9月10日
20250910水曜日旧暦7月19日先勝(壬午みずのえうまジンゴ三碧)月齢 17.8
乙巳きのとみ年乙酉きのととり月壬午みずのえうま日 年末まであと112日
吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日 南西 大吉
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9月10日の出来事
1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。
1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)。
火刑25人。斬首30人。
1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。
1858年 – ジョージ・サールが小惑星「55パンドラ」を発見。
1976年 – ザグレブ空中衝突事故。ユーゴスラビア・ザグレブ上空で航空機同士が空中衝突。双方の乗員乗客176人全員死亡。
1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。
2001年 – BSE問題: 日本初の牛海綿状脳症(狂牛病、BSE)に感染した恐れのある乳牛が千葉県で発見されたと農林水産省が発表。21日に感染を確認。
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1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。
刀根坂の戦い
13日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃した。しかし織田方の先手武将達は、あらかじめ下知を受けていたにもかかわらず信長より遅れてしまい後に信長より叱責を受けたが、佐久間信盛がこれに反論を行ったため信長の怒りを買っている。
元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の攻撃を受けて皆殺しにされた。義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上(但し「武将38人、兵3,800人」などと、誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)と言われる死者を出した。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死した。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。
1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)
元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である[1]。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。
この事件後、江戸幕府による弾圧はさらに強化されていく。
また、平戸オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教や京都の大殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている。
火刑
その内訳は、火刑された者が25名であった。
その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり[3]、彼は数学と科学に精通し、慶長17年(1612年)に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。
斬首
また、残る30人は斬首となった。
斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいた。
1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。損害 英軍 戦死傷130人以上降服300人以上 アメリカ軍 戦死傷100人以上。
1858年 – ジョージ・サールが小惑星「55パンドラ」を発見。
1976年 – ザグレブ空中衝突事故。ユーゴスラビア・ザグレブ上空で航空機同士が空中衝突。双方の乗員乗客176人全員死亡。
1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。
ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。
ドイツ
ドイツ帝国(1871年 – 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ヴァイマル共和政(1919年 – 1933年)に至るまで手斧による死刑と併用されていた。ナチス・ドイツ成立後の1937年にヒトラー直々の命令でギロチンによる処刑に統一され、ギロチンによる処刑への統一以前の1933年からナチス崩壊の1945年にかけては16,500人がギロチンによって処刑され史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら、政治犯も多人数含まれている。
ナチス政権下においては、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。
ナチス崩壊以後西ドイツ成立までもギロチンによる処刑は継続され、1949年に死刑制度が廃止されて同年処刑された強姦殺人犯が最後の執行となった。
東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。
ベルギー
フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。
2001年 – BSE問題: 日本初の牛海綿状脳症(狂牛病、BSE)に感染した恐れのある乳牛が千葉県で発見されたと農林水産省が発表。21日に感染を確認。
牛海綿状脳症(うしかいめんじょうのうしょう、英語: Bovine Spongiform Encephalopathy, 略語: BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病(きょうぎゅうびょう, Mad Cow Disease)として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された[1]。
羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病 (CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病 (Creutzfeldt-Jakob disease, CJD) などを総称して伝達性(伝染性)海綿状脳症(Transmissible Spongiform Encephalopathy, TSE)と表記される場合もある。
家畜伝染病予防法によって指定されている監視伝染病の一つ。
症状
この病気を発症した牛は、群れから離れたり痙攣を起こすなど異常な行動を取るようになり、その後、音や接触に対して過敏な反応をするようになる。病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。
原因
イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用代用乳がその原因として疑われている[2]。
ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは立体構造が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。
異常プリオン蛋白は、二次構造や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンにはαヘリックス構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンではβシート構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。
2008年9月11日、アメリカ合衆国農務省(英語略:USDA)動物病センター(英語:National Animal Disease Center/UADC)[3]で研究を行った、カンザス州立大学のユルゲン・リヒト(Jurgen Richt)教授は、BSEの病原体である異常プリオンは、外部から感染しなくとも牛の体内での遺伝子の異変によって作られ、BSEを発症する例につながると発表した。この発表は2006年アラバマ州でBSEを発症した約10歳の雌牛の遺伝子の解析から、異常プリオンを作る異変が初めて見つかったことによる。ヒトでも同様の異変が知られ、クロイツフェルト・ヤコブ病を起こす[4]。
チャットgpt先生の9月10日のエッセイ
9月10日という日をめぐって
9月10日。
旧暦では葉月十九日、月齢は十七夜を過ぎ、満月をわずかに欠いた明るい月が夜空にかかる。年の残りは112日。暦の上では「隠遁日」と記され、南西が吉方とされる日でもある。暦の示す運気や方角の吉凶は、現代人の生活からは遠のいたものに見えるかもしれない。しかし、歴史を振り返ると、この一日が人々の運命を大きく分けた日であったことがいくつも浮かび上がる。
戦国の世、1573年。織田信長が越前の朝倉義景を追撃した「刀根坂の戦い」がこの日にあたる。小谷城陥落を前に退却を余儀なくされた朝倉軍は、2万の兵を擁しながらも戦意を喪失し、撤退戦の中で織田軍の猛攻を受けて壊滅した。斎藤龍興をはじめとする重臣が多数討たれ、義景は辛うじて一乗谷へと逃れたものの、その没落は決定的となった。月齢17.8、満ちた月が空にあった夜に、数千の命が消えていったことを思うと、戦国の無常が胸に迫る。
それから半世紀後の1622年、今度は長崎の地で「元和の大殉教」が起きた。55名のキリシタンが火刑・斬首によって一度に処刑された日である。異国から伝わった信仰を捨てずに処刑場に立った人々の姿は、海外の宣教師を通じて世界にも伝えられた。火に焼かれ、刀に斬られながらも祈りを口にした人々の姿は、同じ「9月10日」に刻まれたもう一つの“追撃戦”とも言える。武器を持たぬ者の犠牲は、戦場とは異なる形で権力の恐怖を物語っている。
時は下って1813年、アメリカとイギリスの戦いでは「エリー湖の戦い」が起きた。海の覇権を誇ってきた英国が初めて全面敗北を喫し、歴史が揺らいだ瞬間である。ここでもまた、勝敗の境は一日で決する。
近代においても、9月10日は人の命を大きく左右する日であった。1976年にはザグレブ上空で航空機同士が衝突し、176人が一瞬にして命を落とした。翌年には、フランスで最後のギロチン処刑が行われた。ギロチンは革命期以来「人道的」として導入された刑具であったが、1977年のこの日を最後に、近代国家フランスは死刑という制度そのものの終焉へと向かうことになる。
そして2001年、日本で初めて牛海綿状脳症(BSE)が確認されたのも9月10日であった。戦も迫害もなくとも、感染症という目に見えぬ“敵”が社会を揺るがすことを私たちは思い知らされた。人間の営みはつねに「死」と隣り合わせであり、その姿は時代によって戦場や宗教弾圧、あるいは病として現れる。
こうして眺めると、9月10日は幾度となく「生と死の分岐点」が記録された日であることがわかる。戦いの末に倒れた武将、信仰を貫いて炎に消えた殉教者、空の事故で失われた命、刃にかけられた罪人、そして病に蝕まれた牛。どの出来事も時代も場所も異なるが、この一日が人間のはかなさを映し出す鏡のように思えてならない。
今日、私たちが9月10日を平穏に過ごせるのは、こうした過去の犠牲の上にある。年の残り112日。月齢17.8の光を眺めながら、歴史に名を刻んだ人々を思い、いまをどう生きるかを考えることは、現代に生きる私たちへの大きな贈り物なのかもしれない。