kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月8日 1941レニングラード包囲戦開始、ほか写真wikipediaレニングラード市民

9月8日

20250908月曜日旧暦7月17日大安(庚辰かのえたつコウシン)月齢 15.8

乙巳きのとみ年己酉つちのととり月庚辰かのえたつ日 年末まであと114日

吉方位 隠遁日 庚辰かのえたつ日 南東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%888%E6%97%A5

9月8日の出来事

1011年 – ヨムスヴァイキングの司令官のっぽのトルケル率いるデーン人ヴァイキングがカンタベリーに向けて進軍を開始した。その後3週間市街を包囲し、占領した。

1180年(治承4年8月17日) – 源頼朝が伊豆国で挙兵する[1]。

1298年 – クルツォラ戦争: クルツォラの海戦。クルツォラ島付近の海戦でこの名称がある。ジェノヴァとヴェネツィアの覇権争い1295年-1299年大局は引き分けだが 1298のクルツォラ海戦は ジェノヴァ勝利でヴェネツィアの大敗 損害 ジェノヴァ ガレー船75隻中 損害 それなり。ヴェネツィア ガレー船95隻中 戦死9000人 捕虜7000人 

1380年 – クリコヴォの戦い。ルーシがタタールに初めて勝利。場所:ドン川付近のクリコヴォ平原 モスクワ大公ドミートリ1世(ドンスコイ)率いるルーシ連合軍と ママイ率いるタタール軍との戦闘 損害 ルーシ連合3万中 戦死20000以上 タタール 3万中 全滅 と。

1504年 – ミケランジェロ作の「ダビデ像」の公開がはじまる。

1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国軍がマルタ島からの撤退を開始。マルタ騎士団

=聖ヨハネ騎士団の管轄するマルタ島をオスマントルコが包囲殲滅しようとした戦争。1565年5月18日 – 9月11日。これをマルタ騎士団+スペイン帝国が撃退した。損害 スペイン連合軍 13000人中 10000人強の戦死傷 オスマン帝国4万人中 戦死傷30000人。

1755年 – フレンチ・インディアン戦争: ジョージ湖の戦い。ニューヨーク州ジョージ湖でのイギリスとフランスの戦闘。双方 300人以上の戦死を出している。

1781年 – アメリカ独立戦争: ユートースプリングスの戦い。大陸軍とイギリス軍との戦い。

損害 大陸軍 2200人中 戦死傷500以上 イギリス軍 2000人中 戦死傷不明800人以上。大陸軍の勝利。

1813年 – 半島戦争: サン・セバスティアン包囲戦が終了、略奪が始まる。スペインのサンセバスチャン砦のフランス駐留軍をイギリス軍が包囲殲滅 略奪開始。イギリス軍 9000人中 戦死3000人強 フランス軍 3800人中 戦死850人残りは全員捕虜。

1847年 – 米墨戦争: モリノ・デル・レイの戦い。大規模なメキシコ軍が「モリノ・デル・レイ」(王の工場)と呼ばれる石造りの低く大きな一群の建物周辺で繰り広げられた戦闘。米墨戦争中 流血最大とされる。損害 アメリカ軍 2800人中 戦死傷700人以上 メキシコ軍 4000名中 戦死傷2000人以上。

1888年 – 切り裂きジャックによる2人目の犠牲者アニー・チャップマンの遺体が発見される。

1900年 – ハリケーンがテキサス州の州都ガルベストンに上陸。高潮により市街が壊滅し、6000人以上が死亡。

1923年 – ホンダポイント遭難事件。アメリカ海軍の駆逐艦7隻が位置測定の誤りにより座礁。23人が死亡。

1934年 – モロ・キャッスル号火災事故発生。全搭乗者549人のうち135人が死亡した。死亡者のうち86人が船客で全船客の29%にあたった[7]。混乱状態とはいえ、船客を差し置いて救命ボートで脱出を図った船員の態度、乗員構成における安全基準の違反などから船長代理を務めていた一等航海士、真っ先に救命ボートに乗り込んでいた機関長、副社長と会社自体が連邦ニューヨーク南部地方裁判所に起訴され、1936年1月に一等航海士に禁固2年、機関長に禁固4年、副社長に禁固1年および罰金5000ドル、会社に罰金1万ドルが言い渡された。

1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: レニングラード包囲戦が始まる。1941年9月8日 – 1944年1月27日 ドイツ軍70万人強中 戦死傷 甚大 ソ連軍 90万人以上 戦死傷400000人以上 市民死亡95万人以上。

1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがロンドンへの初のV2ロケットによる攻撃を行う。

1945年 – 第二次世界大戦・ブーゲンビル島の戦い: ブーゲンビル島タロキナで日本陸軍第17軍司令官神田正種陸軍中将と第八艦隊司令長官鮫島具重海軍中将が米英豪新軍への降伏文書に署名。

戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争

年月日:1943年11月1日 – 1945年8月21日

場所:ブーゲンビル島、ニューギニア

結果:連合軍の戦略的勝利

(日本軍は終戦まで島の半分を確保)

損害:日本軍64000人中 戦死 2~3万(多くが餓死、病死) 米軍、ニューじーランド軍 126000人中   戦死 1,243人

1945年 – 第二次世界大戦・ミンダナオ島の戦い: 日本陸軍第30師団長両角業作陸軍中将がマライバライで米第31歩兵師団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

戦争:太平洋戦争

年月日:1945年3月10日 – 8月15日

場所:フィリピンミンダナオ島

結果:アメリカ軍の勝利

損害:日本軍43000人中 戦死・戦病死25,000超 戦傷7,000 米軍、フィリピン軍69000人中 戦死820 戦傷2,880

1945年 – 第二次世界大戦・ボルネオの戦い: 日本海軍第二南遣艦隊第22特別根拠地隊司令官鎌田道章海軍中将がバリクパパン沖の豪フリゲートバーデキン上で豪第7師団(英語版)に対する降伏文書に署名する[4]。

戦争:太平洋戦争

年月日:1945年5月1日 – 8月15日

場所:ボルネオ島・タラカン島・ラブアン島

結果:連合軍の勝利

損害:日本軍 戦死・戦病死4,700以上         米軍、フィリピン軍 戦死569、負傷1400

1989年 – パータンエアー394便墜落事故。死亡55人(全員)

1994年 – USエアー427便墜落事故。死亡132人(全員)

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1011年 – ヨムスヴァイキングの司令官のっぽのトルケル率いるデーン人ヴァイキングがカンタベリーに向けて進軍を開始した。その後3週間市街を包囲し、占領した。

1180年(治承4年8月17日) – 源頼朝が伊豆国で挙兵する[1]。

1298年 – クルツォラ戦争クルツォラの海戦。クルツォラ島付近の海戦でこの名称がある。ジェノヴァとヴェネツィアの覇権争い1295年-1299年大局は引き分けだが 1298のクルツォラ海戦は ジェノヴァ勝利でヴェネツィアの大敗 損害 ジェノヴァ ガレー船75隻中 損害 それなり。ヴェネツィア ガレー船95隻中 戦死9000人 捕虜7000人 

クルツォラ戦争は、13世紀末にヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国・ビザンツ帝国の間に起った戦争。13世紀から14世紀にかけてのヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の中に位置づけて第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争とも呼ばれる。1291年にパレスチナにおける最後のキリスト教徒の拠点アッコンがマムルーク朝により陥落し、両国ともに地中海貿易の見直しを迫られ交易路の争奪が激化したことが大きな原因となった。両国はともに、東地中海と黒海の商業圏の独占を狙っていた。1270年に結ばれた15年の休戦期間が終わると、ジェノヴァはエーゲ海からヴェネツィア商人を追い出した。1296年、ジェノヴァ人によってコンスタンティノープルのヴェネツィア人居留地が焼き払われる事件が起きたため、ヴェネツィアは正式にジェノヴァへ宣戦布告した。ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係は第四次十字軍以降急激に悪化したため、ビザンツ帝国はジェノヴァの側についた。ヴェネツィアは黒海やエーゲ海のジェノヴァ植民地を破壊して回ったが、1298年のヴェネツィア・ジェノヴァ戦争最大級の海戦であるクルツォラの海戦でジェノヴァが完勝し、翌1299年に休戦が結ばれた。[1]

クルツォラの海戦 (イタリア語:Battaglia di Curzola)は、第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(クルツォラ戦争)中の1298年9月8日、南ダルマティア(現クロアチア)のクルツォラ島(現 コルチュラ島) 付近でジェノヴァ共和国とヴェネツィア共和国の間で行われた海戦。13世紀から14世紀にかけて地中海やレバントの貿易をめぐってピサ共和国、ジェノヴァ、ヴェネツィアの間で長い戦いが続いたが、このクルツォラの海戦はヴェネツィアにとっては最大級の敗戦となった。

1380年 – クリコヴォの戦い。ルーシがタタールに初めて勝利。場所:ドン川付近のクリコヴォ平原 モスクワ大公ドミートリ1世(ドンスコイ)率いるルーシ連合軍と ママイ率いるタタール軍との戦闘 損害 ルーシ連合3万中 戦死20000以上 タタール 3万中 全滅 と。

クリコヴォの戦い(ロシア語:Куликовская битваまたはБитва на Куликовом поле)は、1380年、モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い[注釈 1]。

1565年 – マルタ包囲戦: オスマン帝国軍がマルタ島からの撤退を開始。マルタ騎士団

=聖ヨハネ騎士団の管轄するマルタ島をオスマントルコが包囲殲滅しようとした戦争。1565年5月18日 – 9月11日。これをマルタ騎士団+スペイン帝国が撃退した。損害 スペイン連合軍 13000人中 10000人強の戦死傷 オスマン帝国4万人中 戦死傷30000人。

マルタ包囲戦(マルタほういせん)またはマルタ大包囲戦(マルタだいほういせん、マルタ語: Assedju ta’ Malta、スペイン語: Sitio de Malta、イタリア語: Assedio di Malta、フランス語: Siège de Malte)は、1565年にオスマン帝国がマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が治める地中海のマルタ島へ行った包囲戦である。最終的にマルタ騎士団が包囲軍の撃退に成功した。

1755年 – フレンチ・インディアン戦争: ジョージ湖の戦い。ニューヨーク州ジョージ湖でのイギリスとフランスの戦闘。双方 300人以上の戦死を出している。

ジョージ湖の戦い(ジョージこのたたかい、英Battle of Lake George)は、1755年9月8日に、現在のニューヨーク州の北部で行われた戦闘である。この戦闘は、フレンチ・インディアン戦争における、イギリスによる北アメリカからのフランス駆逐作戦の一つであった。

ディスカウ男爵ジャン・エルドマンが率いるフランス軍は、インディアン兵も含めて1500人、方やイギリス軍は、サー・ウィリアム・ジョンソン率いる13植民地軍1500人の軍勢と、有名な族長ヘンドリック・テヤノギンが率いる200人のモホーク族の兵だった。

1781年 – アメリカ独立戦争: ユートースプリングスの戦い。大陸軍とイギリス軍との戦い。

損害 大陸軍 2200人中 戦死傷500以上 イギリス軍 2000人中 戦死傷不明800人以上。大陸軍の勝利。

ユートースプリングスの戦い(ユートースプリングスのたたかい、英:Battle of Eutaw Springs)は、アメリカ独立戦争の間の戦闘であり、両カロライナ州では最大のものとなった。

1813年 – 半島戦争: サン・セバスティアン包囲戦が終了、略奪が始まる。スペインのサンセバスチャン砦のフランス駐留軍をイギリス軍が包囲殲滅 略奪開始。イギリス軍 9000人中 戦死3000人強 フランス軍 3800人中 戦死850人残りは全員捕虜。

サン・セバスティアン包囲戦(サン・セバスティアンほういせん、英語: Siege of San Sebastián)は、ナポレオン戦争において、1813年7月7日から9月8日まで、アーサー・ウェルズリー率いるイギリスとポルトガルの連合軍がスペイン北部のサン・セバスティアンを包囲して、ルイ・エマニュエル・レイ(英語版)率いる駐留軍を降伏させた戦闘。同市は略奪ののち炎上して壊滅した。

サン・セバスティアンの略奪と炎上

城内に入ると、連合軍は店にブランデーとワイン、そして馬をたくさん見つけ、軍の多くが暴徒と化した[12]。酔っていて、おびただしい損害を出していたことに立腹していた兵隊は暴れて回り、略奪して市に火を放った。住民も多く殺戮したが、その人数は不明[13]や1,000人[14]など資料によって違う。一部のイギリス軍人は略奪を止めようとしたが、無視されたか酔った兵士に脅された[12]。また多くが見ないふりをし、さらに略奪に参加した者もいた[15]。生還者の1人であったガブリエル・セレスは連合軍が「残虐の極みであった。彼らは住民を殺害したり怪我を負わせたりして、女性の大半を強姦した」と述べた[16]。目撃者によると、火事はその夜にいくつかの家で始まったという。現地人のドミンゴ・デ・エチャヴェはイギリス兵士の言葉「あの家が燃えているのを見たか?気をつけて、明日は全部がこうなる。」を覚えていたという[11]。市は7日間燃え続け、火が消える頃には600の家、市庁舎など建物の大半が焼失していた。

1847年 – 米墨戦争: モリノ・デル・レイの戦い。大規模なメキシコ軍が「モリノ・デル・レイ」(王の工場)と呼ばれる石造りの低く大きな一群の建物周辺で繰り広げられた戦闘。米墨戦争中 流血最大とされる。損害 アメリカ軍 2800人中 戦死傷700人以上 メキシコ軍 4000名中 戦死傷2000人以上。

モリノ・デル・レイの戦い(モリノ・デル・レイのたたかい)は、米墨戦争のチュルブスコの戦いの後、1847年9月8日に起こった戦闘であり、この戦争の中では最も流血の多いものだった。

1888年 – 切り裂きジャックによる2人目の犠牲者アニー・チャップマンの遺体が発見される。

1900年 – ハリケーンがテキサス州の州都ガルベストンに上陸。高潮により市街が壊滅し、6000人以上が死亡。

1923年 – ホンダポイント遭難事件。アメリカ海軍の駆逐艦7隻が位置測定の誤りにより座礁。23人が死亡。

1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: レニングラード包囲戦が始まる。1941年9月8日 – 1944年1月27日 ドイツ軍70万人強中 戦死傷 甚大 ソ連軍 90万人以上 戦死傷400000人以上 市民死亡95万人以上。

レニングラード包囲戦(レニングラードほういせん、ロシア語:блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 – 1944年1月27日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。

ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近く(872日[2])にわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。この包囲戦の死者は市民で95万人言われる。また死因の97%は餓死と言われている[3][4][5]。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人とされていたジダーノフであった。

1944年 – 第二次世界大戦: ナチス・ドイツがロンドンへの初のV2ロケットによる攻撃を行う。

1945年 – 第二次世界大戦・ブーゲンビル島の戦い: ブーゲンビル島タロキナで日本陸軍第17軍司令官神田正種陸軍中将と第八艦隊司令長官鮫島具重海軍中将が米英豪新軍への降伏文書に署名。

戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争

年月日:1943年11月1日 – 1945年8月21日

場所:ブーゲンビル島、ニューギニア

結果:連合軍の戦略的勝利

(日本軍は終戦まで島の半分を確保)

損害:日本軍64000人中 戦死 2~3万(多くが餓死、病死) 米軍、ニューじーランド軍 126000人中   戦死 1,243人

1945年 – 第二次世界大戦・ミンダナオ島の戦い: 日本陸軍第30師団長両角業作陸軍中将がマライバライで米第31歩兵師団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

戦争:太平洋戦争

年月日:1945年3月10日 – 8月15日

場所:フィリピンミンダナオ島

結果:アメリカ軍の勝利

損害:日本軍43000人中 戦死・戦病死25,000超 戦傷7,000 米軍、フィリピン軍69000人中 戦死820 戦傷2,880

1945年 – 第二次世界大戦・ボルネオの戦い: 日本海軍第二南遣艦隊第22特別根拠地隊司令官鎌田道章海軍中将がバリクパパン沖の豪フリゲートバーデキン上で豪第7師団(英語版)に対する降伏文書に署名する[4]。

戦争:太平洋戦争

年月日:1945年5月1日 – 8月15日

場所:ボルネオ島・タラカン島・ラブアン島

結果:連合軍の勝利

損害:日本軍 戦死・戦病死4,700以上         米軍、フィリピン軍 戦死569、負傷1400

1989年 – パータンエアー394便墜落事故。死亡55人(全員)

1994年 – USエアー427便墜落事故。死亡132人(全員)

チャットgpt先生の9月8日のエッセイ


9月8日 ― 歴史の裂け目に立つ日

9月8日という日は、歴史の頁を繰れば繰るほどに、戦いと苦難、そして人間の意志の痕跡が濃く刻まれている。遠く中世のヴァイキングの襲撃から、近代における大戦の包囲戦、そして現代における自然災害や事故まで、この日には「境界を揺さぶる出来事」が重なっているのが不思議である。

たとえば1180年、伊豆で源頼朝が旗を挙げたのも9月8日だった。ここから武家政権という新たな時代が始まり、日本の権力構造が大きく変容していく。武士の世の幕開けを告げる日である。
同じ頃のヨーロッパでは、1298年、アドリア海の覇権をめぐってヴェネツィアとジェノヴァが激突し、クルツォラ島沖で歴史的な海戦が行われた。ジェノヴァの勝利は、地中海交易の秩序を大きく揺るがす契機となった。つまり東西を問わず、9月8日は「新しい秩序の始まり」と結びついている。

一方で、この日はまた、巨大な破壊の記憶とも結びついている。1380年、ルーシ連合軍がタタールを退けたクリコヴォの戦い。1565年、マルタ騎士団がオスマン帝国の猛攻を退けた大包囲戦。そして1941年から900日続いた「レニングラード包囲戦」の始まりの日。これらはいずれも、人類が「包囲」という極限状況に置かれ、飢えと死と向き合いながら、それでも生き抜こうとした歴史である。とりわけレニングラードでは、市民95万人が犠牲となり、その多くが餓死だった。数字の重さは、単なる戦況報告を超え、都市と人間の存在そのものを問い直させる。

また、この日には戦争だけでなく、自然の猛威も記録されている。1900年のガルベストン・ハリケーンは、アメリカ史上最悪級の自然災害であり、6000人以上の命を奪った。文明がいかに進もうと、人間は自然の前に無力であることを痛烈に示す出来事だ。

こうした事件を並べてみると、9月8日には「人間の限界」と「そこを突破しようとする力」が交錯していることが見えてくる。戦い、飢え、嵐、そして崩壊。だがその裏には、必ず新しい世界を切り拓こうとする力がある。頼朝の挙兵も、マルタの防衛も、レニングラードの耐久もそうだ。

今日、私たちがこの日を迎えるとき、それは単なる暦の一日ではなく、幾千もの人間の選択と犠牲が積み重なった「記憶の交差点」に立つことを意味する。人類は繰り返し包囲され、壊滅に直面しながら、それでも必ずどこかで突破口を見出してきた。
9月8日は、その記憶を思い出し、いまを生きる私たちがどのように困難を突破していくかを考えるための日である。