kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月3日 1651イングランド内戦の英雄クロンウェル死去、ほか写真wikipedia死後処刑の英雄 

9月3日

20250903水曜日旧暦7月12日赤口(乙亥きのといイツガイ)月齢 10.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月乙亥きのとい日 年末まであと119日

吉方位 隠遁日 乙亥きのとい日

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9月3日の出来事

紀元前36年 – シチリア戦争:ナウロクス沖の海戦[1]。ローマ内戦。ポンペイウス軍対オクタウィアヌス+アグリッパの共和国軍の戦い。オクタウィアヌス共和国軍勝利。損害 ポンペイウス 軍船300中 撃沈 28拿捕 255逃走 17 共和国軍 軍船300中 撃沈3。

1260年 – アイン・ジャールートの戦い。マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止。シリアパレスチナで戦われた マムルーク朝アラブがモンゴル帝国軍を破った戦い。損害 マムルーク朝2万人中 死傷重大 モンゴル軍2万強で壊滅と。

1643年 – 三十年戦争: カルタヘナの戦い。三十年戦争の末期にスペインのカルタヘナ沖でのフランス王国対スペイン王国の海戦。損害 フランス 軍船22中 僅少 スペイン 軍船43中 沈没10 拿捕2 死亡3000人。

1650年 – 第三次イングランド内戦:ダンバーの戦い。イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。損害イングランド軍1万1千中 僅少 スコットランド軍 2万2千中 戦死3000人 捕虜10000人。

1651年 – 第三次イングランド内戦:ウスターの戦い。ダンバーの戦いから丁度1年に当たる日にイングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。

損害 イングランド共和国軍 3万1千人中 戦死200人 イングランド王党派+スコットランド連合軍 1万3千人中 戦死3000人 捕虜10000人で壊滅。

1658年 – イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェル死去(59歳没)、息子リチャード・クロムウェルが護国卿となる。

1870年 – 普仏戦争:メス攻囲戦が始まる[3]。1870年9月3日 – 10月23日。損害 プロイセン王国軍 13万人中 僅少 フランス帝国軍 16万人中 捕虜186000人で壊滅的敗北。

1792年 – ランバル公妃マリー・ルイーズ、マリー・アントワネットの女官長(* 1749年)9月虐殺の騒動にて民衆に虐殺される。

1939年 – ビドゴシチ住民殺害事件。ナチスによるポーランドの都市ビドゴシチの住民虐殺。約1300人が殺害される。

1950年 – 信濃川発電所第7号トンネル建設現場で落盤。作業員45人死亡[6]。

1978年 – 漁船2隻が歯舞諸島沖合でシケのため沈没。死者・行方不明者17人、7人救助[12]。

1978年 – ローデシア紛争:エアローデシア825便撃墜事件(英語版)、ジンバブエ人民革命軍(英語版)がミサイルシステム9K32を用いて同機を撃墜。搭乗していた56人のうち撃墜時点で38人が、その後の革命軍の虐殺行為で10人が死亡した。

1989年 – ヴァリグ・ブラジル航空254便墜落事故。死者13名。

1989年 – クバーナ航空9646便墜落事故。死者150名。

1993年 – 台風13号が鹿児島県薩摩半島に上陸。死者48名。

1997年 – ベトナム航空815便墜落事故。死亡65人生存1人。

2004年 – ロシアの北オセチア共和国で起きたベスラン学校占拠事件で、テロリストに占拠された学校に治安部隊が突入。テロは制圧されたが、死者330人以上(うち150人以上が子供)、負傷者700人以上(うち300人以上が子供)の犠牲者が発生した[16]。

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紀元前36年 – シチリア戦争:ナウロクス沖の海戦[1]。ローマ内戦。ポンペイウス軍対オクタウィアヌス+アグリッパの共和国軍の戦い。オクタウィアヌス共和国軍勝利。損害 ポンペイウス 軍船300中 撃沈 28拿捕 255逃走 17 共和国軍 軍船300中 撃沈3。

ナウロクス沖の海戦(ナウロクスおきのかいせん、英: Battle of Naulochus)は、紀元前36年9月3日に反カエサルを貫いたセクストゥス・ポンペイウスと、カエサル派であったオクタウィウスとアグリッパを主力とする共和政ローマとの海戦。シチリア島ナウロクス沖で戦われたため、この名がある。

1260年 – アイン・ジャールートの戦い。マムルーク朝軍がモンゴル帝国軍を破り、モンゴルの西進を阻止。シリアパレスチナで戦われた マムルーク朝アラブがモンゴル帝国軍を破った戦い。損害 マムルーク朝2万人中 死傷重大 モンゴル軍2万強で壊滅と。

アイン・ジャールートの戦い(アイン・ジャールートのたたかい)は、1260年9月3日にシリア・パレスチナのアイン・ジャールート(英語版)(アラビア語: عين جالوت‎、‘Ayn Jālūt)で行われた会戦である。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。

モンゴル帝国拡大の限界点

この戦いは、マムルーク朝側の歴史家たちが残した同時代のアラビア語史料から現代の歴史研究に至るまで、ムスリム(イスラム教徒)がモンゴル帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高い。しかし、ムスリム政権の軍がモンゴル帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラズムシャー朝のジャラールッディーンの軍団がシギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフガニスタンのパルワーンの戦いがあり、厳密に言えば「初めて」ではない。

一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いほどには印象が薄いようである(上記のパルワーンでの敗北についても、モンゴルは後日のインダス河畔の戦いにおいてチンギス・カン自ら軍勢を率いてジャラールッディーンの軍隊を壊滅させ、雪辱を果たした)。アイン・ジャールートの戦いが印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったからであろう。

事実、イルハン朝では1260年以降フレグ、アバカなどはジョチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、チャガタイ・ウルスとはホラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けている。歴代の君主たちもガザン・ハンなどシリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどでアレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。クビライとアリクブケのモンゴル帝国帝位継承戦争の後もモンゴル帝国では王家間の紛争が長期化・続発し、(かつてチンギス・カンが率いていたときのような)帝国の総力を挙げての軍事行動が不可能になったことも、モンゴル側にとってのシリアにおける領土侵略の機会が失われた根本的要因であった。

いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのがアイン・ジャールートの戦いのあった1260年であるのは確かであり、その意味で象徴的な戦いであった。

1643年 – 三十年戦争: カルタヘナの戦い。三十年戦争の末期にスペインのカルタヘナ沖でのフランス王国対スペイン王国の海戦。損害 フランス 軍船22中 僅少 スペイン 軍船43中 沈没10 拿捕2 死亡3000人。

カルタヘナの海戦(Battle of Cartagena)は、スペインのカルタヘナ近くのカボデガタ(英語版)沖で1643年9月3日に戦われた三十年戦争末期の海戦である。

1650年 – 第三次イングランド内戦:ダンバーの戦い。イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。損害イングランド軍1万1千中 死者20人 スコットランド軍 2万2千中 戦死3000人 捕虜10000人。

この第三次イングランド内戦の結果としてスコットランドはクロムウェルのニューモデル軍の精強さの前にもはや膝を屈する他なく、これまでの同君連合という扱いではなくイングランド共和国に取り込まれてアイルランドともどもイングランド共和国の一地方として扱われるという屈辱を1660年のイングランド王政復古まで味わうこととなる。

1651年 – 第三次イングランド内戦:ウスターの戦い。ダンバーの戦いから丁度1年に当たる日にイングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルがスコットランド軍に勝利。

損害 イングランド共和国軍 3万1千人中 戦死200人 イングランド王党派+スコットランド連合軍 1万3千人中 戦死3000人 捕虜10000人で壊滅。

ウスターの戦い(ウスターのたたかい、英:Battle of Worcester)は1651年9月3日にイングランドのウスターで起きた戦い。イングランド王復位を目指すスコットランド王チャールズ2世がロンドン入城を目指してイングランド王党派を糾合して挙兵したが、イングランド共和国軍司令官オリバー・クロムウェルはこれを撃破してチャールズ2世を大陸へと追いやり第三次イングランド内戦を終結させた。

この戦いはクロムウェルが前線で兵を率いた最後の戦いとなった。自身の指揮で第三次イングランド内戦を終結に導き、イングランド・アイルランドにおいて軍事力でクロムウェルのニューモデル軍に対抗しうる勢力は皆無であると証明した。

1658年 – イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェル死去(59歳没)、息子リチャード・クロムウェルが護国卿となる。

死後・評価

クロムウェルの首」も参照

その後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルはすでに死亡していたアイアトンや国王裁判において裁判長を務めたジョン・ブラッドショー(英語版)とともに反逆者として墓を暴かれ、遺体はタイバーン刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、クロムウェルの首は何人かの所有者を経て、現在では母校であるケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジ(英語版)に葬られた。息子リチャードは国内の混乱を収められず亡命したが、1680年ごろにこっそりと帰国している。

1870年 – 普仏戦争:メス攻囲戦が始まる[3]。1870年9月3日 – 10月23日。損害 プロイセン王国軍 13万人中 僅少 フランス帝国軍 16万人中 捕虜186000人で壊滅的敗北。

メス攻囲戦とセダンの戦いでの損害を合わせると30万人となり、フランス帝国の戦争の勝利はほとんど不可能となものとなった[1]。

1792年 – ランバル公妃マリー・ルイーズ、マリー・アントワネットの女官長(* 1749年)9月虐殺の騒動にて民衆に虐殺される。

1939年 – ビドゴシチ住民殺害事件。ナチスによるポーランドの都市ビドゴシチの住民虐殺。約1300人が殺害される。

ビドゴシチ住民殺害事件(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻開始から10日間のうちにポーランド西北部の都市ビドゴシチ(Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件である。以下、血の日曜日事件と呼称する。

ドイツの自衛団が退却するポーランド軍に対して狙撃した後、ポーランド側は在ポーランド・ドイツ人に対しての反感があり、ビドゴシチ市陥落後、ドイツ国防軍や自衛団によって、ポーランド人の人質を報復として処刑した。これら一連の出来事は、ドイツ人とポーランド人双方の民間人で死者を出すに至った。ポーランドの国家記銘院は、ドイツ人の民間人に254人の犠牲者が出て、ポーランド側の民間人は、合計で106人の犠牲者(民間人が86人、ポーランド兵が20人)が死亡した。約600人から800人のポーランド人の人質が市の陥落後処刑されたとみられている。

ドイツ軍が市を占拠した後、1200人から1300人のポーランドの民間人をタンネンベルク作戦の一環として、報復措置のため殺害した。処刑された出来事や場所は、死の谷と呼ばされている。殺害された者にはビドゴシチ市の市長である、レオン・バルチシェフスキが含まれていた。同市の50人のポーランド兵捕虜は、後にナチスによって、血の日曜日事件に参加したかどで銃殺刑に処された。

1950年 – 信濃川発電所第7号トンネル建設現場で落盤。作業員45人死亡[6]。

1978年 – 漁船2隻が歯舞諸島沖合でシケのため沈没。死者・行方不明者17人、7人救助[12]。

1978年 – ローデシア紛争:エアローデシア825便撃墜事件(英語版)、ジンバブエ人民革命軍(英語版)がミサイルシステム9K32を用いて同機を撃墜。搭乗していた56人のうち撃墜時点で38人が、その後の革命軍の虐殺行為で10人が死亡した。

1989年 – ヴァリグ・ブラジル航空254便墜落事故。死者13名。

1989年 – クバーナ航空9646便墜落事故。死者150名。

1993年 – 台風13号が鹿児島県薩摩半島に上陸。死者48名。

1997年 – ベトナム航空815便墜落事故。死亡65人生存1人。

2004年 – ロシアの北オセチア共和国で起きたベスラン学校占拠事件で、テロリストに占拠された学校に治安部隊が突入。テロは制圧されたが、死者330人以上(うち150人以上が子供)、負傷者700人以上(うち300人以上が子供)の犠牲者が発生した[16]。

チャットgpt先生の9月3日のエッセイ


9月3日 ― 戦いと記憶の交差点

9月3日という日は、歴史をひも解けば戦いと犠牲、そしてその果てに訪れる変化を映し出す鏡のように見える。

紀元前36年、シチリア島沖ナウロクスの海戦。ポンペイウスの艦隊は壊滅し、オクタウィアヌスの勝利は後のローマ帝政成立への道を開いた。1260年、アイン・ジャールートでマムルーク朝がモンゴル軍を退け、西アジアにおけるモンゴルの膨張はここで止まった。どちらの戦いも単なる勝敗にとどまらず、「歴史の大きな流れを転換させる境界線」となったのである。

その後も9月3日は幾度も血に染まる。クロムウェルがスコットランドを破ったダンバーとウスターの戦いは、イングランドを共和政に縛りつけ、同時に王党派の希望を打ち砕いた。19世紀には普仏戦争メス攻囲戦が始まり、フランスは国家の命運を左右する敗北に直面する。

20世紀に入れば戦争だけではない。1939年、ビドゴシチではナチスの侵攻とともに市民が虐殺され、冷酷な「血の日曜日」の記憶が刻まれた。冷戦後の世界でも、航空機事故や自然災害、2004年ベスラン学校占拠事件のような惨劇が、この日を「人類の痛みの日」として重ねていく。

一方で、こうした出来事の中に共通して浮かび上がるのは「人間の限界と希望」である。戦いに勝った側は新しい秩序を築こうとし、敗れた側もまた未来を模索する。クロムウェルの死後、結局王政は復古し、モンゴルの後退によってイスラーム世界は独自の文明を発展させた。大量の犠牲を伴った歴史の瞬間が、やがて新たな文化や社会を育てる契機となっている。

9月3日を眺めると、そこには常に「喪失と再生」が同居している。
戦争や災厄の記録に沈むだけでなく、私たちはそこから「どのように次を築くか」という問いを受け継いでいるのだろう。

だからこそ、今日という日を生きる私たちは、歴史をただの悲劇として終わらせず、「その後の人々が何を選んだか」にも目を向ける必要がある。9月3日は、過去の血と涙を記憶しつつも、未来を切り開く勇気を思い起こさせる日なのである。