発心集 鴨長明 筆
序
仏の教えには次のような教えがある。「心を師とするなかれ。心の師になることはあっても、心を師としてはならない」と。
これは真実だと思う。
一生の間に、心に思うことがすべて、悪い業でないということはない。形や服装にこだわらず、世間の埃に汚されない人でさえも、外部の誘惑に抗うことは難しい。
人の心は野生の鹿のようにままならないものである。うまく制御できていると思っても、たまたま飼い犬がおとなしくしているようなものだ。まして因果のことわりを理解できずに名利に囚われる者は言うまでもないだろう。彼が自らの心を制御できるわけはなく、よくて自分の心の奴隷である。
結局 自らの心についての指標のない人や彼の人生は
空虚な五欲(財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)の縛りに引かれて、奈落の底に堕ちてしまうのだ。あるがままとは聞こえはよいが、重力の法則にしたがって落下に任せるのみである。
心がある人々は、このことを恐れずにはいられないだろう。
もし私たちが、自分の心の浅さや愚かさに目を向け、仏の教えに従って誘惑に心を許さず、今回の生死を超えて浄土に生まれ変わることを望むならば、荒れ馬を御するような心を持ち、遠い境地に至るような努力が必要だ。
そして、菩提心には強さと弱さがあり、浅さと深さがある。また、自分の心を考えると、善を捨てることでもなく、悪を避けることでもないのだ。草が風の前で揺れやすいように、月の姿が波の上に静まり難いように。どうすれば、こんな愚かな心を教え導くことができるだろうか。
仏は、衆生のさまざまな心を見つめ、因縁や譬喩を用いて教えてくださった。私たちが仏にお会いしなければ、どのような法について生を全うしたらよいのだろうか。仏法のたとえ話や知恵を得ない限り、ただ私たち自身の分に応じて道理を悟るだけで、愚かな心を教え導く方法は不足している。仏法以外の他の説は表面は立派に見えるが、得るところはあまりない。
それゆえに、自分の浅はかな心を反省して、ことさらに深い法を求めずに、一時的に見聞きしたことを集めつつ、ひそかに私が座右の銘としようとした話をいくつか挙げていくつもりだ。そうすることによって、賢い人を見たら、彼らには到底及び難いとしても、仏の道を請い願う縁としたいと思う。また、愚かな人を見たら、自ら改めるきっかけとしたいと思うのだ。
今、これを述べている私は、天竺(インド)や震旦(中国)からの伝承を聞くには遠い存在だから、それを書かないでおく。そして、仏や菩薩そのもののお話は書くのが僭越なので除外した。結果として、私たちの国、日本の人々にとって身近な話題を中心に伝えられた言葉をのみ記した。
だから、きっと誤りは多くて、真実は少ないだろう。もし再び調べることができない場合は、場所や人の名前を記さずに済ませる。なぜなら、雲をとらえ、風をとどめておくことはできないからだ。こんなものを誰が大事と思うだろうか。誰も思わないだろう。しかしながら、他人に特に信じてほしいというわけでもないので、明確に裏付けを取ろうとも思わない。道端でふと耳にしたたわいもない話の中に、私の一念の発心を楽しむだけである、というだけのことだ。
(20230623訳す)
*赤字の筆者の心境はまさに これを訳出した自分の心にもかなう気持ちです。
鴨長明 かものながあき ちょうめいさん のこの粋な文章と心映え 見習いたく、また
あやかりたいものです。