kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月3日 435ネストリウス国外追放される、ほか写真wikipediaエフェソス公会議

8月3日

20250803日曜日旧暦6月10日先負(甲辰きのえたつコウシン)月齢 9.3

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月甲辰きのえたつ日 年末まであと150日

吉方位 隠遁日 甲辰きのえたつ日 東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%883%E6%97%A5

8月3日の出来事

435年 – エフェソス公会議で異端とされたネストリウスに対し、東ローマ皇帝テオドシウス2世が国外追放を命ずる。ネストリウスはエジプトへ移る。

1347年 – 百年戦争: カレー包囲戦が終結。カレー開城の際、6人の市民代表が人質となり他の市民を救う。

戦争:百年戦争

年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日

場所:フランス、カレー

結果:イングランド軍の勝利

1492年 – クリストファー・コロンブスがスペインから1回目の西方への航海に出発。

1916年 – 第一次世界大戦: ロマニの戦いが始まる。

戦争:第一次世界大戦

年月日:1916年8月3日から5日

場所:シナイ半島

結果:連合軍の勝利

損害:イギリス軍 1万人中 1000人戦死 オスマン帝国軍 18千人中 9200人戦死。

1957年 – 米軍機母子殺傷事件。1957年8月2日に茨城県でアメリカ軍機が日本人親子を死傷させた事件である。ゴードン事件ともいう[1][2]。

アメリカ側は不可抗力による事故であると主張したが、日本側の地方自治体側は操縦者による悪戯が原因であると主張し真っ向から対立した。

1975年 – パリ発イモヴセール行きのロイヤル・ヨルダン航空のチャーター便ボーイング707型機が着陸進入中にアガディール近郊に墜落、乗員乗客188名全員が死亡。(en:1975 Agadir Morocco Air Disaster)

2019年 – アメリカテキサス州にてエルパソ銃乱射事件が発生[6]。20人以上が死亡。

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435年 – エフェソス公会議で異端とされたネストリウスに対し、東ローマ皇帝テオドシウス2世が国外追放を命ずる。ネストリウスはエジプトへ移る。

概説

4世紀から5世紀に入るとキリスト論の議論はアレクサンドリア総主教(総大司教)キュリロスとコンスタンティノポリス大主教ネストリオスの論争が中心になっていた。キリスト教を二分したこの論争はそもそもキリスト論をめぐって対立していたアレクサンドリア学派とアンティオキア学派の対立を源とする根の深いものであった。

ネストリオスはアリウス主義(キリストの神性否定)およびアポリナリオス主義(キリストは人間の霊を持たず神の霊しか持たない)に論駁するため、イエス・キリストの人間性と神性とを完全に独立した二つの自立存在(ヒュポスタシス)として並存していたと考えていた。ネストリオスはこの思想の表現としてマリアを「神の母」(ギリシャ語:テオトコス)というより「キリストの母」(ギリシャ語:クリストトコス)と呼ぶ方がふさわしいと主張していた。このネストリオスの教説はテオドトスの養子論と酷似していたとも評価されている[1][要ページ番号]。これに対しキュリロスは、キリストは唯一の自立存在であると強く反対した。何故なら、自立存在が本性ではなく位格側に存するのは、サベリオス主義を排斥した第1コンスタンティノポリス公会議[2]で教理確定していたためである。また、「言(ロゴス)」や「御子」のような神性を表す名詞の主語と人性を表す述語からなる命題が聖書や典礼文にも存在し、このことに関しても言及した。これをテオトコス論争という。

1347年 – 百年戦争: カレー包囲戦が終結。カレー開城の際、6人の市民代表が人質となり他の市民を救う。

戦争:百年戦争

年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日

場所:フランス、カレー

結果:イングランド軍の勝利

カレー市民

フランス側では、カレー開城の際に6人の市民代表がエドワード3世の元に出頭して市民を救ったという以下のような話が広く知られており、ロダンはこれを元に彫像「カレーの市民」を作成し、現在もカレー市内に設置されている。ただし、イングランド側では、騎士道を重んじたエドワード3世が市民を全員処刑するつもりだったというのは在り得ない話だと否定的である。

カレーが飢餓により開城を申し出た時、エドワード3世は、これ程に抵抗してイングランドを苦しめた罰として、全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由とする無条件降伏を要求した。しかし、交渉に当たったウィリアム・マーニーなどの忠告により、市民を助ける代わりに主要な6人の市民が代表として、無帽、裸足で首に処刑のためのロープをまいて出頭するよう命じた。これを受けて、ユスターシュ・サンピエールを始めとした6人の市民が勇敢に名乗りを上げ、指示された通りの装いで城門の鍵を持って王の元に現れた。王は彼らの処刑を命じたが、王妃フィリッパの涙ながらの取り成しにより、彼らの命を助けた。フィリッパは彼らを丁重にもてなしカレーに帰らせた。

1492年 – クリストファー・コロンブスがスペインから1回目の西方への航海に出発。

1916年 – 第一次世界大戦: ロマニの戦いが始まる。

戦争:第一次世界大戦

年月日:1916年8月3日から5日

場所:シナイ半島

結果:連合軍の勝利

損害:イギリス軍 1万人中 1000人戦死 オスマン帝国軍 18千人中 9200人戦死。

ロマーニの戦い(ロマーニのたたかい、英語: Battle of Romani、もしくはロマニの戦い)は、第一次世界大戦中の1916年に起こった、オスマン帝国とイギリスとの戦いである。エジプトのシナイ半島の地中海沿岸、スエズ運河から23マイル東にあるロマーニの町の付近で行われた。

1916年8月3日夜、パレスチナ南部から進撃してきたフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン率いるオスマン帝国軍は、ロマーニでイギリス軍守備隊を攻撃した。ロマーニは北からシナイ半島を横切ってスエズ運河へ向かうルートにあり、運河の北側からの出入りを支配する戦略的に重要な土地であった。

5日まで続いた戦闘の結果、イギリス軍の堅い守りによってオスマン軍は撃退された。そして、この後は連合軍が攻勢に出てオスマン軍はシリアまで後退させられていった。

1957年 – 米軍機母子殺傷事件。1957年8月2日に茨城県でアメリカ軍機が日本人親子を死傷させた事件である。ゴードン事件ともいう[1][2]。

アメリカ側は不可抗力による事故であると主張したが、日本側の地方自治体側は操縦者による悪戯が原因であると主張し真っ向から対立した。

事件の概略

当時茨城県にあったアメリカ軍水戸対地射爆場(現・ひたちなか地区)から離陸したL-22連絡機が上昇せず、滑走路東端から500mはなれた道路を自転車で走行していた親子に機体が接触し、母親(当時63歳)は胴体を切断され即死、息子(当時24歳)も腹部に重傷を負った[3][4]。

この異常な離陸についてアメリカ軍側は異常高温による熱気流が原因の不可抗力による事故であるとした。しかし、地元ではアメリカ軍のパイロットがわざと低空飛行を行い通行人を驚かしていたことが度々あったと主張し、今回の事件は同様なイタズラをしようとして不幸な結果を招いたとしていた。

幕引き

しかし、この事件は8月21日に中尉がアメリカ軍の公務中に起きたものであるとして、日米行政協定により日本側の第一次裁判権が放棄され捜査も終了した。また日本政府が東京調達局を通じて遺族側に432,044円を補償すると通知し、遺族側も了承したとして事態を収拾した[4]。

1975年 – パリ発イモヴセール行きのロイヤル・ヨルダン航空のチャーター便ボーイング707型機が着陸進入中にアガディール近郊に墜落、乗員乗客188名全員が死亡。(en:1975 Agadir Morocco Air Disaster)

2019年 – アメリカテキサス州にてエルパソ銃乱射事件が発生[6]。20人以上が死亡。

概要

発生場所は、エルパソ国際空港の南側にあるショッピングセンター街「シエロ・ヴィスタ・モール」にあるウォルマート店舗内。イヤーマフをはめAK-47シリーズの自動小銃(ルーマニア製のWASR10)を構えた男が店舗の入口から侵入し、買い物客らに銃を向けて乱射。店内は、学校の新学期に向けた買い物をする客で満員だったため被害が拡大。23人が死亡し数十人が負傷した。

通報を受けた警察は実行犯を逮捕。犯人は、エルパソから1,000キロメートル離れたダラス近郊アレン市在住の20代の白人男性であった[3][4][5]。また犯行直前には匿名掲示板の8chanに「マニフェスト」と題する予告声明を出していたことが判明している。

チャットgpt先生の8月3日のエッセイ

8月3日──歴史の岐路に立つ日

8月3日という日は、時代と地域を超えて「分岐点」となる出来事が幾度となく起こった日である。宗教論争が宗派の運命を変え、戦争が都市の運命を左右し、探検が世界の認識を刷新し、時には人為的な悲劇が人命と正義のあり方に深い問いを投げかけてきた。そのような歴史の節目を一つずつ見ていくと、8月3日という一日は、驚くほど多面的な意味を持って我々の前に現れてくる。

最も古い記録の一つは、西暦435年のエフェソス公会議に端を発する。ネストリウスが異端とされ、東ローマ皇帝テオドシウス2世によって国外追放されたこの出来事は、単なる宗教指導者の失脚ではない。キリスト教世界を二分した「テオトコス論争」──つまり、マリアは「神の母」か「キリストの母」かという問いは、キリストの本質をめぐる議論であり、神と人間の関係性、信仰の本質、教義の統一を巡る激しい攻防だった。エジプトに流されたネストリウスの思想はやがて東方に伝わり、ペルシャやインド、中国にも影響を及ぼす。「異端」とされた思想が、別の地で命脈を保ち新たな発展を遂げた例として、宗教思想の多様性と歴史のアイロニーを象徴する出来事である。

一方で1347年、百年戦争においてフランス北部の都市カレーがついにイングランド軍に降伏した日でもある。この包囲戦は約11か月に及び、市民は極度の飢餓に苦しめられた。その末に6人の市民が自ら人質として命を差し出し、他の市民を救ったという逸話は、近代に至るまで「市民の勇気と犠牲の象徴」として語り継がれてきた。オーギュスト・ロダンの彫像《カレーの市民》はその感動を視覚芸術に昇華させ、今日もなお訪れる人々の胸を打つ。だが同時に、勝者の寛容(あるいはその演出)が市民の命を救ったというエピソードには、戦争と人間性、政治と感情が交錯する複雑さが垣間見える。

さらに、1492年8月3日は、新たな「世界」の夜明けとも言える日だ。クリストファー・コロンブスがスペインを出航し、第一回の西方航海へと旅立ったのである。この出航は、大航海時代の幕開けであり、ヨーロッパ中心の世界観が急激に拡張するきっかけとなった。だがその一方で、それは先住民にとっての悲劇の始まりでもあった。文明の発展と支配、好奇心と略奪、信仰と征服といった、人間の持つ矛盾がこの航海に凝縮されている。

そして20世紀、21世紀においても、8月3日は数々の悲劇の記憶を刻んでいる。1916年の第一次世界大戦「ロマーニの戦い」では、スエズ運河を巡る死闘が展開され、英軍とオスマン帝国軍双方に甚大な損害をもたらした。戦略上の要衝を巡るこの戦いは、戦争が「地形」と「補給路」をめぐる争いでもあることを如実に示している。

1957年には、茨城県でアメリカ軍機が日本人親子を死傷させた「ゴードン事件」が発生。米軍側は不可抗力を主張したが、地元では度重なる低空飛行による「悪戯」が問題視されていた。結果的に日米行政協定によって加害者は米軍の裁量下に置かれ、日本の司法は手を出せなかった。この事件は、戦後日本の主権の限界を象徴するものであり、基地問題や日米地位協定に関する議論が今なお続いている理由を浮き彫りにする。

2019年には、アメリカ・テキサス州エルパソで白人至上主義に影響された銃乱射事件が発生。23人が命を落としたこの事件は、差別と憎悪、銃規制の脆弱性、そしてインターネット上の過激思想の拡散といった、現代社会の脅威を象徴する。

こうして振り返ると、8月3日は、希望と破滅、信仰と分裂、英雄と犠牲、進出と侵略、そして正義と無力の境界に立たされる一日であるように思える。
それはまさに、歴史が日常のただ中で動き、個々の人間の選択が未来のかたちを決めていく「重さ」を体現した日なのだ。

私たちが生きる今日もまた、過去と地続きである。8月3日をただの一日として過ごすか、それともその中に宿る無数の物語に耳を傾けるか。選ぶのは、私たち一人ひとりである。