kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月7日  1942ガダルカナルの戦い、ほか写真wikipedia上陸する米海兵隊

8月7日

20250807木曜日旧暦6月14日先勝(戊申つちのえさるボシン)月齢 13.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月戊申つちのえさる日  年末まであと146日

吉方位 隠遁日 戊申つちのえさる日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%887%E6%97%A5

8月7日の出来事

1714年(ユリウス暦7月27日) – 大北方戦争: ハンゲの海戦

戦争:大北方戦争

年月日:1714年8月7日(ユリウス暦7月27日)

場所:バルト海、ハンコ半島沖

結果:ロシアの勝利

損害:ロシア軍 戦死傷466人 スウェーデン軍 戦死傷900人

1819年 – コロンビア独立戦争: ボヤカの戦い。双方死者300名以上。独立派勝利。

1905年 – 長崎県五島列島周辺で、台風の接近に伴い珊瑚採取船が多数沈没。死者219人[4]。

1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: アメリカ軍がガダルカナル島に上陸。ガダルカナルの戦いが始まる。

戦争:太平洋戦争

年月日:1942年8月7日 – 1943年2月7日(約7ヶ月)[2]

場所:ソロモン諸島ガダルカナル島

結果:連合軍の勝利

損害:戦力日本36000対米国70000 損害日本20000死亡 10000撤退 米国7000死亡。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 豊川海軍工廠が空襲され、女子挺身隊員・国民学校児童ら2477人が死亡。

1956年 – カリ爆発。カリ爆発(カリばくはつ)は、1956年8月7日、コロンビアのバジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリで起きた爆発事故。ダイナマイトを積んだ車両が爆発し、1300人以上が死亡、4000人が負傷した。4000人が死亡し、12,000人が負傷したとの説もある。

1962年 – 南武線久地駅 – 津田山駅間の踏切で電車がトラックと衝突、続いて対向電車と二重衝突する事故が発生。乗客ら3人死亡、154人重軽傷[5]。

1998年 – ケニアの首都ナイロビ・タンザニアの首都ダルエスサラームでほぼ同時刻にアメリカ大使館爆破事件が起こる。死亡者             224人(ケニアとタンザニアの合計)[1]

2003年 – 在イラク・ヨルダン大使館で爆弾テロが発生。警察官を含む17名が死亡。

2009年 – 平成21年台風第8号が台湾東部の花蓮に上陸。死者・行方不明者758人、14万戸が浸水し、ほぼ一つの村が失われる50年来で最大の豪雨被害となった。

2020年 – インド南部ケーララ州コジコーデの空港で、乗客乗員191人を乗せたアラブ首長国連邦ドバイ発のエア・インディア・エクスプレス1344便が着陸に失敗。18人が死亡し、100人以上が重軽傷を負った。

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1714年(ユリウス暦7月27日) – 大北方戦争: ハンゲの海戦

戦争:大北方戦争

年月日:1714年8月7日(ユリウス暦7月27日)

場所:バルト海、ハンコ半島沖

結果:ロシアの勝利

損害:ロシア軍 戦死傷466人 スウェーデン軍 戦死傷900人

ハンゲの海戦(ロシア語: Гангутское сражение、スウェーデン語: Slaget vid Hangö)は、1714年8月7日(ユリウス暦7月27日)にバルト海のハンゲ半島(ハンコ半島)沖でスウェーデン海軍とロシア・ツァーリ国海軍との間で行われた海上決戦。この海戦はロシア海軍の最初の勝利で終わることとなり、ロシアがバルト海で勢力を誇るようになる原因となった。

1819年 – コロンビア独立戦争: ボヤカの戦い。双方死者300名以上。独立派勝利。

ボヤカの戦い(ボヤカのたたかい)(La batalla de Boyacá )は、シモン・ボリバルの独立革命軍とスペイン帝国軍との戦いである。独立革命軍の勝利により、ボリーバルの新グラナダ解放運動(英語版)の成功が確実となった。

1905年 – 長崎県五島列島周辺で、台風の接近に伴い珊瑚採取船が多数沈没。死者219人[4]。

1942年 – 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: アメリカ軍がガダルカナル島に上陸。ガダルカナルの戦いが始まる。

戦争:太平洋戦争

年月日:1942年8月7日 – 1943年2月7日(約7ヶ月)[2]

場所:ソロモン諸島ガダルカナル島

結果:連合軍の勝利

損害:戦力日本36000対米国70000 損害日本20000死亡 10000撤退 米国7000死亡。

勝敗の分析

襲撃を受け荷揚げに失敗した輸送船鬼怒川丸

放棄された山月丸と特殊潜航艇(1944年)

消耗

ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされ、実際にこの戦いからアメリカ軍の反攻が始まり、ターニングポイントとなっている[53]。ガダルカナル戦は補給に失敗した日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いである[53]。川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたとする指摘もある。[要出典]

補給失敗の原因として制空権を握れず、じきに制海権も失い、食糧・武器弾薬の海上船舶輸送に困難を来したことがあげられる。拠点であるラバウルからガダルカナル島まで戦闘機は往復8時間という長距離攻撃を強いられ、現場ではわずか15分間の戦闘しかできなかった[53]。ブーゲンビル島のブカやブインなどへの中間飛行場整備も、その当初は必要性が認められず整備が遅れており、着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。[要出典]

物量については、最終的にはアメリカ軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、アメリカ軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重火器や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた(アメリカ軍呼称:「八月危機」)。ヴァンデグリフト少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍は、なすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。しかし、仮に占領に成功していたとしても、その後日本列島から6,000キロメートル以上も離れたガダルカナル島を、アメリカ軍の再反攻を前に、どこまで兵站と補給を維持できたかは、甚だ疑問である。また、もともと米軍自体も占領の維持はおろか最初の占領もできるかどうかも必ずしも確信してはおらず、失敗したときは初めからジャングルに逃げ込んでゲリラ戦闘の形で戦い続けるつもりであったという。[要出典]

一方で、当時の戦争は従来の野戦中心から塹壕要塞戦・都市攻略戦に主眼が移り、大砲は旧来の直射砲から攻城などに便利な曲射砲に主流が移っていた。上陸した日本軍の大砲が従来の直射砲であったのに対し、米軍の大砲配備は曲射砲主体となっていた。ところが、ジャングルでの戦いでは、砲煙のあがったあたりを直接に狙うようなイメージで打ち込める直射砲が圧倒的に有効であった。この点は、ガ島戦の最後まで米軍も改善されることはなかった。

戦後、軍事評論家の伊藤正徳は、「ガダルカナルは、たんなる島の名でない。それは帝国陸軍の墓地の名である。」と批評している[54]。

戦略的影響

制空権・制海権を失ったもののガ島確保を図る日本軍は、物資を補給しようとし続け、いたずらに失敗を重ね、輸送船の損失を増やした。ガ島周辺だけで半年間に30隻の輸送船を失い、米海軍の通商破壊戦もあってラバウル・ニューギニア方面まで含めれば1943年2月までに開戦前の予想をはるかに超える140隻、65.65万トンを失った。戦争維持のために民需用300万トンの船舶維持が必要とみられていたが、この損失により陸海軍は徴用船の民間返却をやめ、さらに81万トンの徴用を要求、民需用船舶は240万トン体制に落ち込み、その結果、物資不足により鋼材の生産量を確保できず、船舶不足→物資不足の負のスパイラルに陥り、もともと輸入の35%を外国船輸送に頼っていた日本は経済破綻・戦争継続不能の事態に陥っていく。[55]

佐藤賢了軍務局長は、ガダルカナル撤退の後に朝日新聞に、米国将校の戦略戦術は乏しく幼稚である、ガダルカナル・ニューギニアの一角に牽制されて、後方の日本軍が堂々たる戦略展開をやっていることに気づいてない、と語って虚勢をはったが、実情は全く逆であった[56]。

情報

→詳細は「コースト・ウォッチャーズ」を参照

本戦闘で連合軍はコースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)を活用した。オーストラリア沿岸監視機関はエリック・フェルドオーストラリア海軍少佐に指揮され、豪北タウンズビルに拠点を置いた。機関の活動はソロモン諸島を構成している約1000の島々で日本軍の活動を監視する上で特に重要であった。多数の人員が沿岸監視任務に参加し、日本軍の後背で作戦した。彼等はオーストラリア海軍の義勇兵(RANVR)として任命された。1942年に、ブーゲンビル島の2人の監視員、リード (Read) とメイスン (Mason) は、日本の艦船と航空機への早期警戒のためアメリカ海軍への無線通報に従事していた。この通報では敵の部隊の数、兵器の型式、速度が報告されている。 監視員の報告によってアメリカ軍は航空機を発進させ、限られた時間内に攻撃任務に従事させることが出来た。ハルゼーは後に「2人の男がガダルカナルを救った」と述べている[57]。

飛行場問題

太平洋正面の戦闘は、制空権獲得のための航空基地獲得戦であり、その造成力が早いか遅いかとその良否とが制空権獲得を左右した。航空基地造成力に関し、日本は前時代的な人間の手による非能率的な方法で、長時日かけて飛行場を造成したが、アメリカ軍は建設機械を全幅に駆使し、数日で滑走路を造成して航空兵力を展開して局地の制空権を獲得していき、それに伴い日本側は陸海において苦戦を強いられ、占領地を奪われていった。ガダルカナル島に2個設営隊、2000人以上を送って1か月にわたって陸上飛行場を造成して滑走路が完成しても、飛行機が来る前にすぐにアメリカ軍に上陸されて取られてしまうといった具合だった[58]。(ヘンダーソン飛行場)

帝国海軍が計画したガダルカナル島の飛行場造成は、それを巡る戦闘でも陸海軍に大きな被害を出す結果になった。軍令部作戦課航空主務参謀の三代辰吉中佐は、ガダルカナルに陸上飛行場の適地はあるが、飛行機を配備するにはまだ不足しているので水上機でやろうと考えており、飛行場の造成に関しては軍令部は知らず、現地部隊の第四艦隊が勝手に始めたものと証言している[59]。しかし、設営隊本隊のガ島上陸の翌7月7日、軍令部作戦課は参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れ、「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」という文書を提示している[60]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 豊川海軍工廠が空襲され、女子挺身隊員・国民学校児童ら2477人が死亡。

1956年 – カリ爆発。カリ爆発(カリばくはつ)は、1956年8月7日、コロンビアのバジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリで起きた爆発事故。ダイナマイトを積んだ車両が爆発し、1300人以上が死亡、4000人が負傷した。4000人が死亡し、12,000人が負傷したとの説もある。

1962年 – 南武線久地駅 – 津田山駅間の踏切で電車がトラックと衝突、続いて対向電車と二重衝突する事故が発生。乗客ら3人死亡、154人重軽傷[5]。

1998年 – ケニアの首都ナイロビ・タンザニアの首都ダルエスサラームでほぼ同時刻にアメリカ大使館爆破事件が起こる。死亡者             224人(ケニアとタンザニアの合計)[1]

2003年 – 在イラク・ヨルダン大使館で爆弾テロが発生。警察官を含む17名が死亡。

2009年 – 平成21年台風第8号が台湾東部の花蓮に上陸。死者・行方不明者758人、14万戸が浸水し、ほぼ一つの村が失われる50年来で最大の豪雨被害となった。

2020年 – インド南部ケーララ州コジコーデの空港で、乗客乗員191人を乗せたアラブ首長国連邦ドバイ発のエア・インディア・エクスプレス1344便が着陸に失敗。18人が死亡し、100人以上が重軽傷を負った。

チャットgpt先生の8月7日のエッセイ


エッセイ:8月7日、影と光のあいだに

暦の上では、8月7日はただの一日。けれども歴史をひもとけば、この日には多くの「戦い」と「災い」、そしてそこに生きる人々の「声」が、幾層にも折り重なっている。

1714年、バルト海の波を裂いて、ロシア帝国の艦隊がスウェーデン軍を破ったハンゲの海戦は、帝国の野望が初めて海に具現化した日だった。国家の力が拡大してゆくその裏で、死傷者の数百という数字は、家族を失った者たちの静かな涙を想像させる。勝者の旗が高く掲げられるとき、その陰には誰かの「喪失」が、決まってある。

やがて時を超えて、1942年の南の島、ガダルカナル。アメリカ軍が上陸したこの日は、太平洋戦争の転換点となり、二万人もの日本兵が命を落とす長い戦いの幕が上がった。補給を断たれ、ジャングルに彷徨った兵士たち。戦略や統計の影に、飢え、病、恐怖、そして「なぜ戦うのか」という根源的な問いが横たわっていた。

そして3年後の1945年、この日、愛知県豊川では、軍需工場を襲った空襲が女子挺身隊や児童ら2,477人の命を奪った。空から降る火の雨が、夢見る少女たちの未来を焼き払った日でもある。戦争の本当の悲劇は、銃を持たない者たちの命が、何の説明もないまま奪われていくことかもしれない。

災害もまた、この日を容赦なく襲った。1905年の五島列島、1956年のカリ爆発、2009年の台湾の豪雨、2020年のインドの航空機事故。自然の猛威と人の技術の失敗は、時代を問わず命をのみ込み、残された者たちは黙って手を合わせることしかできない。

それでも、歴史をこうして振り返ることには意味がある。私たちは過去をただ悼むのではなく、その重みを「知る」ことで、明日を少しだけ優しくしようとする。それが歴史の中に息づく人間の尊厳ではないだろうか。

8月7日は、勝利と敗北、爆音と静寂、喪失と希望が交差する日である。

何気ない夏の日。けれど、耳を澄ませば、遠くの海の波音、ジャングルに響く銃声、崩れた瓦礫の下からの声、そして空を見上げる少女のまなざしが、今もどこかに残っている気がする。

そして私は祈る。
――この日を、未来では「平穏な一日」として記憶できますように。