kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月8日  1945条約違反ソ連対日参戦決定、ほかwikipedia樺太進駐8月9日ソ連軍

8月8日

20250808金曜日旧暦6月15日友引(乙酉きのととりキユウ)月齢 14.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月乙酉きのととり日  年末まではあと145日

吉方位 隠遁日 乙酉きのととり日  

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%888%E6%97%A5

8月8日の出来事

1588年 – スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。

1220年 – リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。戦死500人余り。

1864年(元治元年7月7日)- 天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。最終的に天狗党352人斬首。

1911年 – 稗田山崩れ。長野県小谷村の稗田山が大崩壊[1]。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の土砂災害になった。26人死亡。

1921年 – 広島県広島市比治山の陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人[2]。

1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第一次ソロモン海戦。翌日、日本の勝利で終結。損害 日本戦死58人、米国戦死1023人 

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲。354人死亡。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件。64名死亡(100名以上ともされる)

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、日本に宣戦布告する。宣戦から数十分が経過した8月9日未明に満州、朝鮮、樺太でソビエト赤軍が一斉に日ソ国境を突破する。

損害 戦死 日本兵士33000人強 ソ連兵士22000人強

   死亡 日本民間130000人+シベリア抑留死70000人=200000人

   合計日本人死者23万3千人強。

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1588年 – スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。

1220年 – リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。戦死500人余り。

8月8日早朝、サーレマー人とレーネ人の連合軍がリフラ城を包囲した。激しい戦闘のうちに城砦は炎上し、スウェーデン軍は脱出を試みたが、僅かな戦士がデンマーク領だったタリンへ逃れたのを除きほぼ全滅した。カール・ドーヴ、カール・マグヌソンをはじめ500人が戦死し、スウェーデンはエストニアにおける勢力圏を全て失った。

スウェーデンのエストニア進出の試みは、13世紀初頭のデンマーク人やドイツ人らによる北方十字軍の急速な勢力拡大に触発されたものだった。リフラの戦いでの敗北の後、エストニアはドイツ人の聖職者やリヴォニア帯剣騎士団、デンマークによって分割された。スウェーデンが再びエストニアに進出するのは16世紀後半のリヴォニア戦争以降となる。それまでの間、スウェーデンは東方のフィンランドやノヴゴロドへの進出に方針を切り替えた。

1864年(元治元年7月7日)- 天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。最終的に天狗党352人斬首。

1911年 – 稗田山崩れ。長野県小谷村の稗田山が大崩壊[1]。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の土砂災害になった。26人死亡。

1921年 – 広島県広島市比治山の陸軍第5倉庫で火災が発生、無数の小銃弾が飛散する事故となった。死者7人、重軽傷者21人[2]。

1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第一次ソロモン海戦。翌日、日本の勝利で終結。損害 日本戦死58人、米国戦死1023人 

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲。354人死亡。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件。64名死亡(100名以上ともされる)

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、日本に宣戦布告する。宣戦から数十分が経過した8月9日未明に満州、朝鮮、樺太でソビエト赤軍が一斉に日ソ国境を突破する。

損害 戦死 日本兵士33000人強 ソ連兵士22000人強

   死亡 日本民間130000人+シベリア抑留死70000人=200000人

   合計日本人死者23万3千人強。

通化事件、千山事件、葛根廟事件、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件など日本人虐殺事件あり。しかし、これらはある意味生き残りがいた稀有の事例であるともいえる。基本は死人に口なし。

チャットgpt先生の8月8日のエッセイ

8月8日――火と血と記憶の交差点

暦の上では「友引」、暦注では「隠遁日」。表向きは穏やかな吉日とされるこの8月8日は、歴史の中では幾度となく、戦火や悲劇の炎に包まれてきた。空は同じように青く、太陽は変わらず昇っていたはずなのに、この日、人々は何度も絶望と敗北の刻を迎えている。

1588年、スペイン無敵艦隊がイングランドに敗れた日。大国の誇りが砕け、歴史の潮流が変わった。海上にうねる黒煙とともに、ヨーロッパの覇権の座も揺らいだ。1220年のリフラの戦いでは、スウェーデンの夢が炎とともに焼き尽くされ、北方十字軍の一角は地の果てに沈んだ。500の命が散り、帝国の進路は東方へと修正されていく。

日本に目を転じれば、1945年のこの日、終戦目前の空はなおも赤く染まっていた。福山の街は空襲で焼け、筑紫駅の列車は無差別に爆撃され、老若男女が命を落とした。その数は、単なる数字ではない。それぞれに名前があり、家族があり、日常があった。だがこの日、それらは何もかも断ち切られた。

さらには、深夜に鳴り響いたのは、ソ連の宣戦布告という裏切りの銃声だった。日ソ中立条約という紙切れは破られ、赤軍が北からなだれ込み、満洲・朝鮮・樺太は地獄と化す。兵士も民間人も、何万人もの命がなすすべもなく消えていった。その惨状の記録には「虐殺」「抑留」「通化事件」といった言葉が並び、生き残った者の証言だけがかろうじて事実を浮かび上がらせる。だが、声なき多くの犠牲者は、まさに「死人に口なし」。真実の一部は、永遠に闇の中にある。

歴史とは、繰り返すものだという。しかし、それはただの教訓では済まされない。毎年、同じ日付が巡ってくるたびに、我々はその日を生き、忘れ、あるいは思い出そうとする。8月8日は、その記憶の一角を確かに占めるべき日だろう。

災害もまた、この日を容赦しなかった。1911年の稗田山崩れでは、大地が崩れ、命が土砂にのまれた。自然と人間の境界が一瞬で瓦解する、そんな無力さを突きつけられた災厄。そこに軍需倉庫の火災や、空を覆う爆撃機の影が重なれば、8月8日はむしろ“戦と死の記憶”の日とさえ呼べるかもしれない。

しかし、これほど多くの破局と破滅が積み重なった日であっても、空はやがて晴れる。何も知らぬ子どもたちは遊び、大人たちは日常へ戻っていく。それが人間の営みであり、希望のかたちなのかもしれない。

だが忘れてはならない。この日が「平和な一日」となるためには、数えきれない悲劇が礎となっていることを。そして、黙って消えていった命の重みを。

8月8日――それは、時に祝福され、しかし幾度となく血で濡れた、記憶の断層である。