kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月10日  1622元和の大殉教、ほか写真wikipedia殉教図

9月10日

20240910火曜日旧暦8月8日先負(丁丑ひのとうし)月齢 7

甲辰きのえたつ年癸酉みずのととり月丁丑ひのとうし日 年末まであと112日

吉方位 南 開門 大吉、南東 休門 吉、東 生門 吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8810%E6%97%A5

9月10日の出来事

1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。

1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)。

火刑25人。斬首30人。

1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。

1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。

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1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。

刀根坂の戦い

13日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。

朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃した。しかし織田方の先手武将達は、あらかじめ下知を受けていたにもかかわらず信長より遅れてしまい後に信長より叱責を受けたが、佐久間信盛がこれに反論を行ったため信長の怒りを買っている。

元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の攻撃を受けて皆殺しにされた。義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上(但し「武将38人、兵3,800人」などと、誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)と言われる死者を出した。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死した。

織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教

元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である[1]。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。

この事件後、江戸幕府による弾圧はさらに強化されていく。

また、平戸オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教や京都の大殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている。

火刑

その内訳は、火刑された者が25名であった。

その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり[3]、彼は数学と科学に精通し、慶長17年(1612年)に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。

斬首

また、残る30人は斬首となった。

斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいた。

1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。損害 英軍 戦死傷130人以上降服300人以上 アメリカ軍 戦死傷100人以上。

1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。

ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。

ドイツ

ドイツ帝国(1871年 – 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ヴァイマル共和政(1919年 – 1933年)に至るまで手斧による死刑と併用されていた。ナチス・ドイツ成立後の1937年にヒトラー直々の命令でギロチンによる処刑に統一され、ギロチンによる処刑への統一以前の1933年からナチス崩壊の1945年にかけては16,500人がギロチンによって処刑され史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら、政治犯も多人数含まれている。

ナチス政権下においては、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。

ナチス崩壊以後西ドイツ成立までもギロチンによる処刑は継続され、1949年に死刑制度が廃止されて同年処刑された強姦殺人犯が最後の執行となった。

東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。

ベルギー

フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。