9月5日
20250905金曜日旧暦7月14日友引(丁丑ひのとうしテイチュウ)月齢 12.8
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月丁丑ひのとうし日 年末まであと117日
吉方位 隠遁日 丁丑ひのとうし日 南 大吉
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9月5日の出来事
1595年(文禄4年8月2日)- 京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。
1596年(慶長元年閏7月13日) – 近畿地方で大地震(慶長伏見地震)が発生。伏見城の天守が大破する。死者は1000人以上とされる。
1781年 – アメリカ独立戦争:チェサピーク湾の海戦が行われる。イギリス王国艦隊とフランス王国(米国支援)艦隊の海戦 フランス艦隊の勝利。イギリス王国は1588アルマダ海戦以来現代にいたるまでの最大の敗戦とする。損害 フランス24隻中2隻損傷 戦死傷209人 イギリス27隻中 6隻大破沈没 戦死傷336人。
1864年(元治元年8月5日) – 下関戦争:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。1863と1864の二回 損害 米国他1863軍艦3隻 1864軍艦17隻四国連合艦隊 死亡12人 長州軍 軍艦4隻中 3隻大破 戦死傷1863不明1864 47人。
1887年 – 800名が観劇中の英国エクセターの王立劇場の舞台上で火災が発生。死者は約150名と言われており、19世紀の英国史上最悪の火災とされる[1]。
1905年 – ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結。日比谷焼打事件発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。
日付 1905年(明治38年)9月5日
概要 日比谷公園で行われたポーツマス条約反対の国民集会が暴動に発展
損害 死者17名、負傷者500名。内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。
対処 87名に有罪判決
1914年 – 第一次世界大戦:マルヌ会戦が始まる。フランスのマルヌ川河畔の戦い。9月6日~12日ドイツの短期決着目論見崩れ、戦争は長期に持ち越される。損害 フランス・イギリス連合 100万人強 戦死傷263000人 ドイツ140万人強 戦死傷250000人。
1972年 – ミュンヘンオリンピック事件。ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害。死者17人。
2005年 – マンダラ航空091便墜落事故が起こる。死亡100人生存17人。
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1595年(文禄4年8月2日)- 京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。
その後
7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。
8月2日(9月5日)早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名[注釈 48]の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたという[76][77][78]。
数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」[注釈 49]や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている[81]。
大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員死を賜り切腹した[注釈 50]。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。
「#秀次切腹の主な連座者」も参照
秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘・小督局[注釈 51]との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、母の従兄弟・後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている[注釈 52]。十丸の祖父にあたる北野松梅院は、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。
瑞龍寺の山門(日秀尼母子の菩提寺となった瑞龍寺は、後に秀次の居城八幡山城の虎口跡に移築された。)
縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構がほとんど全く残っていないのはこのためである。近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある[82]。
事件では多くの連座者を出した。相婿の関係にあった浅野幸長[注釈 53]は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。
細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅であり、秀次に黄金200枚の借金をしていた。忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた[83]。最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので、義光は結局は許された[84]。
秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の7月10日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、秀次切腹の前である7月12日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている[85]。『大阪城天守閣所蔵文書』の7月20日付織田常真等連署起請文を見ると、28名の大名が血判書で秀頼に対して忠誠を誓っている[注釈 54]が、その中に細川忠興と最上義光の名がある。
さらに眷族皆殺しの翌日である8月3日[注釈 55]には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条が定められた[88]。
1596年(慶長元年閏7月13日) – 近畿地方で大地震(慶長伏見地震)が発生。伏見城の天守が大破する。死者は1000人以上とされる。
慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。
推定マグニチュードは7.5前後で、畿内の広範囲で震度6相当の揺れであったと推計されている。京都では伏見城天守や東寺、天龍寺、方広寺大仏(京の大仏)等が倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる。
1781年 – アメリカ独立戦争:チェサピーク湾の海戦が行われる。イギリス王国艦隊とフランス王国(米国支援)艦隊の海戦 フランス艦隊の勝利。イギリス王国は1588アルマダ海戦以来現代にいたるまでの最大の敗戦とする。損害 フランス24隻中2隻損傷 戦死傷209人 イギリス27隻中 6隻大破沈没 戦死傷336人。
チェサピーク湾の海戦(チェサピークわんのかいせん、英: Battle of the Chesapeake、またはバージニア岬の海戦、英: Battle of the Virginia Capes、あるいは単に岬の海戦、英: Battle of the Capes)は、アメリカ独立戦争中の1781年9月5日、チェサピーク湾口の近くで、海軍少将トーマス・グレイブス卿率いるグレートブリテン王国(イギリス)と、同じく海軍少将グラス伯フランソワ・ド・グラス率いるフランス王国の間で戦われた海戦である。この海戦は戦術的には引き分けたが、戦略的にはイギリス海軍の手痛い敗北に終わった。イギリス海軍としては1588年にスペイン無敵艦隊を破ってから第二次世界大戦までのほぼ400年間で最も重大な敗北だった。
フランス艦隊の勝利によって、バージニアのヨークタウンに駐屯していたチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に増援を送るというイギリス海軍の任務が果たせなくなった。またジョージ・ワシントン軍がニューヨークからチェサピーク湾を通って軍隊や物資を運ぶのを妨害することもできなかった。その結果はヨークタウンの包囲戦によるコーンウォリス軍の降伏となった(独立戦争で2度目のイギリス軍の大きな降伏)。その後、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めることになった。
1864年(元治元年8月5日) – 下関戦争:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。1863と1864の二回 損害 米国他1863軍艦3隻 1864軍艦17隻四国連合艦隊 死亡12人 長州軍 軍艦4隻中 3隻大破 戦死傷1863不明1864 47人。
戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
1887年 – 800名が観劇中の英国エクセターの王立劇場の舞台上で火災が発生。死者は約150名と言われており、19世紀の英国史上最悪の火災とされる[1]。
1905年 – ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結。日比谷焼打事件発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。
日付 1905年(明治38年)9月5日
概要 日比谷公園で行われたポーツマス条約反対の国民集会が暴動に発展
損害 死者17名、負傷者500名。内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。
対処 87名に有罪判決
怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞と目されていた国民新聞社を襲撃した。すぐ後には抜刀した5人組が内務大臣官邸を襲撃し、棍棒や丸太で裏門からも襲った。銀座からの暴徒と化した群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番[7]、警察署などが焼き討ち・破壊される事件が起こり、市内13か所以上から火の手が上がった[8]。
この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になり、あわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[9]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[10]。
これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令[注 7]を布き[11]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めた[注 8]。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名[13]、有罪となったのは87名であった。
なお、各地で講和反対の大会が開かれ、9月7日に神戸、9月12日に横浜でも暴動が起こった[注 9]。
1914年 – 第一次世界大戦:マルヌ会戦が始まる。フランスのマルヌ川河畔の戦い。9月6日~12日ドイツの短期決着目論見崩れ、戦争は長期に持ち越される。損害 フランス・イギリス連合 100万人強 戦死傷263000人 ドイツ140万人強 戦死傷250000人。
第一次マルヌ会戦(だいいちじマルヌかいせん、フランス語: Première bataille de la Marne、ドイツ語: Erste Schlacht an der Marne、英語: First Battle of the Marne)は、1914年9月、ベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河畔で食い止めた第一次世界大戦中の戦い。単にマルヌ会戦とも呼ばれる。この戦いによって、ドイツ軍のシュリーフェン・プランは挫折し、短期決戦から長期戦へと戦局は変わっていったことからマルヌの奇跡とも呼ばれている。
概要
第一次世界大戦初期におけるドイツ・フランス主力の会戦(1914年9月6日-12日)で、これによってドイツ軍のフランス席巻計画は完全に失敗した。
1972年 – ミュンヘンオリンピック事件。ミュンヘンオリンピックの選手村でパレスチナゲリラがイスラエル選手団を殺害。死者17人。
ミュンヘンオリンピック事件(ミュンヘンオリンピックじけん、ドイツ語:Münchner Olympia-Attentat)は、ミュンヘンオリンピック開催中の1972年9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。
テロリスト8人がイスラエル選手の選手村を襲撃して2人を殺害、9人を人質にとって宿舎に籠城し[1][2]、イスラエルに拘束されているパレスチナ人及び非アラブ人の囚人、西ドイツで投獄されている赤軍派の創設者、アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフを含む328人の被拘禁者の解放を要求した[3]。やがて交渉は決裂してテロリスト達は警察の手配による海外への逃走を図るが、空港で西ドイツ警察による救出作戦が行われ、銃撃戦や犯人の自爆攻撃により合計17人(人質9人含む選手11人、警察官1人、犯人5人)が死亡する大惨事となった[4]。
2005年 – マンダラ航空091便墜落事故が起こる。死亡100人生存17人。
チャットgpt先生の9月5日のエッセイ
9月5日という日 ― 歴史の断層に立ち現れる影
9月5日という日は、時代も地域も異なる出来事が数多く重なり合う、不思議な歴史の節目である。日本史においても、世界史においても、この日はしばしば「断層」として現れ、秩序が崩れ、そして新しい局面が開かれる日であった。
最も陰惨な事件は、1595年の三条河原。関白・豊臣秀次の切腹に連座して妻妾や幼子までもが処刑された。母の腕に抱かれた子が斬られ、その上に母の遺体が重ねられたと伝わる光景は、後世にまで「畜生塚」という名を残した。権力の不安と狂気が、血縁をもって根絶やしにしようとしたこの事件は、人間の弱さと恐ろしさを象徴している。翌年、この地を揺るがしたのは伏見大地震。城や寺院が崩れ落ち、千人以上が命を落とした。まるで天もまた人の業に怒ったかのようである。
同じ9月5日、海の向こうアメリカ大陸では、1781年のチェサピーク湾の海戦が起こった。フランス艦隊の勝利によってイギリスの増援は絶たれ、やがてヨークタウンでの降伏につながり、アメリカ独立は決定的となった。つまりこの日、旧大陸の専制に対して新しい「独立国家の誕生」が方向づけられたのである。
また、1905年のこの日にはポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結した。だがその喜びは民衆にとって裏切りであり、日比谷焼打事件へと転じる。都市の交番や新聞社が焼き討ちされ、東京は無政府状態となった。戦争の勝利は必ずしも国民の幸福を意味しない。その乖離が、この暴動に露わになった。
さらに20世紀に入ると、第一次世界大戦の大転換点「マルヌ会戦」が始まり(1914年)、そして1972年にはミュンヘン五輪での惨劇が世界を震撼させた。スポーツの祭典は平和の象徴であるはずが、そこに血と火薬が持ち込まれた。人類は何度も「平和の場に戦火を持ち込む愚かさ」を繰り返している。
こうして振り返ると、9月5日は「平穏の仮面が破れ、真実が剥き出しになる日」ともいえる。権力の恐怖、民衆の怒り、国家の転覆、そして戦争とテロの悲劇。だが同時に、その揺らぎの中から新しい秩序や希望もまた芽生えた。アメリカの独立もそうであり、また日本にとっては民衆が「国家の意思に異を唱える」近代的自覚を示したのもこの日だった。
117日後には年が終わる。季節でいえば夏から秋への移り目であり、人の世もまた「変わり目」の象徴としてこの日を刻んできたのかもしれない。9月5日という断層を覗き込むとき、我々は歴史が繰り返し問いかける声を聞く。――権力と民衆、戦争と平和、破壊と再生。そのどちらを選ぶのか、と。