8月26日
20250826火曜日旧暦7月4日仏滅(丁卯ひのとうテイボウ)月齢 2.8
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月丁卯ひのとう日 年末まであと127日
吉方位 隠遁日 丁卯ひのとう日
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8月26日の出来事
1071年 – マラズギルトの戦い。セルジューク朝トルコ3万と東ローマ帝国7万の戦い。トルコの圧勝。東ローマ帝国衰亡の原因。
損害 セルジューク朝軍 僅少 東ローマ帝国 戦死8000人弱 捕虜4000人弱
1346年 – 百年戦争: クレシーの戦い。イングランド12000とフランス騎士軍30000の戦い。イングランド長弓隊の圧勝。戦術の書き換えの事件。騎士の没落。
損害 イングランド 僅少1000弱 フランス20000弱で壊滅
1600年(慶長5年7月18日)- 伏見城の戦いが始まる。関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍豊臣40000と東軍1800の伏見城籠城部隊の戦い。1800の全滅。豊臣の圧勝。
1813年 – ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。ナポレオン軍100000とオーストリア+ロシア+プロイセン200000の大会戦。ナポレオン軍の勝利。
損害 フランス軍死傷10000人 連合軍死傷38000人
1862年 – 南北戦争: 第二次ブルランの戦いが始まる。北軍60000と南軍50000の戦い。
損害 北軍死傷10000人 南軍死傷20000人強。
1962年 – 昭和37年台風第14号が三重県に上陸。滋賀県、福井県を通過して日本海へ抜けた後に温帯低気圧となった。死者・行方不明者11人[1]。
1966年 – ナミビア独立戦争はじまる。時 1966年8月26日 – 1990年3月21日。
南アフリカからのナミビア独立。損害累計 政府軍2000人強 独立軍11355人
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1071年 – マラズギルトの戦い。セルジューク朝トルコ3万と東ローマ帝国7万の戦い。トルコの圧勝。東ローマ帝国衰亡の原因。
損害 セルジューク朝軍 僅少 東ローマ帝国 戦死8000人弱 捕虜4000人弱
マラズギルトの戦い(マラズギルトのたたかい、トルコ語:Malazgirt Savaşı、ギリシア語: Μάχη του Μαντζικέρτ Mache tou Manzikert)は、1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。
戦闘が行われた地名について、東ローマのギリシア語文献はアルメニア語の「マンツィケルト」(Mantzikert)[3]を転写した「マンヅィケルト」「マンジケルト」(Μαντζικέρτ, Mantzikert)なる表記で記しており、日本の世界史の教科書ではこちらで呼ばれる場合が多い。
1346年 – 百年戦争: クレシーの戦い。イングランド12000とフランス騎士軍30000の戦い。イングランド長弓隊の圧勝。戦術の書き換えの事件。騎士の没落。
損害 イングランド 僅少1000弱 フランス20000弱で壊滅
概要
クレシーの戦いではエドワード3世率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世率いるフランス軍(約3万 – 4万人)を打ち破った。歴史家はこの戦いを騎士道華やかなりし時代の終焉の始まりを告げるものだったと位置づける。戦場は保存されて観光名所となっている。
戦闘
クレシーの戦いでの接近戦
まずフランス軍のジェノヴァ人の傭兵で構成されたクロスボウ部隊が射撃を行い、戦闘が開始された。対するイングランド軍は、ウェールズ人の自由農民で構成されたロングボウ部隊が応射し、射撃戦となった。フランス軍はイングランド歩兵の恐怖を煽るために、クロスボウ部隊の攻撃に合わせて楽器を打ち鳴らしたが、その目論見は脆くも崩れ去った。本来、直接照準における水平射撃では射程、威力、命中精度に勝るクロスボウであったが、上向きの射撃となったことで、効果が大きく減殺された。一方のロングボウ部隊は上方からの射撃であり、地理上の優位があった。
また、エドワード1世の時代より時間をかけて鍛え上げられてきたロングボウ部隊は練度も高く、クロスボウに比べて扱いの難しいロングボウを完璧に使いこなしていた。ロングボウは間接照準で上方に向かって打ち上げることにより射程の点でクロスボウに勝った。また1分間に1、2発程度しか発射できないクロスボウと、1分間に6 – 10発と速射性能で大きくまさるロングボウとの差は明白で、クロスボウ部隊は散々に打ち負かされた。 また一説には、フランス軍が出撃準備の整っていないクロスボウ部隊を強制的に(脅して)出撃させ、そのため大盾で身を隠すことの出来ないクロスボウ部隊はロンクボウの一斉射撃に混乱し、崩壊したとも言われる。
劣勢となったフランス軍だったが、怯むことなく重騎兵部隊による突撃戦術を敢行する。退却しようとしていたクロスボウ部隊は後方から迫った味方の騎士に薙ぎ払われ、踏み潰された。自然の傾斜と人工の障害、そして雨による不安定な地盤によって重騎兵部隊の進行は妨げられ、その突撃の威力は減少した。ある者はロングボウに貫かれ、ある者は落馬して圧死し、それでもなおフランス軍は幾度となく突撃を繰り返し、正面の歩兵部隊に猛攻を仕掛けるが、イングランド軍の陣形を崩すことができず、両側面から矢を射掛けられて負傷者が続出した。夕暮れになってついにフィリップ6世は自軍の退却を命じ、クレシーの戦いは終結した。
1600年(慶長5年7月18日)- 伏見城の戦いが始まる。関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍豊臣40000と東軍1800の伏見城籠城部隊の戦い。1800の全滅。豊臣の圧勝。
開戦の経緯
豊臣秀吉の死後、大老・徳川家康は上杉景勝が、豊臣政権に対して反逆を企てたとして会津征伐を決定。慶長5年6月18日に伏見を立ち東国へ向かった。
一方、大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日に、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布した。
これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城は籠城を開始しており[1]、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備する。
守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人[2]。
戦いの状況
本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ[3]、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢する[4]など圧力を強める。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった[5]。 しかし孤立した城は8月1日昼ごろに落城[6]。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ[7]、他に内藤家長、内藤元長 父子・松平家忠・上林竹庵ら以下800人が討ち死にした[8]。
この伏見城攻防戦の様子を近隣の郷民たちは小栗栖の山から見物している[9]。
戦後の影響
この戦いは、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城に10日以上もの期間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となったとする説がある。
1813年 – ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。ナポレオン軍100000とオーストリア+ロシア+プロイセン200000の大会戦。ナポレオン軍の勝利。
損害 フランス軍死傷10000人 連合軍死傷38000人
ドレスデンの戦い(ドレスデンのたたかい、独:Schlacht von Dresden、1813年8月26日 – 8月27日)は、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘の一つである。ドイツ東部のドレスデン近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世麾下のフランス軍は、オーストリア帝国・ロシア帝国・プロイセン王国による第六次対仏大同盟軍を破り、フランス軍の勝利に終わった。しかし、ナポレオンの勝利は完全なものではなかった。この戦いではフランス軍は追撃に失敗し、数日後に行われたクルムの戦いにおいてヴァンダムの軍団が包囲され降伏した。
1862年 – 南北戦争: 第二次ブルランの戦いが始まる。北軍60000と南軍50000の戦い。
損害 北軍死傷10000人 南軍死傷20000人強。
第二次ブルランの戦い(だいにじブルランのたたかい, 英: Second Battle of Bull Run, 南部での呼称は第二次マナサスの戦い, 英: Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日[1]に戦われた。南軍の将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものであり、1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。
1962年 – 昭和37年台風第14号が三重県に上陸。滋賀県、福井県を通過して日本海へ抜けた後に温帯低気圧となった。死者・行方不明者11人[1]。
1966年 – ナミビア独立戦争はじまる。時 1966年8月26日 – 1990年3月21日。
南アフリカからのナミビア独立。損害累計 政府軍2000人強 独立軍11355人
ナミビア独立戦争(ナミビアどくりつせんそう)は、1966年から1990年まで続いた独立戦争で、南西アフリカ人民機構(SWAPO)を中心としたアフリカ民族主義勢力が南アフリカのアパルトヘイト政府からの南西アフリカ(ナミビア)の独立を求めて戦った。南アフリカ国境戦争と密接な関係にあったほか、北隣のアンゴラで起こっていたアンゴラ独立戦争(1961年~1975年)やアンゴラ内戦(1975年~2002年)とも密接な関係にあった。
チャットgpt先生の8月26日のエッセイ
8月26日──歴史の転換点を刻む日
8月26日は、戦史の上でも政治史の上でも、幾度となく大きな転換点を迎えてきた日だ。時代も地域も異なるが、この日には共通して「勢力の均衡を揺るがす瞬間」が訪れている。
1071年、アナトリア東部で行われたマラズギルトの戦いでは、東ローマ帝国の精鋭7万がセルジューク朝3万に敗れ、皇帝ロマノス4世が捕虜となった。表面的には一度の敗北だが、その後の帝国衰退とアナトリア喪失の起点となった戦いでもあった。帝国は外敵への対応に追われ、十字軍の派遣要請という歴史の大きな波を生む。
約300年後の1346年、今度はフランス北部でクレシーの戦いが勃発する。ここでは戦術の転換が歴史を動かした。イングランドのロングボウ部隊が重装騎士を破り、騎士道的戦闘様式の終焉を告げた。戦術革新が、時代の価値観さえも変えてしまう例だ。
日本でも1600年、伏見城の戦いが関ヶ原の前哨戦として始まった。東軍1800が西軍4万に包囲され全滅するが、この籠城が西軍の進軍を遅らせ、本戦での家康勝利の一因となった。戦術的敗北が戦略的勝利に繋がる典型例である。
さらに1813年のドレスデンの戦いでは、ナポレオンが二倍の兵力を擁する連合軍を破ったが、勝利を活かしきれず数日後の敗北に繋がった。勝ったその瞬間にも、敗北の芽は潜んでいるということだ。
近代では、1966年のナミビア独立戦争がこの日から始まり、四半世紀を経て1990年に独立を果たす。これは武力だけでなく、長期的な政治交渉と国際世論の変化が決定的な役割を果たした闘争だった。
こうして見ていくと、8月26日という日は「勝利」と「敗北」を単純に分ける日ではない。むしろ、この日に起こった出来事は、その後数年から数十年にわたり、国家や社会の方向性を変えていった。小さな駒の動きが、盤上の勢力図を塗り替える――そんな日付なのだ。
歴史はしばしば、勝敗の瞬間よりも、その余波が重要になる。8月26日は、その「余波」が世界を形作った日といえるだろう。