kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月25日  1758ツォルンドルフの戦い、ほか写真wikipedia戦場ポーランドツォルンドルフ

8月25日

20250825月曜日旧暦7月3日先負(丙寅ひのえとらヘイイン)月齢 1.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月丙寅ひのえとら日 年末まであと128日

吉方位 隠遁日 丙寅ひのえとら日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8825%E6%97%A5

8月25日の出来事

1550年(天文19年7月13日) – 毛利元就が家中で専横が目立った井上元兼一族を粛清。

1758年 – 七年戦争: ツォルンドルフの戦い。

損害 プロイセン 死傷 12,797  ロシア死傷 18,500

1942年 – 第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: ラビの戦い(ミルン湾の戦い)が始まる。

損害 日本 戦死・不明 600、戦傷 300 米国 戦死・不明 180、戦傷 200

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1550年(天文19年7月13日) – 毛利元就が家中で専横が目立った井上元兼一族を粛清。

生涯

文明18年(1486年)、安芸国人・井上光兼の子として誕生。安芸井上氏は清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の一族である。もとは毛利氏と対等関係にある国人であったが、毛利氏との縁戚関係を経て一門の多くが毛利弘元の家臣団に組み込まれ、弘元に知行を給されて、家中においては近習同様に仕えることとなった。

元兼は主に財政面において活躍した。また、大永3年(1523年)、毛利氏の宿老15名が連署起請文[1]を提出して弘元の子・毛利元就の家督相続を要請した際には、井上就在・元盛・元貞・元吉ら他の井上一族と共に署名するなど、元就の補佐を務めて大いに功績をあげた。

ところが、家中で専横を極めたことに加え、家中における影響力や権威の強さから(一説には井上元盛が元就の所領の猿掛城領を横領したとも)、それを危惧した元就によって、天文19年(1550年)に子の就兼、叔父の元盛ら一族もろとも粛清された。

1758年 – 七年戦争: ツォルンドルフの戦い

損害 プロイセン 死傷 12,797  ロシア死傷 18,500

戦闘

8月25日、フリードリヒの歩兵はロシア軍の若い徴集兵のみで構成された“監視部隊”を攻撃する。プロイセン軍の砲撃は敵歩兵に甚大な被害を与えるが、砲撃による砂埃で視界が悪化し、その後の歩兵隊による攻撃は見当違いな敵部隊と接触した。ロシア軍の反撃によってプロイセン歩兵は総崩れになり、森の中へ一斉に逃げ込んだ。ロシア軍の歩兵と騎兵はそれを全力で追撃するが、高名なザイトリッツのプロイセン騎兵隊は敵の長く伸びた戦線の側面を突き、逆にロシア軍を押し返した。

その後の戦いで両軍は早くも弾薬が尽き、視界が最悪な中で白兵戦に突入する。ワイン樽の補給物資を守るように命令されたロシア軍の派遣部隊が泥酔するまで飲み続けるという場面もあった。幾つかのプロイセン軍大隊が疲労の兆しを見せると、フリードリヒ自ら彼らを率いて突撃した。戦いは18世紀のこの時期でもっとも血みどろの戦いとなった。あるプロイセン軍の士官は「ロシア兵の体が戦場で列になって積み重なっていた。ロシア軍の砲兵は我々のサーベルによって切り刻まれている間も大砲にキスし、一向に退却する兆しを見せなかった」と述べている。戦いの後、フリードリヒは有名な言葉を残している:「ロシア人を殺すのは味方に引き入れるよりも簡単だ」。

余波

凄惨な戦いは日没まで続き、ロシア軍の監視軍団は8割の損害を被った。全体的な損害としては、プロイセン軍が全体の32%にあたる1万2800名を失い、ロシア軍は全体の40%におよぶ1万8000を失った。しかしながら勝敗ははっきりとせず、数日の間は砲撃戦を続けていた。フェルマーは自軍の損害が甚大であることを認め、最初に退却した。この退却によってロシア軍とオーストリア軍の合流は妨げられ、今でもロシアの歴史家はこの行動に異議を唱えている。

フリードリヒが先にロスバッハの戦いとロイテンの戦いでの勝利に比べれば見劣りする結果とは言え、この3度目の勝利は彼の評価をさらに高めた。

1942年 – 第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: ラビの戦い(ミルン湾の戦い)が始まる。

損害 日本 戦死・不明 600、戦傷 300 米国 戦死・不明 180、戦傷 200

ラビの戦い(ラビのたたかい・連合軍呼称:ミルン湾の戦いBattle of Milne Bay)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年8月下旬から9月初旬に渡り、東部ニューギニアのミルン湾ラビにおいて、日本軍とオーストラリア・アメリカ連合軍との間で行われた戦闘である。連合軍が建設した飛行場に対し、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたが敗退した。

チャットgpt先生の8月25日のエッセイ

8月25日──歴史の交差点に立つ日

暦の上では、旧暦7月3日、月齢1.8。月はまだ細く、静かに夜空にかかる。
しかし、歴史をたどれば、この日は決して静かではなかった。


権力の均衡が崩れるとき

1550年8月25日、安芸の戦国大名・毛利元就は、家中で専横が目立った井上元兼一族を粛清した。
井上氏はかつて毛利氏と対等な国人であり、縁戚関係を経て家臣団の一翼を担った名家だった。元兼は財政面で功績をあげ、元就の家督相続を支えた忠臣でもあった。
それでも、一族が家中で持つ影響力が大きくなりすぎたとき、均衡は破られた。猿掛城領の横領疑惑も加わり、元就は一族をまとめて排除する決断を下した。
歴史はしばしばこう語る──「力が大きくなりすぎた者は、かつての盟友からも恐れられる」と。


血と泥にまみれた欧州の野

1758年、七年戦争の渦中、ツォルンドルフの戦いが勃発。プロイセン軍とロシア軍が激突し、双方あわせて3万人以上が死傷するという惨烈な戦果を残した。
砲撃で視界を奪われ、敵を見誤った歩兵は壊走し、騎兵は長く伸びた敵戦線を突く。やがて弾薬は尽き、泥まみれでの白兵戦となる。
ある士官は戦場を「ロシア兵の体が列をなして積み重なっていた」と記録し、フリードリヒ大王は冷徹な一言を残した──「ロシア人を殺すのは、味方に引き入れるより簡単だ」。
勝敗は決せずとも、戦場には友情も信義もなく、ただ生と死の境界だけが横たわっていた。


熱帯の海で、連合軍が初めて押し返す

1942年、ニューギニアのミルン湾(ラビ)では、太平洋戦争の潮目がわずかに変わり始めていた。
日本軍は飛行場を奪うため上陸したが、オーストラリア・アメリカ連合軍により撃退された。
日本側の戦死・行方不明は600、負傷者は300。連合軍側も損害を出しながら、この戦いは「日本軍の初の本格的敗北」として歴史に刻まれる。
熱帯の湿った空気の中で、戦争の神話は静かに崩れ始めていた。


歴史が告げる8月25日の顔

8月25日は、戦国の城下から欧州の戦場、そして南洋の海まで、場所も時代も異なる戦いが重なっている。
共通するのは、権力と恐怖、戦略と偶然、そして「その日が持つ帰路(わかれみち)」だ。
毛利元就にとっては家中を守るための粛清の日。フリードリヒにとっては名声を保つための激戦の日。ニューギニアの兵士たちにとっては、前線の流れを変える試金石の日。

静かな月齢1.8の夜空に照らされながらも、歴史の8月25日は、いつも血と決断の色を帯びている。