kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月29日 1756欧州7年戦争勃発、ほか写真wikipediaフリードリヒ2世と士官たち

8月29日

20240829木曜日旧暦7月26日友引(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 24.6

甲辰きのえたつ年壬申みずのえさる月乙丑きのとうし日 年末まであと124日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8829%E6%97%A5

8月29日の出来事

1350年 – 百年戦争: ウィンチェルシーの海戦。イングランド王国50隻対カスティリヤ王国40隻の激突。損害 イングランド2隻沈没 カスティリヤ26隻拿捕喪失

1359年(延文4年/正平14年8月6日) – 筑後川の戦い。南北朝時代の九州合戦。南朝4万対北朝6万。損害 南朝1800人 北朝3600人。

1521年 – ベオグラード包囲戦が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。屠城甚大と思われるが損害不明。

1526年 – オスマン=ハンガリー戦争: モハーチの戦い。オスマントルコ6万対ハンガリー3万の激突。損害 オンスマントルコ2000人 ハンガリー20000人

1741年(寛保元年7月19日) – 渡島大島・寛保岳噴火に伴っての津波が発生(寛保津波)。対岸を中心に1,467人の死者を出す。

1756年 – プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻し、七年戦争が勃発。18世紀の実質世界大戦である。1756~1763 イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。7年での損害 1,358,000人戦死。

1911年 – 東京朝日新聞が「野球と其害毒」連載を開始、9月22日まで22回に渡って野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開する。

1914年 – 静岡県に台風被害。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害[3]。

1944年 – 第二次世界大戦: スロバキアでナチス支配に反対するスロバキア民衆蜂起が始まる。ドイツ軍5万対スロバキア軍7万の激突。損害 ドイツ戦死捕虜4500+戦傷5000=死傷10000人 スロバキア軍戦死1700+戦傷3600+捕虜10000=15000死傷

1960年 – 前日、高知県に上陸した昭和35年台風第16号により京阪神地方が集中豪雨。西宮市の芦有ドライブウェイ建設現場では、土砂崩れが発生して作業員24人死亡するなどの被害[5]。

2003年 – イラクでナジャフ・モスク爆破事件。死者125名、負傷者500名[10]。

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1350年 – 百年戦争: ウィンチェルシーの海戦。イングランド王国50隻対カスティリヤ王国40隻の激突。損害 イングランド2隻沈没 カスティリヤ26隻拿捕喪失

戦闘

1350年8月10日、エドワード3世はカスティーリャ艦隊を帰国途上で攻撃するように号令をかけ、麾下の艦隊をウィンチェルシーに集結させた。エドワード3世は21歳のエドワード黒太子らを連れて陸路でウィンチェルシーに向かうと、28日にコグ船の旗艦「トマス号」に乗り込んだ。イングランド艦隊は投錨したままカスティーリャ艦隊の出現を待った。一方のラ・セルダは、沖合を進めばイングランド艦隊との接触を避けることもできたであろうが、敵艦隊との遭遇を予測しつつ沿岸を進んだ。艦隊の中核をなす40隻の大型艦があるためイングランド艦隊より優位に立てると考えていたし、更にはフランドルの港で石弓兵を中心とする傭兵団も雇い入れていた。29日午後4時、カスティーリャ艦隊は東からの風を背に受けてイングランド艦隊の前に大胆に姿を現し、戦闘が始まった。

当時の海戦の定石通り、両艦隊はお互いの艦船をぶつけ合って船上の白兵戦が始まった。[3]エドワード3世が乗る旗艦もカスティーリャ艦の体当たりを受けてたちまち海底に沈み、王や近衛兵はかろうじて体当たりしてきた敵艦に乗り移って難を逃れたという。ラ・セルダがフランドルで雇ってきた石弓兵は威力を発揮し、カスティーリャの大型艦から高さを生かして降り注ぐ攻撃はイングランド軍に大損害を与えた。しかし白兵戦となるとイングランド側に軍配が上がり、イングランド兵は乗り移ったカスティーリャのガレー船を次々と占拠していった。日没まで戦闘は続き、カスティーリャ艦隊は大半が拿捕されラ・セルダは戦場から離脱した。イングランド艦隊も、エドワード3世とエドワード黒太子の乗艦が共に沈められるなど損害は大きく、敗走するカスティーリャ艦隊への追跡は行われなかった。[4]

1359年(延文4年/正平14年8月6日) – 筑後川の戦い。南北朝時代の九州合戦。南朝4万対北朝6万。損害 南朝1800人 北朝3600人。

筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は南北朝時代の正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)に筑後川を境にしての南朝と北朝の戦。大保原の戦い・大原合戦とも言う。

南北朝時代の九州における合戦では最大。日本三大合戦[3]の一つとする説もある。

1521年 – ベオグラード包囲戦が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。屠城甚大と思われるが損害不明。

1521年のベオグラード包囲戦は、オスマン帝国による西方への大遠征中、ハンガリーとの戦争において、ハンガリーに対する3回目の攻撃で起こった戦闘である。

オスマン皇帝スレイマン1世は、先祖のメフメト2世が征服に失敗したロドス島とベオグラードを最初の軍事行動の目標に決めた(ロドス島は1522年のロドス包囲戦)。スレイマン1世は1521年5月中旬に軍を送り出し、この進軍の目的はベオグラード征服だった。ハンガリーは混乱し、オスマン軍に効果的に反撃することができなかった。過去の戦闘と違い、皇帝はサヴァ川から進軍することにした。そうすると、スレムを最初に征服する必要があり、最終的に行われた。ベオグラード軍は抵抗し続けたが、戦力と戦争物資の不足で、1521年8月28日、29日に降伏した

1526年 – オスマン=ハンガリー戦争: モハーチの戦い。オスマントルコ6万対ハンガリー3万の激突。損害 オンスマントルコ2000人 ハンガリー20000人

モハーチの戦い(モハーチのたたかい、ハンガリー語: Mohácsi csata、トルコ語: Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。

1741年(寛保元年7月19日) – 渡島大島・寛保岳噴火に伴っての津波が発生(寛保津波)。対岸を中心に1,467人の死者を出す。

寛保津波(かんぽうつなみ)とは、1741年8月29日(寛保元年7月19日)未明に日本海で発生した大津波である。北海道・渡島半島の西方約50キロメートルの日本海に浮かぶ渡島大島の噴火(火山爆発指数4[1][2])に伴う山体崩壊(含む海面下部分)が原因とされる。津波は北海道道南地方日本海沿岸から島根県沿岸にかけて、また朝鮮・江原道にも到達し[3][4][5]、特に松前藩での死者数は2083人に上り、大災害であった。日本海側での津波としては史上最大級のものとされる。

1756年 – プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻し、七年戦争が勃発。18世紀の実質世界大戦である。1756~1763 イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。7年での損害 1,358,000人戦死。

概要

七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years’ War、ドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。

ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。

この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡に帰し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。

1911年 – 東京朝日新聞が「野球と其害毒」連載を開始、9月22日まで22回に渡って野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開する。

新渡戸稲造 第一高等学校校長[1][2]1.8月29日 『野球は賤技なり剛勇の氣なし 日本選手は運動の作法に暗し 本場の米国既に弊害嘆ず 父兄の野球を厭へる實例』[1]

「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」[3]

1914年 – 静岡県に台風被害。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害[3]。

1944年 – 第二次世界大戦: スロバキアでナチス支配に反対するスロバキア民衆蜂起が始まる。ドイツ軍5万対スロバキア軍7万の激突。損害 ドイツ戦死捕虜4500+戦傷5000=死傷10000人 スロバキア軍戦死1700+戦傷3600+捕虜10000=15000死傷

1960年 – 前日、高知県に上陸した昭和35年台風第16号により京阪神地方が集中豪雨。西宮市の芦有ドライブウェイ建設現場では、土砂崩れが発生して作業員24人死亡するなどの被害[5]。

2003年 – イラクでナジャフ・モスク爆破事件。死者125名、負傷者500名[10]。

チャットgpt先生の8月29日のエッセイ

8月29日は歴史の舞台でさまざまな戦争、災害、社会変革が繰り広げられた日です。その出来事の中には、戦争の激しさや自然の猛威、そして社会的な葛藤が刻まれています。この日は、私たちに過去を振り返り、その影響と教訓を考えさせる日でもあります。

まず、1350年のウィンチェルシーの海戦では、イングランドとカスティリヤが壮絶な海戦を繰り広げました。エドワード3世が指揮を執り、息子のエドワード黒太子と共に戦場に立ったことは、王としての責務と親子の絆を象徴しています。戦場での勇気と悲劇が交錯する中、白兵戦の熾烈さと海戦の難しさが浮かび上がります。この戦いは、歴史の中で王や兵士が命を懸けた瞬間の一つであり、その勇敢さに敬意を払うべきです。

一方、日本でも1359年に筑後川の戦いが起こり、南北朝時代の九州での大きな合戦が展開されました。南朝と北朝の激突は、日本三大合戦に数えられるほどの規模で、戦国時代の幕開けともいえる激しい争いが繰り広げられました。この戦いの背景には、国の分裂と再統一の試みがあり、その過程で多くの人々が命を落としたことを忘れてはなりません。

また、18世紀には七年戦争が勃発し、ヨーロッパを中心に世界規模の戦争が繰り広げられました。この戦争は、各国の勢力均衡を大きく変え、イギリスの飛躍とフランスの衰退を決定づけました。戦争の損害は甚大であり、1,358,000人もの命が失われました。この戦争がもたらした変革は、近代の国際政治に大きな影響を与え、その教訓は今もなお生き続けています。

さらに、自然災害もこの日に起こっています。1741年の渡島大島・寛保岳噴火による津波では、1,467人もの命が奪われました。自然の力は人間の力を超えるものであり、その前では我々は無力です。しかし、その無力さを認めつつも、災害から学び、未来に備えることが求められます。

最後に、1911年の「野球と其害毒」の連載が示すように、スポーツや文化に対する社会の見方も変わり続けています。当時の野球に対する批判は、現代のスポーツに対する評価や倫理観の変遷を考えさせる一例です。

8月29日は、戦争や災害、社会の変革が刻まれた日であり、過去を振り返ることで、私たちは未来に向けて何を学び、どのように行動すべきかを考える機会となります。歴史は繰り返すと言われますが、その教訓を胸に、より良い未来を築くための指針とすべきです。