発心集 三巻第4話 讃州源大夫、俄に発心・往生の事
(さんしゅう げんたいふ、にわかにほっしんおうじょうのこと)
讃州(さんしゅう)讃岐(さぬき—現香川県)の国に、多度津(たどつ)とかいずれの郡(こおり)かに住んでいる源大夫(げんたいふ 大夫は本来五位の通称。しかしここは卑賤のあらくれもののあだな)という者がいた。彼のような卑賤の身分の者のならいとして、仏法の名さえ知らず、生き物を殺し、人を滅ぼし略奪すること以外の行為を知らない悪逆の者であった。彼 源大夫の身近な者も、遠くに縁していたものも、皆一様(みないちよう)に源大夫のことを怖(お)じ恐れることは限りなかった。
あるとき、源大夫が狩りをして帰っている途中で、新たにその家の仏像に開眼供養をしようとして人の集まっている家を通りかかった。源大夫は この開眼供養の家の聴聞(ちょうもん)の人々が集まっている様子を見て、「この家で何をやっているのか。大勢人々が集まっているようだが。」と彼の近くにいる者に尋ねた。
問われた源大夫の郎党(ろうとう部下、手下)の一人が、「その家で新たに仏像の開眼供養(かいげんくよう)をしているのでございます。」と答えた。
これを聞いた源大夫は、「ほう。仏像の開眼供養とな。それは面白そうだ。俺は過去にそんなものを見たことがない。」と言って、馬からおりた。そして、狩りのための装束(しょうぞく衣装)のままで、その人の集まっている家の中に人込みを分けて入って行った。
さして大きくもないその家に、庭も狭(せま)しと集まっていた人々は、明らかに場違いな凶悪な風体(ふうてい)の者が闖入(ちんにゅう)してきたのを見て、「ああ!これはとんでもないことになった。」と、おびえて 小さくなって肝をつぶしていた。
参集していた幾人もの人々の肩を越えて、源大夫は 座の中心に居た開眼供養の導師(どうし)の僧の傍(そば)まで寄って行った。そして、その僧に ここでお前は何をやっているのだ、という風にこの場でのことの心を問うた。
その僧は 源大夫のことをおそろしい人間が入ってきた、と思いながらそれまでの説法を中断した。そして、こわごわ 源大夫に向けて、たとえ十悪五逆の悪人であっても仏の御名(みな)をとなえれば、来迎(らいごう)し引導(いんどう)するという阿弥陀仏の四十八(しじゅうはち)の誓願のありがたさや、阿弥陀仏の極楽のたのしさを語って聞かせた。また、この世 娑婆世界(しゃばせかい)の苦しみ、盛者(じょうしゃ)の無常のありさまなどを、こまかに説き聞かせた。
以上を じっと聞いていた源大夫は、僧の話が終わると、口を開いた。
「おぬしの話を聞いて それはそれは有難いことであると深く感動した。
ならば、おれは出家し、法師になってそのほとけがいらっしゃるとかいう方角へ参ろうと思う。だけど、おれは この道を初めて聞いたばかりでよくわからない。俺は今から 心を込めて一生懸命にほとけの御名(みな)を呼び奉ろうと思うが、こたえてくださるだろうか。」と。
導師の僧は、「あなたが誠に深くほとけを求めようとの道心を起こしなさるならば、みほとけは必ず お迎えに参られるでしょう。」とこたえた。
これを聞いた源大夫は、
「ならば、俺を いますぐ法師にしろ。」という。
僧はことのなりゆきでいったことから、予想もしないことになってしまったと、言葉に詰まってしまった。
そのときに、源大夫の郎党(ろうとう手下)が寄ってきて、「今日の今日ではあまりに性急でございます。今日はお帰りになって、しっかりと準備なさって出家(しゅっけ)なされば、よろしいのではないでしょうか。」と源大夫にいった。
これを聞いて源大夫は激しく怒って言った。
「おまえらごときの考えで、俺が決心したことを どうして邪魔だてしようとするのか!」と。眼(まなこ)をつりあげて、もっていた太刀(たち)にまで手をかけ始めたので、子分郎党の者どもは恐れおののいてその場を去ってしまった。
この有様を見ていて、およそ一堂に会したる者たち—本日の 開眼供養の願主から始めて居合わせた人々すべてが蒼白となって場が凍り付いてしまった。このような状況のなかで、
源大夫は、いっそう導師たる僧に詰め寄って言った。
「今すぐに俺のかしらを剃れ。剃らないとおぬしただではおかんぞ!」と、激しく急き立てるので、致し方なく導師の僧は震えながら源大夫を剃髪(ていはつ)し、法師とした。
源大夫は、さらに衣(ころも)と袈裟をよこせと請(こ)うて、すぐさま着用した。そして、只今より西方に向かって、声の続く限り「なむあみだぶつ」と唱えて進んでいくとのことになった。事の次第を全て見た人々も最後はこの尋常でない決意と行動を得心(とくしん)して、涙を流してあわれみ、彼を見送ることとなった。
そのような事情があって、源大夫は 何日間も遥か西方を目指して歩き続けた。そして、もとから遠く西方に来たところに山寺に行きついた。そこの僧が彼の様子を訝(いぶか)ってどういうことかと問うた。
源大夫はこれに対し、しかしかこうである、と事の次第を説明したら、その僧はこの発心と行動を貴み あわれむこと 尋常でなかった。
「では、腹もへっているであろう」と言って、ありあわせの食べ物を包んで渡そうとした。これに対し、源大夫は言った。
「もはや少しも物を食おうという気持ちもない。ただ、ほとけがお答えになるのをお待ちしているので、山だろうと林だろうと海だろうと川であっても おのれの命の続く限りは西に行こうという気持ちだけ深くある。そのほかはなんにも考えていない。」と。
そして、さらにさらになお西を目指してほとけの御名をとなえながら突き進んでいくのだった。
先の山寺に一人の僧がいて、気になって源大夫の跡をつけて彼の様子をずっと観察していた。すると、彼 源大夫は西の海のそばの山の峯の岩の上に居た。源大夫はその僧に向かって言った。
「ここで 阿弥陀仏がお答えになるそうなので、 こうしてお待ちしているのだ。」と言って、阿弥陀仏の御名(みな)を呼び叫んでいた。そうこうしていると、本当に海の西の方から かすかに仏の み声(みこえ)が聞こえた。
源大夫は、
「あなたもお聞きになったでしょう。今日は はやくもといたところへお帰りなさい。そして、七日ほど過ぎてまたおいでください。そして、わたしがどのような姿 ようすになっているかをお見届け下さい。」と言う。そこで仕方なくその僧は泣く泣く帰って行った。
それから、その僧は 源大夫が言ったように七日の日数が経ってから大勢の人々を連れてかの場所に様子をみに行った。すると、その岩場のようすは七日前と少しも変わる様子がなかった。源大夫は、その場所で 掌(たなごころ)をあわせて、西に向かい 眠っているような様子で座っていた。舌の先から青い蓮華の花がひとくき生え出でていた。
集まった人々は、その姿をほとけのように拝んで、この蓮華の花もとって持ち帰った。そして、国の守(かみ国守 現在の県知事相当)に献上した。当の国守はこの蓮華の花を持って上京して、宇治殿つまり藤原頼通(990-1074道長の息子)公に捧(ささ)げたということである。
往生の因となる善行を積まなくても、一筋に 往生覚醒を願う心が深ければ、往生覚醒がかなうということが、この話から分かるのである。
(20231118訳 )