kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月24日 79西ゴートによるローマ略奪、ほか写真wikipedia西ゴート軍に蹂躙されるローマ

8月24日

20250824日曜日旧暦7月2日友引(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 0.8

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月乙丑きのとうし日 年末まであと129日

吉方位 隠遁日 乙丑きのとうし日 

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8月24日の出来事

79年 – イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火し、火砕流や泥流でポンペイ・ヘルクラネウムが埋没。都市20000人のうち2000人程度が死亡とされる。

410年 – ローマ略奪 (410年): アラリック1世率いる西ゴート族がローマを陥落させ、3日間にわたる略奪を開始。

人口100万人のローマに4万人のアラリック軍が侵入。住民の被害も大きく、皇帝の妹のガッラ・プラキディアを含め多くが捕虜となり、その多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦・虐殺された。身代金を払って救われたのはごく僅かだった[11]。難を逃れた住民は、遠くアフリカ属州に落ち延びた。

672年(天武天皇元年7月23日) – 大友皇子(弘文天皇)が自決し、壬申の乱が終結。

1572年 – サン・バルテルミの虐殺。フランスで、カトリックのギーズ公アンリの兵が改革派の貴族や市民を大量虐殺。カトリックによるプロテスタント市民の虐殺。被害は数万人規模だが不明。

1814年 – 米英戦争: ブラーデンスバーグの戦い。勝利した英軍はワシントンD.C.を占領し大統領府(現ホワイトハウス)を焼き討ちにする。

損害 英軍 4500人中戦死64人 アメリカ軍 7000人中戦死26人

1904年 – 日露戦争: 遼陽会戦始まる。8月24日から9月4日。

損害 戦死 日本23,533人               ロシア17,900人

1922年 – 北海道で水害。死者117人、家屋流失872戸、田畑流失6461町歩の被害[3]。

1927年 – 美保関事件がおこる。

美保関事件(みほのせきじけん)とは、1927年(昭和2年)8月24日に大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦艇の多重衝突事故である[1][2]。死者120人強。

1927年 – 九州西岸に台風が接近。有明海一帯で高潮の被害。熊本県だけでも死者22人、家屋8171棟、水田被害2069町歩の被害[3]。

1938年 – 大森民間機空中衝突墜落事故: 東京・大森南上空で民間航空機同士が空中衝突し墜落、炎上。救助に駆け付けた地元住民を含め85人が死亡[6][7]。

1938年 – 桂林号事件。日本海軍機が中華民国航空の旅客機「桂林号」を撃墜。乗客12名死傷。

1942年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・ソロモン諸島の戦い: 第二次ソロモン海戦が始まる。8月23日、24日、25日3日間。損害日本 空母1隻沈没、駆逐艦1隻沈没、輸送船1隻沈没、航空機25機被撃墜。米軍 僅少。

1945年 – 第二次世界大戦: 松江騒擾事件が発生。日本の降伏に反対し島根県庁を焼き討ち。報道管制のため報道は1ヶ月遅れた。1名死亡。

1945年 – 浮島丸事件。朝鮮半島出身者約4,000人を釜山へ送還中の浮島丸が舞鶴港で米軍が敷設した水雷により爆沈。死者549人。

2004年 – 2004年ロシア航空機爆破事件。ロシア南部でチェチェン独立派のテロリストが2機の旅客機を爆破。80人以上が死亡。

2016年 – ノルチャを震源地とするM6.2のイタリア中部地震が発生[11]。298人死亡。

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79年 – イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火し、火砕流や泥流でポンペイ・ヘルクラネウムが埋没。都市20000人のうち2000人程度が死亡とされる。

西暦 79 年、現在のカンパニア州に位置する成層火山であるヴェスヴィオ山が噴火し、歴史上最も致命的な噴火の 1 つを引き起こしました。 ベスビオは過熱テとのを33kmの高さまで激しく噴射した(21マイル)、、粉砕された、を毎秒150万トンで放出し、最終的に広島と長崎の原爆投下の10万倍の熱エネルギーを放出しました。[2][5][3][6][4]ベスビオ火山は、過熱したVesuvianテフラとashガスのstratosphere雲を33 km(21マイル)の高さまで激しく噴射し、pyroclastic flows溶けた岩石、粉砕されたPeléan eruptions軽石、熱い灰を毎秒150万トンで噴射しました

この出来事により、この地域のいくつかのローマの町や集落が破壊されました。ポンペイとヘルクラネウムは、巨大な火砕の高潮と降灰堆積物の下に消滅して埋もれており、最も有名な例です。[4] [5]考古学的発掘により、町の多くと住民の生活が明らかになり、この地域はベスヴィオ国立公園とユネスコの世界遺産になりました。

両都市の総人口は2万人を超えた。[7] [8] ポンペイとヘルクラネウムで1,500人以上の遺骨が発見された。噴火による総死者数は不明のままだ。

410年 – ローマ略奪 (410年): アラリック1世率いる西ゴート族がローマを陥落させ、3日間にわたる略奪を開始。

人口100万人のローマに4万人のアラリック軍が侵入。住民の被害も大きく、皇帝の妹のガッラ・プラキディアを含め多くが捕虜となり、その多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦・虐殺された。身代金を払って救われたのはごく僅かだった[11]。難を逃れた住民は、遠くアフリカ属州に落ち延びた。

ローマ略奪(ローマりゃくだつ、英語: Sack of Rome)とは、410年8月24日に起こった、アラリック1世率いる西ゴート族が西ローマ帝国のローマを侵攻・陥落させ、市内を略奪した事件を指す。ローマ劫掠(ごうりゃく)と訳されることもある。

西ローマ帝国の首都は402年以降ラヴェンナに置かれており、都市ローマは帝国の首都ではなかったものの、「永遠の都」としての象徴的地位にはあった。紀元前387年にアッリアの戦いでローマ略奪が行われて以来、およそ800年にわたって外敵による直接侵攻とは無縁であった都市ローマが陥落したことは、帝国内外に大きな動揺をもたらした。当時ベツレヘムに滞在中の聖職者であり神学者でもあったヒエロニムスは、この事件を聞き及び「全世界を収奪し続けたローマが、外敵から収奪されている」[1]と記したとされている。

672年(天武天皇元年7月23日) – 大友皇子(弘文天皇)が自決し、壬申の乱が終結。

1572年 – サン・バルテルミの虐殺。フランスで、カトリックのギーズ公アンリの兵が改革派の貴族や市民を大量虐殺。カトリックによるプロテスタント市民の虐殺。被害は数万人規模だが不明。

概要

宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。

国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた[1]。

2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し[2]、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる。

サン・バルテルミ(バルトロマイ)

バルトロマイ(ギリシャ語:Βαρθολομαίος)は、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。日本正教会ではワルフォロメイと転写される。

皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロの「最後の審判」にも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描かれている(この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている)。バル・トロマイという名の語義は「タルマイの子」でタルマイは「沢山の溝を持つ」の意で、土地を持つ豊かな人、つまり地主を指している。

記念日は8月24日とされる。

1814年 – 米英戦争: ブラーデンスバーグの戦い。勝利した英軍はワシントンD.C.を占領し大統領府(現ホワイトハウス)を焼き討ちにする。

損害 英軍 4500人中戦死64人 アメリカ軍 7000人中戦死26人

ブラーデンスバーグの戦い(ブラデンスバーグのたたかい、英:Battle of Bladensburg)は、米英戦争の終盤の戦いである。ここでアメリカ軍が敗れたことで、首都ワシントンD.C.はイギリス軍によって占拠され、ホワイトハウスなどの公共建築物が放火された(ワシントン焼き討ち)。

1904年 – 日露戦争: 遼陽会戦始まる。8月24日から9月4日。

損害 戦死 日本23,533人               ロシア17,900人

遼陽会戦(りょうようかいせん、リャオヤンかいせん)は、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。

影響

日本軍は、ハルビン攻略が望めなくなったことから、基本戦略の変更を余儀なくされた。遼陽会戦は日本軍の遼陽入城に終わったが、クロパトキンは戦略的後退であると主張し、両軍が勝利宣言を行う。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。

日本軍では、8月31日に遼陽会戦の首山堡争奪において、歩兵第34連隊の関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長(少佐)が戦死した。橘少佐は、海軍における旅順口閉塞作戦において戦死した広瀬武夫少佐とならび、戦後に軍神とされた。

1922年 – 北海道で水害。死者117人、家屋流失872戸、田畑流失6461町歩の被害[3]。

1927年 – 美保関事件がおこる。

美保関事件(みほのせきじけん)とは、1927年(昭和2年)8月24日に大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦艇の多重衝突事故である[1][2]。死者120人強。

1927年 – 九州西岸に台風が接近。有明海一帯で高潮の被害。熊本県だけでも死者22人、家屋8171棟、水田被害2069町歩の被害[3]。

1938年 – 大森民間機空中衝突墜落事故: 東京・大森南上空で民間航空機同士が空中衝突し墜落、炎上。救助に駆け付けた地元住民を含め85人が死亡[6][7]。

1938年 – 桂林号事件。日本海軍機が中華民国航空の旅客機「桂林号」を撃墜。乗客12名死傷。

1942年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・ソロモン諸島の戦い: 第二次ソロモン海戦が始まる。8月23日、24日、25日3日間。損害日本 空母1隻沈没、駆逐艦1隻沈没、輸送船1隻沈没、航空機25機被撃墜。米軍 僅少。

1945年 – 第二次世界大戦: 松江騒擾事件が発生。日本の降伏に反対し島根県庁を焼き討ち。報道管制のため報道は1ヶ月遅れた。1名死亡。

1945年 – 浮島丸事件。朝鮮半島出身者約4,000人を釜山へ送還中の浮島丸が舞鶴港で米軍が敷設した水雷により爆沈。死者549人。

2004年 – 2004年ロシア航空機爆破事件。ロシア南部でチェチェン独立派のテロリストが2機の旅客機を爆破。80人以上が死亡。

2016年 – ノルチャを震源地とするM6.2のイタリア中部地震が発生[11]。298人死亡。

チャットgpt先生の8月24日のエッセイ

8月24日は、歴史のカレンダーに刻まれた日々の中でも、特に「破壊と変革」が繰り返し訪れた日といえます。古代から現代に至るまで、この日には文明を揺るがす自然災害や戦争、そして社会を変えてしまう事件が幾度も起こっています。

最も有名なのは、西暦79年のヴェスヴィオ火山の大噴火でしょう。ポンペイやヘルクラネウムが一瞬で灰に閉ざされた光景は、単なる自然の猛威を超え、人間の営みの儚さを象徴します。火山灰に閉じ込められた人々の姿は、2000年の時を経てなお「その瞬間」の空気を私たちに伝えてくれます。

そして410年、この日ローマは西ゴート族に略奪されました。「永遠の都」が外敵の手に落ちるという出来事は、帝国の衰退だけでなく、人々の心に深い衝撃を与えました。ローマを襲った剣と炎は、文化や誇りという目に見えない柱まで崩したのです。

1572年のサン・バルテルミの虐殺は、人間同士の信仰の違いがどれほど血なまぐさい結果をもたらすかを示す悲劇でした。本来、婚礼という和解の場が、大量虐殺の引き金となった事実は、和解と対立が紙一重であることを物語ります。

近代以降も、ブラーデンスバーグの戦い(1814)、遼陽会戦(1904)、そして第二次世界大戦中の数々の惨事と、8月24日は戦火の中にありました。自然災害もまた、この日を忘れられないものにしています。北海道の水害、昭和初期の台風、1938年の大森空中衝突事故…。

歴史を通して眺めると、8月24日は「人間の営みを試す日」のようにも思えます。災害も戦争も、突如として日常を破壊します。しかし、その後には必ず「再建」や「記憶」という営みが続きます。ポンペイの遺跡を訪れる人々も、ローマ略奪の記録を読む学者も、虐殺を二度と繰り返さぬよう祈る人々も、その証です。

この日を振り返ることは、単なる過去の惨事の列挙ではありません。歴史の荒波の中で、何を守り、どう生き延びるかを問いかけられているのです。
そして、8月24日はその問いを、時代や場所を越えて私たちに突きつけてきます。