kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月28日 1879ズールー国王イギリス軍に拘束される、ほか写真wikipediaズールー戦争

8月28日

20250828木曜日旧暦7月6日赤口(己巳つちのとみキシ)月齢 4.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月己巳つちのとみ日 年末まであと125日

吉方位 隠遁日 己巳つちのとみ日 北 北東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8828%E6%97%A5

8月28日の出来事

1640年 – 第2次主教戦争: ニューバーンの戦い。イギリス国教会の祈祷書と監督制をスコットランドのピューリタンたちに強制したことでおこった内戦が主教戦争である。

損害 イングランド軍3000人が壊滅となる スコットランド軍は22500人の戦力で損害僅少。

1879年 – ズールー戦争に敗れたズールー王国の国王セテワヨ・カムパンデがイギリス軍に拘束される。ズールー戦争は     1879年1月11日-7月4日

損害 ズールー王国 3万人のうち1万人が戦死。英国軍のべ4万人のうち戦死1727人。

1899年 – 高知県に台風が上陸。暴風により四国4県と岡山県、兵庫県を中心に死者・行方不明者1000人以上の被害[1]。うち愛媛県では別子大水害発生により513名以上が死亡。

1914年 – 第一次世界大戦: ヘルゴラント・バイト海戦。イギリスとドイツの海戦

損害 イギリス 戦死35人 ドイツ 戦死700人 捕虜400人。

1945年 – 占領軍の先遣隊が厚木基地に上陸。横浜市に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の本部を設置(9月に東京へ移動)。横須賀港にアメリカ、イギリスの戦艦、巡洋艦17隻が入港[2]。

1988年 – ラムシュタイン航空ショー墜落事故が発生し、75人が死亡。

—————–  

1640年 – 第2次主教戦争ニューバーンの戦い。イギリス国教会の祈祷書と監督制をスコットランドのピューリタンたちに強制したことでおこった内戦が主教戦争である。

損害 イングランド軍3000人が壊滅となる スコットランド軍は22500人の戦力で損害僅少。

主教戦争(しゅきょうせんそう、英: Bishops’ Wars)は、イングランド・スコットランドにおいて、宗教問題が原因で起こった戦争である。イングランド王兼スコットランド王チャールズ1世がイングランド国教会の形式にもとづく祈祷書と監督制をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、清教徒革命の原因の1つとなった。名称は監督制の別名・主教制に由来する。

ニューバーンの戦い(Battle of Newburn)は、1640年8月28日にイギリスで発生した主教戦争(第二次)における戦い。一次を含めた主教戦争でほぼ唯一の戦闘であり、後の清教徒革命の遠因となる。

8月20日にスコットランド国民盟約軍は国境を越えて進んできたが、イングランドには軍を集めるだけの余力がなく、アイルランドからかき集めたわずかの手勢を送り込んだにとどまった。両軍はタイン川をはさんで対峙していたが、盟約軍の別動隊がイングランド軍に襲いかかり、イングランド軍は次々に川に追い落とされていった。勢いに乗った盟約軍はニューカッスル・アポン・タインを占領し、さらに進撃をつづける態勢をみせた。

イングランド王チャールズ1世は自ら貢物を持って盟約軍に赴き、和平を乞うた。こうしてリポン条約が締結され、ノーサンバーランドおよびダラムがスコットランド側に割譲された。

1879年 – ズールー戦争に敗れたズールー王国の国王セテワヨ・カムパンデがイギリス軍に拘束される。ズールー戦争は     1879年1月11日-7月4日

損害 ズールー王国 3万人のうち1万人が戦死。英国軍のべ4万人のうち戦死1727人。

ズールー戦争(ズールーせんそう、英語:Anglo-Zulu War)は、1879年にイギリス帝国と南部アフリカのズールー王国との間で戦われた戦争である。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカにおける植民地支配の画期となったことで有名である。英植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦のイサンドルワナの戦い(英語版)で、槍と盾が主兵装で火器をほとんど持たないズールー軍に大敗を喫して思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、ウルンディの戦い(英語版)では近代兵器を用いた英軍が王都ウルンディを陥落させ勝利した。戦争の結果、ズールー国家の独立は失われた。

1899年 – 愛媛県で別子大水害が発生。513名以上が死亡。

災害の発生

1899年(明治32年)8月28日。台風が別子銅山を襲い、1時間も満たない間に300mmを超える雨量の集中豪雨が発生した。このため、はげ山から流出する土砂が土石流化して谷間を流下。鉱山施設とともに谷間の社宅を押し流し、山内で513名、新居浜市側で54名とも数えられる死者を出す大災害となった[2][3]。

災害の発生後

山元の精錬施設や居住施設の一部は放棄され、施設の移転が進められていた四阪島への集約が加速した。

一方で、災害の原因となったはげ山の回復は、銅山の復旧と同時並行的に進められた。1901年(明治34年)3月の帝国議会において、当時、足尾銅山の鉱毒問題を追及していた田中正造は、別子銅山が推進する植樹活動を賞賛する演説を行っている。

1904年(明治37年)、伊庭貞剛の後任の鈴木馬左也は、森林計画を立案して鉱山周辺部の造林事業に着手。植物の生育に適さない鉱山周辺の痩せ地にはカラマツやニセアカシア、クロマツを、その周辺部にはスギやヒノキなどの造林木が植樹された[4]。災害後、100年以上経過した21世紀の現在では、植林された木々は山々を覆い尽くし、はげ山の面影はない。

1914年 – 第一次世界大戦: ヘルゴラント・バイト海戦。イギリスとドイツの海戦

損害 イギリス 戦死35人 ドイツ 戦死700人 捕虜400人。

ヘルゴラント海戦(ヘルゴラントかいせん、Seegefecht bei Helgoland)は、第一次世界大戦中の1914年8月28日、ヘルゴラント島(英:ヘリゴランド島)沖合いの北海で起きたイギリス海軍とドイツ海軍との海戦である。圧倒的に軍事的優位に立つイギリス海軍が、ドイツ海軍を罠にかけ、3隻の軽巡洋艦と水雷艇を撃沈することに成功した。 なお、英語での呼称は「Battle of Heligoland Bight」となっているが、英語で「ヘリゴランド湾 (Heligoland Bight)」と呼ばれる湾は、ユトランド半島南部、ホルシュタイン地方からオランダ国境までの北海に面したドイツ領が形作る湾のことで、ドイツでは一般的に「ドイツ湾 (Deutsche Bucht)」と呼ばれ、その入り口にヘリゴランド島があることからその名がついた。 ヘリゴランド湾には東からエルベ川が南からヴェーザー川が流れ込んでおり、エルベ河口にはブルンスビュッテル軍港が、ヴェーザー河口に近いヤーデ湾にはヴィルヘルムスハーフェン軍港がある。

1945年 – 占領軍の先遣隊が厚木基地に上陸。横浜市に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の本部を設置(9月に東京へ移動)。横須賀港にアメリカ、イギリスの戦艦、巡洋艦17隻が入港[2]。

1988年 – ラムシュタイン航空ショー墜落事故が発生し、75人が死亡。

ラムシュタイン航空ショー墜落事故(ラムシュタインこうくうショーついらくじこ、英語: Ramstein air show disaster、イタリア語: Incidente di Ramstein、ドイツ語: Flugtagunglück von Ramstein)は、1988年8月28日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)のラムシュタイン空軍基地において発生した航空事故。

概要

1988年8月28日、ドイツ連邦共和国のラインラント=プファルツ州カイザースラウテルン郡カイザースラウテルン近郊の在欧アメリカ空軍ラムシュタイン空軍基地において開催されていたFlugtag ’88の最中、イタリア空軍フレッチェ・トリコローリのアエルマッキ MB-339PAN 3機が曲芸飛行中に空中衝突を発生させた。

事故発生時、地上には約30万人の観客がいたが、空中衝突した機体が観客席の中に墜落し、パイロット3人を含む70人が死亡、346人の観客が爆発や火災による重傷を負い、その他多数の観客が軽傷を負う大惨事となった[1]。

この事故は2002年にウクライナでリヴィウ航空ショー墜落事故(死者77人)が起こるまで世界最悪の航空ショーで発生した墜落事故であった[2]。また、ドイツ国内で発生した航空事故としては1972年ケーニヒス・ヴスターハウゼン墜落事故 (死者156人)、ユーバーリンゲン空中衝突事故 (死者71人) に次いで3番目に死者数の多い事故である。

チャットgpt先生の8月28日のエッセイ

8月28日という日――歴史の狭間に見えるもの

8月28日という日付をカレンダーで眺めれば、晩夏の陽光が色濃く差し込み、秋の入り口が少しずつ見えてくる時期だ。しかし歴史のページを繰れば、この日はしばしば「決定的な一手」が打たれた瞬間や、大きな災厄が刻まれた日でもある。

1640年、イングランドとスコットランドを分断する宗教の溝が、ついにニューバーンの戦いとして火を吹いた。数的にも士気的にも劣るイングランド軍は、タイン川を背にして押し流され、わずかな交戦で主教戦争の行方は決してしまう。戦場に響いたのは剣戟よりも、「和平を乞う」チャールズ1世の無言の敗北の声だったろう。この戦いはただの地方紛争ではなく、やがて清教徒革命という大嵐への予兆であった。

200年余を経た1879年、この日ズールー王国の王セテワヨが捕らえられる。勇猛な戦士たちの誇りも、近代兵器の前には沈黙せざるを得なかった。イサンドルワナでの栄光も、ウルンディでの敗北も、すべては帝国の拡張史の一章として飲み込まれていく。1万人の戦死という数字の背後には、村々の静まり返った夕暮れや、歌を失った祭りの夜があったはずだ。

1899年には、四国を襲った台風が別子銅山を呑み込み、わずか一時間で300ミリを超える雨が生命と家屋を押し流した。513人以上の命が奪われ、はげ山となった鉱山周辺は荒涼とした景色に変わる。しかしこの物語には珍しく「回復の章」がある。人の手で植えられたカラマツやスギが、百年を経て山を覆い返し、緑の衣を纏わせた。自然を壊すことも、再び育てることも、人間の営みの中にあるのだと感じさせる。

1914年、第一次世界大戦初期の海で、イギリスはドイツをヘルゴラント湾の罠にかけた。ドイツ海軍の誇りを乗せた巡洋艦が、次々と海中に没していく。700人の戦死と400人の捕虜。数字の向こうには、帰らぬ船を港で待つ家族の焦燥が漂う。

そして1945年、この日厚木に占領軍の先遣隊が上陸し、横浜にGHQが設置された。港に並ぶ戦艦と巡洋艦17隻は、日本が軍事国家から占領下の国へと切り替わる瞬間を、巨大な鋼鉄の質量で示していた。

1988年のラムシュタイン航空ショーでは、空に描かれたはずの祝祭の軌跡が、瞬時に悲劇へと転じた。3機の衝突、火の海、そして75人の死。歓声と爆音の入り混じった音が消え、代わりに静寂とサイレンが空を支配した。

こうして見ると、8月28日は勝利も敗北も、破壊も再生も、その両方を抱え込む日だ。人間は同じ日付に、戦争を起こし、国を失い、自然に打たれ、再び立ち上がり、技術の誇示を行い、そしてその技術で悲劇を生む。暦の上ではただの一日。しかし歴史の上では、人類の矛盾と可能性を映す鏡のような一日なのかもしれない。

そして明日もまた、暦は淡々とめくられ、誰かの8月28日が新しく始まる。