kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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発心集 第三巻第2話 伊予僧都の大童子、頭の光顕はるる事 The Outsider Episode26 

発心集 三巻第2話 伊予僧都の大童子、頭の光顕はるる事

  (いよそうずの だいどうじ かしらのひかり あらわるること)

奈良の都に 伊予僧都(いよそうず)という人がいた。白河院(1129崩御。年齢77歳)の晩年の頃に、生まれ合わせた人であった。現在から近い過去の人であった。その伊予僧都のもとに長年仕えていた高齢の大童子(おおわらわ  寺院に仕え雑用を仕事とする者で年かさの者。寺男。大童子、中童子、小童子の分類)がいた。この大童子(おおわらわ)は 朝夕にわずかの時間も惜しんで念仏を唱えていた。

あるとき、この伊予僧都が夜更けに外出したとき、この大童(おおわらわ)が火をともして牛車(ぎっしゃ)の先にいて先導していた。この大童をよくみてみると、持っている松明(たいまつ)の火の光に赤く染まっている中に、彼の頭から仏の白毫(びゃくごう)の光のように 光が発せられていた。僧都は、なんとまあ、めずらしいことよ!と、感じたので、他に人を呼んで、大童の光を牛車の後部から照らさせた。そして、また牛車を前進させて、見てみると、やはり先ほどと同じように明るく照らしている。その様はなんとも不思議な光景であった。

その後、あるときに伊予僧都は、その高齢の大童(おおわらわ)を呼び出して次のように言った。

「お前も どうやらかなりの高齢になったということだな。いまのように念仏を暇を見つけては唱えていることは、とても貴いことである。だから、高齢の今 寺での勤めは 念仏を唱えて余生を過ごすことの障害となろう。」と。

続けて、

「今後は 余念なく 一心に念仏だけを唱えて後生を期せばよいと思う。そうすると、少しは食っていかねばならんから、自分の食い扶持(くいぶち)を得るために、必要なだけは寺から田を分けて取らせよう。」と、伊予僧都は かの大童(おおわらわ)に告げた。

これを聞いて、その大童子は、

「わたしの、どこがお気に召さなくなったのでしょうか。

今まで通り、お寺に勤めたとしても、念仏の妨げになることなどございません。この身がいうことをきくうちは、寺での仕事をしていこうと思ってまいりましたのに—-。まったく、そのようなお申し出は意外で残念なことでございます。」といった。

この大童子の言に対して、伊予僧都は、

「お前のことが気に食わなくなったなどと、そういったわけではないのだ。」と、道理を説いて、今回の申し出の本意を 大童子によくよく言い聞かせたのだった。

そうしたならば、大童子も最後には「そういうわけならば、仰せの通りにいたします。」と、納得したのであった。そして、僧都から分け与えられた田を、大童子は 自分の二人の子たちに分けて取らせた。そうして、自らの後生の食い扶持だけはこの二人の子たちに世話をさせたのである。

そうして、大童子であった本人は、興福寺のそばにある猿沢の池のほとりに、一間ばかりの広さの庵(いおり)をつくって、前にもまして一心不乱に念仏を唱えて過ごしていた。その後、本願の通り、臨終正念として少しも心乱れず、西に向かって掌(たなごころ)をあわせて往生を果たしたということである。

わたし鴨長明が思うに、覚醒往生は その人の仏法の知の有無などには関係がないということである。また、覚醒往生は 山林に身を隠して俗界から離れたところに隠遁(いんとん)することも関係がないと考える。たとえ、いやしい身の上の者であったとしても、往生への功(こう 原因)を積んだ者はかくのごとく臨終正念の覚醒往生を果たすことができるのである。

(20231030訳す)