kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月14日  1950仁川上陸作戦開始、ほか写真wikipedia揚陸作戦開始

9月14日

20270914土曜日旧暦8月12日先勝(辛巳かのとみシンビ)月齢 11

甲辰きのえたつ年癸酉みずのととり月辛巳かのとみ日  年末まであと108日

金函玉鏡方位 辛巳かのとみシンビ日 東 大吉最良、南東 大吉、西 吉

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9月14日の出来事

81年 – 前日のティトゥスの死去に伴い弟のドミティアヌスがローマ皇帝に即位[要出典]。

770年(宝亀元年8月21日) – 道鏡が下野国薬師寺別当に配流。

1767年(明和4年8月22日) – 明和事件。江戸幕府によって山県大弐や藤井右門らが処刑される。

1812年 – 1812年ロシア戦役: ナポレオン軍がモスクワに入城。モスクワ火災(英語版)が始まる。

1862年(文久2年8月21日) – 生麦事件。行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。

1862年 – 南北戦争: サウス山の戦い。北軍勝利とされるが苦戦。損害 北軍2万8千人中 戦死傷 2825人 南軍 1万8千人中 2685人。

1943年 – 第二次世界大戦: ヴィアンノスの虐殺(英語版)。日付1943年9月14日-16日

ナチスのクレタ島男性住民の虐殺。兵器        機関銃とライフル 死亡                 500+クレタ島の男性。

1949年 – 小田原一家5人殺害事件: 神奈川県小田原市で18歳の少年が銭湯経営者の一家5人を殺害。死刑確定後に恩赦で無期懲役に減軽されるが、仮出所後の1984年に殺人未遂を再犯。

1950年 – 朝鮮戦争: 北朝鮮軍が釜山周辺を残し朝鮮戦争における最南下線に到達。翌日から仁川上陸作戦で戦線が後退する。年月日:1950年9月15日 - 同年9月26日[1]。損害 国連軍 7万5千人中 4000人弱が戦死傷 北朝鮮軍 12万5千人中 23000人強戦死傷。守勢だった日本含む国連軍が 攻勢に転じた転換点の戦い。

2015年 – 熊谷連続殺人事件。ペルー人による無差別通り魔殺人。日付                 2015年9月14日-9月16日攻撃手段              刺殺 武器                 包丁死亡者             6名(うち5名子供含む女性)。

2018年 – アメリカ合衆国ノースカロライナ州にハリケーン・フローレンスが上陸。16人以上が死亡し、数万戸の住宅に被害が出た[2]。

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81年 – 前日のティトゥスの死去に伴い弟のドミティアヌスがローマ皇帝に即位[要出典]。

ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(ラテン語: Titus Flavius Vespasianus, 39年12月30日 – 81年9月13日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:79年 – 81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。41歳没。

ユダヤ戦争

ティトゥスの凱旋門のレリーフ

67年に父ウェスパシアヌスとユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かう。クァエストル(財務官)となっていたティトゥスは、同地で軍の一指揮官として勤務する。しかし68年にネロが自死、ガルバがローマ皇帝として就任する。この時ティトゥスは、父ウェスパシアヌスの命令で、ガルバに皇帝就任の祝辞を述べるためローマに赴いたが、ガルバ殺害、オト自死、アウルス・ウィテッリウスが皇帝即位と西方の情勢が混乱しているのを知ると、旅程の途中で自らの判断により父の下へ引き返している。そして以降ユダヤ戦争の鎮圧に専念する。このように1年に皇帝が4人も代わるという政権が不安定な「四皇帝の年」に、ティトゥスはシリア属州総督ムキアヌスと共同して父ウェスパシアヌスを支えた。

69年には最初にムキアヌスがウィテッリウスに対する先鋒として、そして次に父ウェスパシアヌスがローマへ皇帝宣言のため赴くと、エルサレム攻略の司令官となり、70年にはエルサレムを占領し、73年まで抵抗を続けたマサダを陥落させユダヤ人の反乱を平定する(ユダヤ戦争)。この時にユダヤ王家の一族に連なるベレニケと恋に落ちた。そしてローマに帰還して凱旋式を挙げる。

皇帝として

執政官7年目となる79年に、死亡した父の後を継いでローマ皇帝となる。ティトゥスが皇帝になった時、親衛隊長時代の残忍な振る舞いや、愛人であったユダヤの王女ベレニケの存在から、人々は彼がネロのようになるのではないかと心配した[2]。しかし、市民の危惧を悟ったティトゥスはベレニケを妻とすることを諦め、そのため逆に市民の同情と支持を得ることになった。また、剣闘士試合を頻繁に開催したり、先帝ウェスパシアヌスを揶揄する喜劇が上演されても一切咎め立てしなかったので、ローマ市民の間でも人気が高かった。元老院との関係も良好で、反逆罪の罪状を使わないと宣言した。ティトゥスは何も良いことをしなかった時には「一日を失ってしまった」と嘆いたと言う。

在位中にヴェスヴィオ火山が噴火し、ナポリ近郊の都市ポンペイが壊滅したほか、ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生した。ティトゥスは精力的に被災地の救済にあたったが、その最中の81年に熱病で死んだ。わずか2年の治世であった。スエトニウスはマラリアでの死、あるいは弟ドミティアヌスによって毒殺された可能性があるとも書いている。

エルサレムをエルサレム神殿もろとも破壊したことからユダヤ人からは憎まれていた。

770年(宝亀元年8月21日) – 道鏡が下野国薬師寺別当に配流。

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? – 宝亀3年4月7日(772年5月13日)以前[1])は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。

道鏡生誕の地である大阪府八尾市で1980年に立ち上げられた市民団体「道鏡を知る会」が、道鏡は悪僧ではなく、仏教の礎を築いた人物として、その業績を見直す活動を行っている。同会は2020年に、称徳天皇が建立した奈良市の西大寺に道鏡の木像を奉納した[5]。2022年、会員数の減少を理由に「道鏡を知る会」は解散したが、顕彰は続いている[6]。

1767年(明和4年8月22日) – 明和事件。江戸幕府によって山県大弐や藤井右門らが処刑される。

明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。

甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を獄門に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。また、小幡藩主の織田家(織田信長の次男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫ということで認められていた国主格の待遇も廃された。

1812年 – 1812年ロシア戦役: ナポレオン軍がモスクワに入城。モスクワ火災(英語版)が始まる。

クトゥーゾフはナポレオンに対する消耗戦の一環としてバルクレーの「遅延作戦」[ 8 ]を継続した後、焦土作戦の一環としてロストプチンを使ってモスクワの資源のほとんどを焼き払った。これはコサックによるフランス軍の補給に対するゲリラ戦、農民によるフランス軍の食料調達に対する総力戦であった[ 9 ] 。このような大規模な戦闘のない戦争は、フランス軍の最も脆弱な部分である軍事補給を弱体化させた[ 10 ]。1812年10月19日、食料が不足し、初雪に警戒したフランス軍は自発的に都市を放棄した[ 11 ] 。

1862年(文久2年8月21日) – 生麦事件。行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。

生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年(1863年)7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。

1862年 – 南北戦争: サウス山の戦い。北軍勝利とされるが苦戦。損害 北軍2万8千人中 戦死傷 2825人 南軍 1万8千人中 2685人。

サウス山の戦い(サウスさんのたたかい、英: Battle of South Mountain、南部の初期文献ではブーンズバラギャップの戦い、英: Battle of Boonsboro Gap)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月14日に行われた戦いである。サウス山の山径3箇所、すなわち、クランプトンギャップ、ターナーギャップおよびフォックスギャップの占有を巡って3つの会戦が行われた。北軍ジョージ・マクレラン少将がポトマック軍を指揮し、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍を追跡するためにこれらの山径を通過する必要があった。リー軍は勢力的には負けていたが、マクレラン軍の進軍を1日遅らせた後に撤退した。

1943年 – 第二次世界大戦: ヴィアンノスの虐殺(英語版)。日付1943年9月14日-16日

ナチスのクレタ島男性住民の虐殺。兵器        機関銃とライフル 死亡                 500+クレタ島の男性。

ヴィアンノスの虐殺(ギリシア語: Σφαγές της Βιάννου / Ολοκαύτωμα της Βιάννου)は、第二次世界大戦中にギリシャのクレタ島の東ヴィアンノス州と西イエラペトラ州の地域に位置する約20の村の民間人住民に対してドイツ軍が開始した大量絶滅作戦である。500人を超える死者を出したこの殺戮は、1943年9月14日から16日にかけてドイツ国防軍部隊によって行われた。彼らはほとんどの村の焼き討ち、略奪、収穫物の破壊を伴いました。[5][6]

人命の損失は、枢軸国によるギリシャ占領中の虐殺の中でも、カラヴリタの虐殺に次ぐ、最も致命的な虐殺の一つであった。これは、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミュラー中将が、クレタ島のレジスタンスに対する地元住民の支援と関与に対する報復として命じたものである。「クレタ島の殺戮者」というニックネームを獲得したミュラーは、戦後、この虐殺や他の虐殺に関与したとして処刑されました。

1949年 – 小田原一家5人殺害事件: 神奈川県小田原市で18歳の少年が銭湯経営者の一家5人を殺害。死刑確定後に恩赦で無期懲役に減軽されるが、仮出所後の1984年に殺人未遂を再犯。

1950年 – 朝鮮戦争: 北朝鮮軍が釜山周辺を残し朝鮮戦争における最南下線に到達。翌日から仁川上陸作戦で戦線が後退する。年月日:1950年9月15日 - 同年9月26日[1]。損害 国連軍 7万5千人中 4000人弱が戦死傷 北朝鮮軍 12万5千人中 23000人強戦死傷。守勢だった日本含む国連軍が 攻勢に転じた転換点の戦い。

概説

1950年6月25日の朝鮮戦争勃発以来、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は南進を続け、韓国軍、アメリカ軍は後退を余儀なくされていた。7月31日にアメリカ第8軍は防御正面を縮小するために西南部戦線の放棄を決定、朝鮮半島東南端の釜山(プサン)周辺のいわゆる釜山橋頭堡(洛東江防衛戦線)に追いつめられていた。

マッカーサーが立案したクロマイト作戦は、ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦であった。この上陸作戦は9月15日に実施され、国連軍は仁川を確保し、続いてソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功した。朝鮮半島南部への大攻勢で疲弊していた北朝鮮軍は補給路を絶たれ、9月23日には全部隊に北緯38度線以北への後退を命令した。戦場離脱に失敗した北朝鮮軍は部隊行動に著しい混乱が起こり、それまで守勢であった国連軍が攻勢に転じることになった。そのため朝鮮戦争前期における重大な転換点の一つであると考えられている。

2015年 – 熊谷連続殺人事件。ペルー人による無差別通り魔殺人。日付                 2015年9月14日-9月16日攻撃手段              刺殺 武器                 包丁死亡者             6名(うち5名子供含む女性)。

事件発生

被害者一覧

第1の事件(14日)

男性(55歳)

女性(53歳)

第2の事件(16日)

女性(84歳)

第3の事件(16日)

女性(41歳)

女児(10歳)

女児(7歳)

出典:[6]

14日夕方、熊谷市見晴町の住宅(上熊谷駅から南に約500m、荒川の河川敷のそば)で男女2名(夫婦)が殺害される(第1の事件)[24][6][25][26][27]。この事件は18時5分ごろに妻の散歩仲間の女性が夫婦宅を訪ねたときに発覚したが、この女性が17時すぎに散歩に誘うメールを送った時は了承する旨の返信があったという[4][28]。夫妻の部屋の壁にはアルファベットのような文字が血で書かれており、警察は犯人が書いた可能性があるとみて調べている[29]。

15日には、警察は13日17時9分ごろの通報者の敷地に侵入した疑いで、男の逮捕状を取っていた。しかし、不審者情報を自治体や教育機関に提供せず、理由について「一般的に住居侵入事案は周知しない」と回答している[20]。

16日、同市石原の自宅(石原駅から北に約400m、第1の事件の現場から北西に約1km)にいた独身女性1名が殺害され(第2の事件。通報は16時23分、警察が発見したのは16時50分)、別の住宅(第2の事件の現場から西方に約80m)にいた母親とその娘の小学生2児の3名が殺害された(第3の事件)。17時14分ごろ、警察官が第3の事件が発生した住宅に第2の事件の聞き込み捜査のため訪問したところ、照明が点いているにもかかわらず応答がないことを不審に思い、周囲を覗いていると17時27分にこの家の2階から両手に包丁を持った男が顔を出した。17時33分ごろ、警察の説得を無視して自殺(両腕を包丁で数回切った後窓から投身)を図り、頭部を強打・骨折し意識不明となったところで警察に身柄を確保され、所持していた包丁2本を押収され、深谷市内の病院へ運ばれた(第3の事件の被害者が発見されたのは、男の身柄が確保された後である)[30][6][31][27][25][10][26]。身柄確保時、男は被害者宅にあった服を着ていた[32]。

2018年 – アメリカ合衆国ノースカロライナ州にハリケーン・フローレンスが上陸。16人以上が死亡し、数万戸の住宅に被害が出た[2]。