの道心が起こらないことを嘆き、(延暦寺本堂の)根本中堂に千夜参りをし、毎晩千返の礼を行い、御仏(みほとけ)に道心を祈り願った。

最初は礼をするたびに声を出すことはなかったが、六百から七百夜経った頃には、忍びやかに「付き給え、付き給え」と声を発して言っていた。

聞いた人々は「この僧は何を祈って『天狗憑き給え』と言っているのか」と不思議がり、笑いもした。

終わりの方のころに「道心(グノ-シス 菩提心 般若)付き給え」としっかりと聞かれたときには、「ああ、なんと感心なることか」と人々は言い合った。

こうして、千夜が経ち、前世からの因縁だったのか、彼の心はますます世俗を厭(いと)う気持ちが、非常に深くなった。

彼は「なんとかして、自分の身を虚(むな)しくしたいものである」と考えるほどになった。

ある時、内論義(ないろんぎ)という催しが朝廷で行われた(内論議—正月十四日の法会。このとき「下し(おろし)」といって貴人の飲食物の残飯を、庭に集めた乞食に食わせる習慣があった)。決められた通り法会(ほうえ)の終わりになって、貴人の饗宴の残り物を捨て、乞食たちがあちこちに集まり、争いながら食べる習慣があったのだが、この宰相の禅師つまり僧賀上人は大勢の僧都たちの中から慌てて飛び出し、それを取って食った。

見ていた人々は「この禅師は狂っているのか」と大声で騒ぎ立てた。それを聞いて、彼は、「私は狂っていない。あんたたちここの大勢の人々こそが狂っているんだ。」と言った。少しもうろたえることなく彼僧賀上人は落ち着いていた。

その場の貴人大衆は「なんと、あきれたことよ」と口々にいいあったものである。その後、彼 僧賀上人は大和国(やまとのくに)の多武峰(とうのみね)という場所に住み、思いのままに修行に勤め励み、年を送った。

その後、貴い高僧がいるとの評判が立って、当時の皇后の出家のための戒師に僧賀上人が召された。そして、気が進まなかったが参上してしまい、南殿(皇居紫宸殿こうきょししんでん)の欄干のそばに寄って、さまざまな見苦しい振舞(ふるまい)*をして、役割を果たさず退出してしまった。

*この皇后の授戒師としてのお召しに対し、増賀上人は   第一に自分の性器チンボコが巨大だから呼んだのか、と大声で叫び、第二に下痢便をその場で脱糞(だっぷん)した とされる。しかしますます高僧の評判が立ったとある。出典今昔物語12の七。また宇治拾遺物語。

また、仏に供物(くもつ そなえもの)を捧げる法会を主催する貴族の邸宅に向かう途中で、自分が法会でどのように説法しようかなどと、道を歩きながら僧賀上人は考えていた。

しかし、こんなことを考えることについて、「他人の評価や世間での名利や評判を欲っしてるからこんなことを考えちまうんだ。悪魔の奴め、ついに私の修行を妨げる糸口を見つけやがったな」と上人は思い至った。

その結果、法会のある貴族の邸宅に到着するのが遅くなった。そこで些細なことを騒ぎ立ててて法会の主催者の主人と口論し、仏事供養をしないで帰ってしまった。こういった出来事の結果、人にうとまれて再び 仏事や法会への参加を誘われることがなくなったのは当然の事である。

また、師である良源が大僧正に任ぜられて、朝廷から与えられた栄誉のお礼言上(ごんじょう)に参内(さんだい)しようとしたときのことである。

僧賀上人は先駆の一団の数に加わった。このとき、はらわたをぬいて干した鮭(さけ)を太刀(たち)に腰に差した出で立ちで彼は列に加わった。そして、骨ばった痩せたみすぼらしい雌牛の上に乗った。

そして、「良源僧正の豪勢な屋形(やかた)つきの牛車(ぎっしゃ)の先払いをいたしましょう!」と楽しそうにときどき雌牛(めうし)の向きを変えて乗り回した。

見物人たちは不思議がり、驚かないものはいなかった。

挙句に、

「名声は ーー苦しーいもーのであーーり、気ー楽な-のーは乞食の境涯だーけーだー」と歌って僧正の車から離れていった。

良源僧正も凡庸の人ではなかった。僧賀上人の「私が屋形牛車の先払いをしましょう!」と叫ぶ彼の声が、「悲しきかな。私の師は悪道に入ろうとしている」と言っているように聞こえた。

だから、車の中で「私が名誉を受けることも衆生を救うためなのだ」と良源僧正(りょうげんそうじょう)は答えられた。

この聖人は、最後に命を終えようとする際、まず碁盤を持ってきて、一人で碁を打ち、次に障泥(あうり—馬具 馬の腹につける泥除けの皮。蝶の形をしていた)を持ってこさせてそれを首にかけて、小蝶という童子が本来踊るとされる踊りの真似をした。

弟子たちは疑問に思って増賀上人に尋ねると、「幼少のころ、この二つのことをやっちゃいかん、とたしなめられてなー。やってみたかったんやけどやらずに今までおってのーー。

それが心のこりやったから

『もし、臨終に際しての執着になってはいかん』と思うてなー」とこたえられた。

その後、死の間際  願いに願った極楽の諸仏菩薩の来迎(らいごう)を見て、彼は歓喜し歌を詠んだ。

「みずはさす八十(やそじ)あまりの老いの波   くらげの骨にあひにけるかな」

(八十余という高齢に及び、まれにみるこの幸運に会えたうれしさよ)

と詠んで、亡くなった。

この人の振る舞いは、現在には狂った人であるという人もいるに違いない。しかし、彼の思いは六道の境涯(きょうがい)を離れることに集中していただけである。それにつけても稀有(けう)な人生であったと言える。

世間の人と交わり現世のこのマトリックスな世界で生きていくには、各人の社会的地位に応じ、自分は他人のものとなり、心は恩愛のために使われる。

普通は、その現世の状況に適応するためだけでも十分な困難があるものである。のみならず、この仮想のマトリックスを乗り越える境地に至ることこそが至上の課題であるが、その至上の境地に至るために現世 仮想現実への適応が障害ともなる。

この世を超克すべき六道世界 マトリックスと認識する以外、どのようにして乱れやすい心を鎮めることができるだろうか。

(20230702訳)