8月4日
20250804月曜日旧暦6月11日仏滅(乙巳きのとみイッシ)月齢 10.3
乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月乙巳きのとみ日 年末まであと149日
吉方位 隠遁日 乙巳きのとみ日 北東 大吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%884%E6%97%A5
8月4日の出来事
1265年 – 第2次バロン戦争: イーヴシャムの戦い シモン・ド・モンホール軍5000ほぼ全滅。一方的殺戮とされる。ヘンリー3世国王軍とシモンドモンフォール軍の戦い。国王軍は門フォール軍5000の2倍10000。モンフォールは四肢を切り刻まれた。
1578年 – アルカセル・キビールの戦い。ポルトガルがモロッコに敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死。約5倍のスルタン軍に対峙。全滅。戦死20000以上か。
1590年(天正18年7月5日) – 北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
戦争:安土桃山時代
年月日:天正18年(1590年)2月 – 7月
場所:相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏の滅亡。
損害:豊臣軍 15万3千 小田原北条軍8万 対峙。損害不明。
1783年 – 浅間山の天明大噴火が発生。翌日にかけて溶岩流が発生し、噴出物の堆積で洪水が生じるなど関東平野一帯にも甚大な被害をもたらす。死者は1,151人、家屋の損壊は1,000棟以上[2]。
1957年 – 北海道三笠市の新幌内炭鉱で落盤事故。死者6人、重傷者2人[8]。
1957年 – 愛知県瀬戸市で住宅裏の斜面が崩落。死者・行方不明者22人、重傷者8人、住宅9戸と工場1棟が倒壊。
2019年 – アメリカオハイオ州デイトンの繁華街で銃乱射事件が発生。死者9人、負傷者27人。犯人の大学生は現場で射殺された[18]。
2020年 – 2020年ベイルート爆発事故発生[19]。死者218人。
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1265年 – 第2次バロン戦争: イーヴシャムの戦い シモン・ド・モンホール軍5000ほぼ全滅。一方的殺戮とされる。ヘンリー3世国王軍とシモンドモンフォール軍の戦い。国王軍は門フォール軍5000の2倍10000。モンフォールは四肢を切り刻まれた。
イーヴシャムの戦い(Battle of Evesham)は、1265年8月4日にイングランド中南部で行われた戦いで、当時同地域に存在したイングランド王国で13世紀に巻き起こった第二次バロン戦争における主戦の1つである。「シモン・ド・モンフォールの議会」の招集[2]で知られるレスター伯シモン・ド・モンフォールを初めとする男爵たちが、父王ヘンリー3世の軍を率いる王太子エドワード(後の英王エドワード1世)に敗北し、シモン・ド・モンフォールやその子のヘンリー・ド・モンフォールなどは戦死した。イーヴシャム(英語版)はウスターシャー南東部にある地名(現マーケットタウン)である。
ルイスの戦いで王政を掌握したシモン・ド・モンフォールだったが、何人もの近しい味方の離反とルイスの戦いで捕虜にされた[3]エドワード王子の脱走により、次第に守勢に立たされるようになった。イーヴシャムで王党派と戦うこととなったモンフォールは自軍の2倍の規模の軍隊と対峙した。戦いは忽ち大虐殺に転じ、モンフォール自身も殺され、その身体は切り刻まれた。この戦いは、同時代の歴史家ロバート・オブ・グロスター(英語版)はこの顛末を「イーヴシャムの殺人であり戦闘は皆無であった」と評した[4]。
1578年 – アルカセル・キビールの戦い。ポルトガルがモロッコに敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死。約5倍のスルタン軍に対峙。全滅。戦死20000以上か。
アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcácer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という[2]。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。24歳没。
1590年(天正18年7月5日) – 北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
戦争:安土桃山時代
年月日:天正18年(1590年)2月 – 7月
場所:相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏の滅亡。
損害:豊臣軍 15万3千 小田原北条軍8万 対峙。損害不明。
戦後処理
7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。
当初の開城・降伏の条件は
北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
氏直に上洛をさせる。
であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁[注釈 52]に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた[71]。
7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月10日、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。7月11日、城下の医師田村安栖の屋敷にて、石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。氏直は徳川家康の婿でもあったため助命され、高野山に蟄居を命じられた。7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し[73]、8月12日に高野山に入った。蟄居中の氏直はやはり富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して赦免の執り成し依頼を行っている。翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸[注釈 53]を与えられ、8月に1万石が与えられた。しかし、11月に病死した。北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に河内・狭山藩の大名として豊臣・徳川期と存続した。氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された[48]。5日に松田憲秀が、19日に大道寺政繁がそれぞれ切腹している。
一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の成田氏長の小田原城での降伏を受けて氏長名義の使者が送られ、7月16日に開城した。その後、氏長の娘の甲斐姫が秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に下野国烏山2万石が与えられた。深谷上杉氏の本拠であった深谷城は、当主の上杉氏憲が北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮した秋元長朝らが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、関ヶ原の戦いで上杉景勝の投降を促した功により大名となり、後に子孫から老中(秋元凉朝)を輩出した。北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代に譜代大名になった唯一の事例である。7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党や平山氏らが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。
7月13日、秀吉が小田原城に入った。この日、徳川氏の関東転封が公表された。ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣の松平家忠の日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。また、国替えの準備のために、徳川家康は家忠に本国へ一旦帰還するよう命じている。7月初頭は豊臣氏からの所々への発給文書が多いが、7月半ばごろより徳川氏発給の書状が残る。また同時期に、榊原康政や鳥居元忠らの一部の家臣には知行が申し渡されている。ただしこの時期の徳川氏の関東経営には、いまだ秀吉陣営の幕僚の手が多く加わっている。さらに徳川家臣の井伊直政や本多忠勝のそれぞれの配地の割り当てにすら、秀吉の意見が大きく関与していたと推測される書状が残る。
7月18日[注釈 54]には徳川家康が江戸城に入り、9月までには家臣らに知行が割り当てられている。8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったたが、徳川は後述される織田信雄改易の執り成しのために、7月末に宇都宮に参陣しているため、1日に戻ってきたと考えられる。伊豆国に関しては4月中に徳川氏に与えられている。
後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなった。空いた徳川旧領(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国一部など)への国替えを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたため改易され下野国烏山城に蟄居させられた。この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉、という実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。また前述の秀吉の裁定で、真田氏が北条氏に譲っていた上野国沼田城は真田に返還された。秀吉の怒りを買った里見義康は、徳川家康が執り成したこともあり、安房国一国は安堵されたが、上総国の所領は没収されて徳川氏に与えられた。
常陸国は一国が佐竹義宣に与えられた。この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部の江戸重通や大掾清幹を滅ぼし、さらに天正19年(1591年)2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。ただし徳川氏と同様に、領内の知行割には豊臣政権の干渉があり、豊臣政権に近しかった佐竹義久に多くの所領が与えられた。
上野国の沼田城は、本来ここを北条氏と争っていた真田昌幸に与えられたが、沼田領は昌幸の長男の信幸が半独立での城主とされ、同時に徳川氏の与力大名とされた。
7月16日、秀吉は小田原城を出発した。[45]秀吉はその後、奥州を平定した源頼朝に倣って、鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り鶴岡八幡宮に奉幣した。
19日に江戸城着、20日に出発。7月26日、同じく頼朝に倣って宇都宮大明神に奉幣して宇都宮城へ入城し1週間ほど滞在、関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上し陸奥国へ向かった。
8月中の奥州仕置を終え、8月12日に会津黒川城を発した秀吉は、駿河国清見寺、22日に駿府城、掛川城、清州城などを経て畿内に向かった。
9月1日、天下を手にした豊臣秀吉は京に帰還した。[74]
1783年 – 浅間山の天明大噴火が発生。翌日にかけて溶岩流が発生し、噴出物の堆積で洪水が生じるなど関東平野一帯にも甚大な被害をもたらす。死者は1,151人、家屋の損壊は1,000棟以上[2]。
1957年 – 北海道三笠市の新幌内炭鉱で落盤事故。死者6人、重傷者2人[8]。
1957年 – 愛知県瀬戸市で住宅裏の斜面が崩落。死者・行方不明者22人、重傷者8人、住宅9戸と工場1棟が倒壊。
2019年 – アメリカオハイオ州デイトンの繁華街で銃乱射事件が発生。死者9人、負傷者27人。犯人の大学生は現場で射殺された[18]。
2020年 – 2020年ベイルート爆発事故発生[19]。死者218人。
ベイルート港爆発事故(ベイルートこうばくはつじこ、阿: 2020 انفجار بيروت)は、2020年8月4日18時頃(現地時間)に、レバノンの首都ベイルートにあるベイルート港で発生した爆発事故[1][2][3]。
この爆発により都市の半分以上が被害を受け、218人が死亡、7,000人以上が負傷し、最大で30万人が家を破壊されて住む場所を失った[4][5]。レバノン総合治安局長は、「今回の主な爆発は、政府によって没収され、過去6年間港に保管されていた約2750トンの硝酸アンモニウムと関連している」と述べた[6]。
チャットgpt先生の8月4日のエッセイ
8月4日という日:勝者なき戦いの記憶と、祈り
8月4日。カレンダーに刻まれた何気ない夏の一日でありながら、この日は歴史上、戦火と災禍、そして人間の欲と弱さの結晶のような出来事が幾度となく繰り返されてきた。語り継がれる事件の数々は、時代も場所も異なるが、そこに共通するのは、勝者なき「破壊」の風景だ。
1265年のイングランド、イーヴシャムの戦いでは、理想に燃えた改革者シモン・ド・モンフォールが、王政復古の炎に飲み込まれ、屍と化した。自らが築いた議会制度の萌芽は、武力と裏切りの渦の中で彼自身を葬った。ロバート・オブ・グロスターの言葉「これは戦闘ではなく殺人であった」は、戦争の残酷な本質をこれ以上ないほどに突いている。
その約300年後、1578年のモロッコ、アルカセル・キビールでは、若きポルトガル王セバスティアン1世が信仰と名誉を掲げて戦場に赴いたが、彼を待っていたのは圧倒的な死だった。数に劣るポルトガル軍は全滅し、王もまた24歳の若さで命を落とした。帝国の夢を抱いた王の死は、むしろ国の衰退の引き金となり、ポルトガルはスペインの支配下へと沈んでいった。
そして日本、1590年。小田原の城門が開き、北条氏直が頭を垂れたそのとき、豊臣秀吉の天下が確定した。だが、これもまた勝者だけが栄えた戦ではなかった。氏政・氏照の切腹、重臣の自害、民の苦難。その裏には、徳川家康の関東進出や、旧敵が次なる時代の礎を築いていく皮肉な展開があった。個々の命運が政治のうねりに翻弄される姿は、今も色褪せず、私たちの記憶に問いかける。
8月4日はまた、自然の怒りもその姿をあらわにした。1783年の浅間山大噴火。大地の裂け目から吐き出された火と煙は、1,000人以上の命と無数の生活を奪った。現代に近づくと、1957年には三笠市の炭鉱、瀬戸市の斜面崩壊という小さな町での悲劇が、日常の脆さを示した。そして、2020年、ベイルートの空を裂いた爆発は、都市を一瞬にして瓦礫の海に変え、200人以上の命を奪った。2750トンの硝酸アンモニウム——それは「無策」と「放置」の象徴だった。
8月4日は、まるで歴史が人間に問うような日だ。
「何を学び、何を繰り返すのか?」と。
戦いも、災害も、あるいは人災も、人間の選択と無知、傲慢、恐れによって起きてきた。そのたびに人は「もう繰り返さない」と誓いながら、その誓いを曖昧な風に流してきた。
しかし、だからこそ私たちは8月4日を覚えておくべきなのだ。戦で引き裂かれた未来、噴火や爆発で失われた日常——それらが織りなすこの1日は、平和を願う日であり、人間の「手の内にある力」の重さを噛みしめる日でもある。
勝者がいないなら、せめて、記憶する者がいなければならない。
そうしてこそ、歴史の犠牲者たちは、真に報われるのかもしれない。