kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月30日 1995ボスニアヘルツェゴビナ空爆開始、ほか写真wikipedia廃墟のサラエボ国立図書館

8月30日

20240830金曜日旧暦7月27日先負(丙寅ひのえとらヘイイン)月齢 25.6

甲辰きのえたつ年壬申みずのえさる月丙寅ひのえとら日 年末まであと123日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8830%E6%97%A5

8月30日の出来事

1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。

1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

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1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

グロース=イェーゲルスドルフの戦い(グロース=イェーゲルスドルフのたたかい、英語: Battle of Gross-Jägersdorf)は七年戦争中の1757年8月30日、ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン(英語版)陸軍元帥率いる多数のロシア軍がハンス・フォン・レーヴァルト(英語版)陸軍元帥率いる少数のプロイセン軍に勝利した戦闘。戦術的勝利にもかかわらず、アプラクシンはケーニヒスベルクに進軍せず、戦闘が終わるとすぐに撤退した[2]。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

戦いの後と近代の歴史

ミムズ砦史跡

アメリカ合衆国国家歴史登録財

ミムズ砦でのレッド・スティックスの勝利が、アメリカ合衆国南東部のフロンティア全体に恐慌を広げ、開拓者たちは政府の行動を要求し、逃亡した。戦闘後の数週間で、テンソーとトンビッグビー地区人口の約半分にあたる数千人がその開拓地を遁れてモービルに向かい、500人しかいなかったモービルは彼らを迎えるのに苦闘した[26]。レッド・スティックスの勝利はインディアンによる最大級の成果であり[27]、この虐殺は、クリーク族内の内戦から、アメリカ合衆国とアッパー・クリーク族のレッド・スティックス戦士の間の戦争に変わったことを意味した[28]。

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

リッチモンドの戦い(リッチモンドのたたかい、英:Battle of Richmond)は、南北戦争中盤の1862年8月29日から8月30日に、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の一部として、ケンタッキー州リッチモンド郊外、現在ではブルーグラス陸軍補給庫となっている場所周辺で行われた戦闘である。この戦闘は、南北戦争の中で南軍による最も完璧な勝利と言われることがある。

南北戦争の歴史家シェルビー・フットはスミスが「この戦争全体でも北軍と南軍のどの将軍が成し遂げたよりもカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅したカンナエの戦いに匹敵するものをケンタッキー州で成し遂げた」と記した[2]。

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア ヘルツェゴビナふんそう、セルビア・クロアチア語:Рат у Босни и Херцеговини/Rat u Bosni i Hercegovini)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦で、ボスニア紛争[1]、ボスニア戦争(英: Bosnian War)ともいう。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

民族浄化

詳細は「民族浄化」を参照

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。

手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。

従軍可能年齢にある男性は各地で虐殺や強制収容の対象とされた。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

アフガニスタン紛争

アフガニスタン紛争(パシュトー語: د افغانستان کورنۍ جګړه‎)とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。

結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し[21]、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された[22]。

また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した[23]。

しかしその後、同国の治安は極端に悪化し[24]、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され[25]、米軍は撤退[26]。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した[27]事で終結した。

この紛争は、ベトナム戦争(1955年 – 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった[28]。

チャットgpt先生の8月30日のエッセイ

8月30日は、歴史の中で多くの戦いと事件が刻まれた日です。それぞれの出来事が異なる時代や地域で起こり、背景や結果もさまざまですが、人類が繰り返してきた戦争や暴力の影を浮き彫りにしています。

まず、1363年の鄱陽湖の戦いは、中国の歴史において極めて重要な転機でした。この湖上戦で朱元璋が勝利し、明朝の建国へと大きく近づきました。陳友諒との激しい戦いは、明朝を支える力強い基盤を築き上げる一方で、数えきれないほどの命が失われたことも忘れてはなりません。20万の兵士を擁する朱元璋軍でさえ、7,000人の戦死者を出し、60万の陳友諒軍は壊滅的な敗北を喫しました。

続く1757年のグロース=イェーゲルスドルフの戦いでは、七年戦争の一幕が描かれました。ロシアとプロイセンの衝突は、戦術的勝利を収めたロシア軍が進軍を控えるという意外な結末を迎えます。25,000のプロイセン軍が5,000の損害を受ける中、75,000のロシア軍も5,400の損害を出しましたが、その勝利が完全なものとはならなかったのです。

アメリカでは、1813年のクリーク戦争の中でミムズ砦虐殺が起こり、クリーク族インディアンと白人住民の間に深い亀裂が生まれました。この事件は、アメリカ南東部全体に恐慌をもたらし、先住民と入植者との対立がさらに激化するきっかけとなりました。

南北戦争中の1862年、リッチモンドの戦いでは南軍が北軍を圧倒的に打ち負かしました。この戦いは南軍の「完勝」とされ、戦争全体においても最も劇的な勝利の一つとして語り継がれています。

さらに時代が進むと、1974年には日本で三菱重工爆破事件が発生し、テロによる大規模な被害がもたらされました。8人が死亡し、376人が負傷したこの事件は、日本社会に大きな衝撃を与えました。

また、1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるNATOによる空爆は、第二次世界大戦以降ヨーロッパ最大規模の空爆として歴史に刻まれ、現代の紛争における戦略の一端を垣間見ることができます。20万人以上の死傷者と200万人の難民が発生したこの内戦は、ヨーロッパの民族対立と国際介入の複雑さを象徴しています。

そして2021年、アフガニスタンからの米軍完全撤退が行われ、20年に及ぶ戦争が終結しました。この戦争はアメリカ史上最長の紛争となり、米国の国際的な威信にも大きな影響を与えました。タリバーンの勝利とアメリカの撤退は、国際社会に新たな波紋を広げ、現代の地政学的な課題を浮き彫りにしています。

8月30日は、戦いと暴力が繰り返されてきた日として記憶されるべきでしょう。その歴史を振り返ることで、私たちは過去の教訓を胸に、未来に向けた平和と和解の道を模索する責任があることを再認識するのです。