8月9日
20240809金曜日旧暦7月6日赤口(乙巳きのとみイッシ)月齢 4.6
年末まであと144日
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8月9日の出来事
紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。
損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。
378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。
損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。
1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。
損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。
1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。
1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。
1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。
1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。
1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。
2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。
2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。
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紀元前48年 – ローマ内戦: ファルサルスの会戦。カエサル派と元老院軍の内戦。
損害 死者 カエサル軍 1000人 元老院軍10000人。
ファルサルスの戦い(ファルサルスのたたかい、英: Battle of Pharsalus、伊: Battaglia di Farsalo)は、紀元前48年8月9日に、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派の間で行われた戦いである。なお、地名のラテン語表記(Pharsalus)、古代ギリシア語表記(Φάρσαλος)からパルサルスの戦い、ファルサロスの戦いとも呼ばれる。ローマ内戦中の最大の激戦となった戦闘であり、カエサル派が元老院派を破った結果、カエサルはローマの覇権確立へ大きく前進した。
378年 – ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。ゴート族とローマ軍の戦い。
損害 死者 ゴート軍 僅少 ローマ軍20000(全軍30000兵力中)人。
ハドリアノポリスの戦い(ハドリアノポリスのたたかい、羅: Proelium Hadrianopolitanum)は、378年におこなわれた、ローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘である。この戦いでローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されることになった。英語表記でアドリアノープルの戦いとも称される。
日没前にローマ軍は高官2名、大隊長(500名‐800名を統率[1])35名が戦死し、全軍の3分の2を失う惨敗を喫した。またウァレンス自身も負傷し、臣下に支えられながら逃げ込んだ小屋の中で、皇帝が中にいるとは知らずに火をかけたゴート族によって焼き殺された。
影響
これにより、西ゴート族は武力を保持したままでローマ帝国内に居座ることになった。帝国中央部に侵入を許したため東西ローマの分裂は決定的となり、いよいよ以てローマ帝国の蛮族化が進むことになった。
この戦いでのローマ軍の敗北は文化人にも大きな衝撃を与えた。元ローマ軍人で歴史家のマルケリヌス・アンミアヌスもその一人である。彼はタキトゥス著作以降(ネルウァ帝以降)のローマ史を記述した『歴史』をウァレンス帝の戦死で終えることになる。
1814年 – インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約(英語版)への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。
損害 死者 アメリカ+チェロキー連合軍 僅少 クリーク族 1900(全軍4000中)
クリーク戦争(クリークせんそう、英:Creek War、またはレッド・スティック戦争(レッド・スティックせんそう、Red Stick War)またはクリーク族内戦(クリークぞくないせん、Creek Civil War)、1813年 – 1814年)は、アメリカ合衆国南部でのクリーク族インディアンの内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」である。結果的にはお定まりのインディアンの強制移住と、合衆国によるインディアンからの領土略奪という民族浄化となった。
インディアンをイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがある。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンが、白人社会で一躍名声を上げることになった。
結果
ジャクソン砦条約によってアメリカが奪ったインディアンの領土
1814年8月9日、アンドリュー・ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約(英語版)への調印を強制した。ジャクソンに協力して戦ったクリーク族の酋長たちは抗議したが、結果はアラバマ州の半分とジョージア州の南部にあたるクリーク族の土地93,000km2 をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でもあったが、ジャクソンは協力したクリーク族も反攻したレッド・スティックスも区別せず、両方から土地を奪った[24]。割譲された土地のうち、7,700 km2は戦争中アメリカ軍に協力したチェロキー族が要求した[25]。
レッド・スティックスの反乱を弾圧沈下し、どさくさにまぎれてクリーク族の領土をごっそり奪ったジャクソンは、メキシコ湾岸に力を集めることができた。ジャクソン自身の発案でスペイン領フロリダに侵略し、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した[26]。続いて1815年1月8日、ニューオーリンズの戦いでイギリス軍を破った。ジャクソンはレッド・スティックスが逃げ込んでいたフロリダに再び侵攻して、第一次セミノール戦争を起こした。
インディアンに対する虐殺と領土強奪というこれらの「勝利」の結果として、ジャクソンは白人の間で国民的英雄となり、1829年に第7代アメリカ合衆国大統領に登り詰めた。アメリカ大統領となったジャクソンは「インディアンは白人と共生できない劣等民族である」とアメリカ合衆国議会で演説し、南東部のインディアンをミシシッピ川を越えて西部に移住させる、インディアン移住法を成立させ、大量虐殺と民族浄化を主導した。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、満州、朝鮮、樺太の国境を突破して日本に対する侵略を開始する。
1945年 – 第二次世界大戦: アメリカ軍が長崎市への原子爆弾投下を実施。約7万4千人が死亡。
1945年 – 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の長崎への原爆投下と未明のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。
1953年 – 神奈川県鎌倉市由比ガ浜の海岸に海上保安庁のヘリコプターが墜落。乗員と海水浴客2人が死亡、重軽傷13人[3]。
1961年 – 熊本県の新日本窒素水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[4]。
1969年 – チャールズ・マンソンの信奉者がマンソンの命令により女優シャロン・テートら5人の無差別殺害を実行。
シャロン・テート(Sharon Tate、本名:Sharon Marie Tate、1943年1月24日 – 1969年8月9日)は、アメリカ合衆国の女優。映画監督ロマン・ポランスキーの妻で妊娠中だったが、1969年に自宅で友人たちとともに狂信的なカルト信者らに刺され、26歳で母子ともに亡くなったことで知られる。代表作は『吸血鬼』[1]。
1989年 – 岩手県種市町妻子5人殺害事件。岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に自首。
岩手県種市町妻子5人殺害事件(いわてけんたねいちまち さいしごにんさつがいじけん)は、1989年(平成元年)8月9日朝に岩手県九戸郡種市町(現:洋野町種市)[注 2]の民家で発生した殺人事件[6]。
地元紙『岩手日報』を発行する岩手日報社も、本事件を「岩手の事件史上まれにみる凶行として県民に衝撃を与えた」と評している[28]。
2009年 – 台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。
2018年 – アフガニスタンのガズニー市にて政府軍とターリバーンが大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった[7]。
チャットgpt先生の8月9日のエッセイ
8月9日は、歴史の中で数々の重要な出来事が起きた日です。古代から現代に至るまで、人類の歴史の大きな転換点となる戦い、条約、悲劇的な事件などがこの日に起こりました。それらの出来事を振り返ると、戦争や紛争の悲惨さと人間の弱さ、しかしその中に見える強さも垣間見えます。
紀元前48年、ローマ内戦中のファルサルスの会戦では、カエサル派が元老院派を破り、カエサルのローマ支配が決定的となりました。この戦いは、ローマ帝国の未来を決める重要な出来事でした。カエサル軍は1,000人の損害を出しながらも、元老院軍に10,000人の犠牲を強い、その結果カエサルはローマの覇権を確立しました。この戦いは、ローマの歴史だけでなく、世界史においても重要な分岐点となったのです。
378年のハドリアノポリスの戦いは、ローマ帝国にとって壊滅的な敗北でした。ゴート族との戦いで、ローマ軍は30,000の兵力のうち20,000を失い、皇帝ウァレンスも命を落としました。この戦いにより、ローマ帝国の蛮族化が進み、東西ローマの分裂が決定的となりました。ローマ軍の敗北は、帝国の弱体化を象徴し、その後の歴史に大きな影響を与えました。
1814年、インディアン戦争のクリーク戦争では、クリーク族がアメリカ合衆国に2,300万エーカーの土地を割譲させられました。この条約は、アメリカの領土拡大とインディアンの強制移住の一環として行われました。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソンは、その後大統領となり、インディアン移住法を成立させ、大量のインディアンを移住させました。この出来事は、アメリカの歴史における一つの暗い側面を示しています。
1945年の8月9日、第二次世界大戦中、アメリカ軍が長崎市への原子爆弾を投下しました。約7万4千人が死亡し、この爆撃は戦争の終結を早めるためのものとされましたが、その人道的な影響は計り知れません。この日には、ソビエト連邦が日ソ中立条約に違反して日本に対する侵略を開始し、日本はポツダム宣言を受諾することを決定しました。これらの出来事は、第二次世界大戦の終結に向けた重要な一歩であり、多くの犠牲の上に成り立つ平和のための決断でもありました。
1969年、チャールズ・マンソンの信奉者によるシャロン・テートらの無差別殺害事件は、アメリカ社会に大きな衝撃を与えました。この事件は、狂信的なカルト信者による残虐な行為として知られ、現代社会における狂気と暴力の恐怖を象徴しています。
2009年、台風9号の影響により兵庫県佐用町の佐用川が氾濫し、多くの人命が失われました。この自然災害は、自然の力の前での人間の脆さを改めて認識させるものでした。
2018年のアフガニスタン・ガズニー市での政府軍とターリバーンの大規模な交戦は、戦争の悲惨さとその影響の広がりを示しています。数日間の戦闘で310人以上が死亡し、この地域の人々に多大な苦しみをもたらしました。
8月9日は、戦争や紛争、自然災害など、さまざまな出来事が重なった日です。これらの出来事を振り返ることで、人類が犯してきた過ちや、その中で見える希望と再生の兆しを見つめ直すことができます。そして、私たちは歴史から学び、未来に向けてより良い世界を築くために努力し続ける必要があるのです。