kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月2日 前31年アクティウム海戦、ほかwikipedia海戦図

9月2日

20250902火曜日旧暦7月11日大安(甲戌きのえいぬコウジュツ)月齢 9.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月甲戌きのえいぬ日 年末まではあと120日

吉方位 隠遁日 甲戌きのえいぬ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%882%E6%97%A5

9月2日の出来事

紀元前31年 – アクティウムの海戦。ローマ帝国覇権争い。オクタウィアヌス軍対クレオパトラ+アントニウス連合軍 オクタウィアヌス派の勝利。損害 オクタウィアヌス軍2万人中2500人戦死 クレオパトラアントニウス連合軍2万2千人中戦死5000人 

1192年 – ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。

戦争:第3回十字軍

年月日:1189年5月11日〜1192年9月2日

場所:レバント・シチリア島・イベリア半島・アナトリア半島

結果:ヤッファ条約を締結した。

十字軍は軍事的に勝利し、3年間の平和条約を締結した。

遠征前の状況を維持することが取り決められた。これによりムスリムのエルサレム支配と、十字軍のレバント地方に点在する十字軍国家の支配が決まった。

レバントにおける非武装の聖地巡礼者(英語版)の安全が保証された。

損害:十字軍 約7万人規模 イスラム側 アイユーブ朝4万+セルジューク朝2万の計6万人規模

詳細不明chat gpt回答によると 

  • 十字軍側の死者 → おおむね 5万〜10万人規模(特にドイツ軍の壊滅とアッコン攻囲戦が大きい)
  • ムスリム側の死者 → 同程度、数万人規模
  • 総計では 10万〜20万人程度の死者が生じた可能性が高い、というのが歴史学的な推定です。

1666年 – ロンドン大火:ロンドン橋近くのパン屋から出火。火災は9月6日まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した[1]。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。

1792年 – フランス革命: 九月虐殺が始まる。1792年9月2日から数日間にわたって行われたパリの監獄での虐殺。ランヴァル公妃婦人ほか殺害された人数はパリで1300人、地方で150人といわれる。

1806年 – スイスのゴールダウで地滑り、457人が死亡。

1898年 – マフディー戦争: オムダーマンの戦い。スーダンのマフディ教徒反乱軍と宗主国英国軍の植民地戦争。英国の大勝。損害 イギリス軍1万人中戦死50人 マフディ軍5万2千中 戦死9700人負傷13000人捕虜5000人。

1935年 – レイバー・デー・ハリケーン(英語版)がフロリダ州ロングキー(英語版)に上陸し400人以上が死亡。

1935年 – 大阪府堅下村(現柏原市)平野集落にあったため池「菱尾池」が前日来の豪雨により決壊。死者9人、重傷5人、軽傷10余人。家屋の全壊6戸、倒壊16戸の被害[4]。

1978年 – カナダのバンクーバーで遊覧飛行中の水上機が海中に墜落。新婚旅行で現地を訪れていた日本人観光客ら9人が死亡[7]。

1998年 – スイス航空111便墜落事故。死亡229人(全員)。

2020年 – 鹿児島県奄美大島沖でニュージーランドから中国へ向かう貨物船が台風接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に沈没。乗員1人救出、43人が行方不明[12]。

————————————————————————-  

紀元前31年 – アクティウムの海戦。ローマ帝国覇権争い。オクタウィアヌス軍対クレオパトラ+アントニウス連合軍 オクタウィアヌス派の勝利。損害 オクタウィアヌス軍2万人中2500人戦死 クレオパトラアントニウス連合軍2万2千人中戦死5000人 

影響

アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していたユダヤ王ヘロデらも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアへと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。コブラに身体を噛ませての死だったと伝わっている。

オクタウィアヌスは、これにより内乱の一世紀に終止符を打ち、地中海世界の統一も果たして、自らはプリンケプスとして帝政への道を開いた[要出典]。

1192年 – ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。

戦争:第3回十字軍

年月日:1189年5月11日〜1192年9月2日

場所:レバント・シチリア島・イベリア半島・アナトリア半島

結果:ヤッファ条約を締結した。

十字軍は軍事的に勝利し、3年間の平和条約を締結した。

遠征前の状況を維持することが取り決められた。これによりムスリムのエルサレム支配と、十字軍のレバント地方に点在する十字軍国家の支配が決まった。

レバントにおける非武装の聖地巡礼者(英語版)の安全が保証された。

損害:十字軍 約7万人規模 イスラム側 アイユーブ朝4万+セルジューク朝2万の計6万人規模

詳細不明chat gpt回答によると 

  • 十字軍側の死者 → おおむね 5万〜10万人規模(特にドイツ軍の壊滅とアッコン攻囲戦が大きい)
  • ムスリム側の死者 → 同程度、数万人規模
  • 総計では 10万〜20万人程度の死者が生じた可能性が高い、というのが歴史学的な推定です。

第3回十字軍(だい3かいじゅうじぐん、1189年 – 1192年)とは、ラテン教会(英語版)下の3人の国王(フランス国王フィリップ2世、イングランド国王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)により行われた聖地回復のための軍事遠征である。この遠征は1187年に聖地エルサレムがサラディンに奪還された(英語版)ことがきっかけで開催された遠征であり、遠征の主体が上述の3人の国王であったことから諸王の十字軍としても知られている[13]。

この遠征は一定程度成功したとみなされている。十字軍はアッコやヤッファ(英語版)といった重要な諸都市を再獲得し、サラディンがそれまでに征服した地域の大半を奪還することに成功したからである。ただし、十字軍が最大の目標と掲げていた聖地エルサレムの奪還を成し遂げることはできなかった。

1666年 – ロンドン大火:ロンドン橋近くのパン屋から出火。火災は9月6日まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した[1]。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。

1792年 – フランス革命: 九月虐殺が始まる。1792年9月2日から数日間にわたって行われたパリの監獄での虐殺。ランヴァル公妃婦人ほか殺害された人数はパリで1300人、地方で150人といわれる。

虐殺発生の遠因

1792年8月11日、立法議会がパリ市のコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。8月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行われたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた[1]。

「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」。こうして8月30日、パリ市内で家宅捜索が行われ、約3千人の容疑者が逮捕された。しかし、特別重罪裁判所は機能していない。

勃発

きっかけは革命戦争において、オーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際に行われた、ダントンの演説である。彼は「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」と呼びかけた。これがテロリズムへの公然たる誘導となった。

9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ市のコミューンの監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。コミューンは防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。義勇軍の編成が始まる。数日前から、「殺し屋」が集められていた。三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。『反革命の陰謀』だ。やられる前に、やれ。」こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。

犠牲者

当時アベイとカルム、その他の牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。聖職者民事基本法への宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイの牢獄(英語版)に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルムの牢獄(英語版)におもむき、150人の聖職者の大部分を殺害した[2]。

虐殺は数日間続いた。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。

この結果パリ市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で犠牲になったものは、推計1100人から1400人。のちになって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明。犠牲者のうち本来殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の4分の1にすぎなかった。

また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こった。その犠牲者の総計は150人といわれている。

1806年 – スイスのゴールダウで地滑り、457人が死亡。

1898年 – マフディー戦争オムダーマンの戦い。スーダンのマフディ教徒反乱軍と宗主国英国軍の植民地戦争。英国の大勝。損害 イギリス軍1万人中戦死50人 マフディ軍5万2千中 戦死9700人負傷13000人捕虜5000人。

マフディー戦争

時             1881年-1899年

場所        スーダン, エジプト, ウガンダ

結果        イギリス・エジプトの勝利:

領土の

変化        スーダンがイギリス・エジプトの共同主権(英埃領スーダン)となる。

1935年 – レイバー・デー・ハリケーン(英語版)がフロリダ州ロングキー(英語版)に上陸し400人以上が死亡。

1935年 – 大阪府堅下村(現柏原市)平野集落にあったため池「菱尾池」が前日来の豪雨により決壊。死者9人、重傷5人、軽傷10余人。家屋の全壊6戸、倒壊16戸の被害[4]。

1978年 – カナダのバンクーバーで遊覧飛行中の水上機が海中に墜落。新婚旅行で現地を訪れていた日本人観光客ら9人が死亡[7]。

1998年 – スイス航空111便墜落事故。死亡229人(全員)。

2020年 – 鹿児島県奄美大島沖でニュージーランドから中国へ向かう貨物船が台風接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に沈没。乗員1人救出、43人が行方不明[12]。

チャットgpt先生の9月2日のエッセイ


9月2日という日をめぐって

9月2日は、暦の上では初秋のただなかにある。旧暦ではまだ7月、月齢9.8の半月に近い月が夜空を照らす頃であり、稲の穂が色づき、季節は夏から秋へと移ろっていく。大安にあたる今日が、歴史の上では数えきれぬほどの悲劇と転換点を記しているのは不思議なことだ。

紀元前31年、この日はローマの覇権を決定づけたアクティウムの海戦があった。クレオパトラとアントニウスが夢見た東方世界の覇権は潰え、若きオクタウィアヌスが後のローマ帝国の礎を築くことになる。愛と権力のはざまで、アントニウスは「女を追った」と揶揄されながら散り、クレオパトラもまたオクタウィアヌスに屈することを拒んで命を絶った。そこには古代世界の栄光と悲劇が交錯する、人間の普遍的な姿が見える。

1192年9月2日、十字軍とサラディンの間でヤッファ条約が結ばれ、第3回十字軍は終結した。互いに疲弊した末に取り結ばれたのは、勝者と敗者を決めきれぬ和解であった。エルサレムは奪還されず、しかし巡礼者の安全は守られた。この「完全な勝利」を得られなかった十字軍は、理想と現実の乖離を象徴している。戦いがもたらすのは勝利の喜びではなく、痛みと妥協であることを、この条約は今に伝えている。

時を下って1666年のロンドン大火もまた、9月2日に始まった。ロンドンの五分の四を焼き尽くしたにもかかわらず、記録された死者はわずか5人。だが瓦礫の下にどれだけの命と生活が失われたのか、誰も知ることはできない。都市をのみ込む炎は、文明のもろさと、人間が自然の力の前にいかに無力であるかを思い知らせる。

さらにフランス革命の激動の中、1792年9月2日には「九月虐殺」が始まった。囚人を「反革命」と見なした民衆が裁きの名の下に殺戮を繰り広げ、数日間で千数百人が命を落とした。革命の理想が熱狂と恐怖によって歪み、群衆の手によって血塗られた現実に変わる――この出来事もまた、歴史の9月2日を深紅に染めている。

19世紀末にはスーダンでのオムダーマンの戦いがあり、近代兵器の圧倒的な力が一方的な殺戮を生んだ。20世紀にはフロリダを襲ったハリケーン、大阪でのため池決壊、そして1998年のスイス航空111便墜落事故。ごく最近でも2020年、台風下で貨物船が奄美沖で沈没し、乗員の多くが海に消えた。

こうしてみると、9月2日は「歴史の岐路」と「悲劇の記憶」が不思議と折り重なる日であるように思える。古代から現代まで、人は権力を求め、信仰を守ろうとし、自然に挑み、そして時に自然に敗れてきた。その営みのすべてが、この一日の歴史に刻まれている。

しかし一方で、暦は淡々と巡る。今日が「大安」であり、「隠遁日」とされることを思えば、戦いに翻弄された歴史を振り返りながら、私たちは静かに生きることの意味を問い直すことができるのではないだろうか。

9月2日は、戦いと破壊の記憶を宿しつつも、同時に平穏を希求する日である。過去に起きた惨禍を思い返しながら、今を生きる私たちは「大胆さ」ではなく「静けさ」を手に入れることが求められているのかもしれない。