kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月18日 1931満州事変勃発、ほか写真wikipedia柳条湖爆発現場

9月18日

20240918水曜日旧暦8月16日大安(乙酉きのととりイツユウ)月齢 15

甲辰きのえたつ年癸酉みずのととり月乙酉きのととり日 年末まであと104日

吉方位 乙酉きのととり日 北 大吉、 北東 大吉、 南 吉。

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8818%E6%97%A5

9月18日の出来事

1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

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1828年(文政11年8月10日) – シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年(文政11年)に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、国防上の理由から日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」(「伊能図」)などを持ち出そうとして発覚し、国外追放処分を受けた事件である。シーボルトに地図を贈った幕府の書物奉行兼天文方筆頭高橋景保をはじめとする多数の関係者、蘭学者が幕府によって処罰されたことから、この事件は蛮社の獄に先立つ蘭学者弾圧事件となった。

日本側関係者の処分は多岐にわたった。シーボルトに地図を贈った書物奉行兼天文方筆頭の高橋景保は獄死したが、その死体は塩蔵され、のちに改めて死罪判決が下されたうえで斬首された。また、景保の子らも遠島となった[6]。ベラドンナ(実際にはその代用品であるハシリドコロ)を用いた開瞳術を教わる見返りとして将軍から拝領した三つ葉葵の紋服を贈った眼科奥医師土生玄碩は改易のうえ終身禁固となった(のち赦免)。そのほか、オランダ商館長が江戸に参府する際の定宿を提供していた長崎屋源右衛門、シーボルトの門人二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助(川原慶賀)、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎、さらに召し使いにいたるまで五十数人が処罰された。

1863年 – 南北戦争:チカマウガの戦い開始。西部戦線での北軍最大の敗北戦。    1863年9月18日-20日[1]。損害 北軍5万6千人中 戦死傷16170人 南軍7万人中 戦死傷18454人。

チカマウガの戦い(チカマウガのたたかい、英:Battle of Chickamauga)は、南北戦争の西部戦線における、テネシー州中南部とジョージア州北西部で1863年9月18日から20日に行われた戦闘である。チカマウガ方面作戦と呼ばれる北軍攻勢の最後の戦闘だったが、北軍は西部戦線では最大の敗北を喫した。

対戦したのは北軍 ウィリアム・ローズクランズ 少将指揮するカンバーランド軍と南軍ブラクストン・ブラッグ将軍指揮するテネシー軍であり、戦闘名はチャタヌーガ中心部の北東約3.5マイル (5.6 km)でテネシー川に注ぐチカマウガ・クリークから採られた。

1931年 – 満洲事変:奉天付近の南満洲鉄道線路上で爆発事件。(柳条湖事件)年月日:1931年9月18日 – 1932年2月18日 損害 日本 6万6千人中 24人 中華民国 16万人中340人。

柳条湖事件

詳細は「柳条湖事件」を参照

事件直後の柳条湖の爆破現場

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、瀋陽郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している[注釈 9]。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件[注釈 10]である。

戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った自作自演の陰謀であったことが判明している[注釈 11]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。

1944年 – 第二次世界大戦: 日本の貨物船順陽丸がインドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受け撃沈。5,620人が死亡。

9月16日、「順陽丸」はペカンバル-ムアロ間のスマトラ横断鉄道の建設に投入される1,377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4,200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、ジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオクを出港。18日、南緯02度53分 東経101度11分のパダン南南東225km地点にさしかかったところでイギリス潜水艦「トレードウィンド」(HMS Tradewind)の雷撃で沈没した。これは5,620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故となった。680人ほどの生き残った捕虜はスマトラ横断鉄道の現場に送られたが、終戦まで生き延び、救出されたのはわずか100人たらずだった[6]。

1958年 – 昭和33年台風第21号が伊豆半島の南端に上陸。その後、房総半島を経て太平洋を北上し、北海道根室市に再上陸した。32都道府県で死者・行方不明者85人。流失家屋143戸、床上浸水1万2271戸、床下浸水3万9766戸[2]。

チャットgpt先生の9月18日のエッセイ

9月18日という日は、歴史的な出来事が数多く重なっている日である。その中でもいくつかの事件や戦闘、災害が特に印象深い。時代を超え、地理を超えて、9月18日は大きな歴史の波に翻弄された人々の物語を思い起こさせる。

まず思い浮かぶのは1828年のシーボルト事件である。江戸時代末期、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトというドイツ人医師が、長崎出島で蘭学を教えながらも、日本地図を国外に持ち出そうとしたために逮捕され、国外追放となった事件だ。当時の日本は鎖国政策をとっており、国防に関わる情報が国外に流れることを厳しく警戒していた。その中で、シーボルトが持ち出そうとしたのは「伊能図」と呼ばれる、日本の沿岸部を精密に描いた地図だった。シーボルト事件は、その後の「蛮社の獄」など蘭学者への弾圧に繋がり、幕府の閉鎖的な体制が崩壊へと向かう一歩となった。

次に、1863年の南北戦争中に起こったチカマウガの戦い。この戦いは西部戦線において北軍が最大の敗北を喫した戦闘である。戦場はアメリカ南部テネシー州とジョージア州にまたがり、激しい戦闘の末に多くの命が失われた。北軍と南軍、それぞれが数万人規模で戦い、負傷者の数も壮絶だった。歴史的に見れば、この戦いは南北戦争の激しい戦況を象徴するものであり、アメリカの分裂と苦悩の一端を感じさせる。

そして1931年、満洲事変の発端となった柳条湖事件。これは日本が中国大陸への侵略を本格化させる契機となった事件であり、瀋陽近郊で起こった南満洲鉄道の爆破事件をきっかけに、日本の関東軍は中国東北部への軍事行動を開始した。この事件は、後に日本が中国全土へ侵攻するきっかけとなり、国際的な非難を浴びることになる。後の歴史を知っている我々にとっては、当時の情勢がどれほど緊張していたか、またその後の大戦への序章となる出来事だったことが理解できる。

1944年には、日本の貨物船順陽丸がイギリス海軍の潜水艦に撃沈され、5,620人という多くの命が失われる悲劇が起きた。この数は当時の海難事故としては世界最大規模のものだった。オランダ人捕虜や労働者が含まれていたという事実が、戦争の残酷さを物語る。歴史の教科書で学ぶような大きな戦闘の影に隠れたこうした悲劇も、戦争の一側面として忘れてはならない。

また、1958年には昭和33年台風第21号が日本を襲い、全国で大規模な被害をもたらした。自然災害の脅威が如何に私たちの生活を一瞬で変えてしまうかを象徴する出来事であり、特に伊豆半島や北海道など、各地で被害が拡大したことが伝えられている。災害に対する備えの重要性を、現代の私たちに問いかける教訓である。

9月18日は、さまざまな時代、場所で、多くの人々が運命に翻弄された日だ。戦争や事件、災害といった出来事は、歴史の一部として記録されるが、その背後には個々の人生があり、私たちがそれを忘れないことが大切だ。