8月23日
20250823土曜日旧暦7月1日先勝 三碧(甲子きのえねコウシ)月齢 29.3
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月甲子きのえね日 年末まであと130日
吉方位 隠遁日 甲子きのえね日 南東 大吉
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8月23日の出来事
1305年 – イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される[1]。
1514年 – チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。オスマン帝国とサファビー朝ペルシャの124年戦争の始り。
戦力 オスマン帝国 200000人 対 サファビー朝 40000人 程度
損害 戦死 オスマン帝国 1000強 サファービー朝 5000
1927年 – サッコ・ヴァンゼッティ事件:アメリカで、強盗殺人の罪でイタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑を執行。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[6]。(ソ連対日参戦による総被害23万人中の57000人はシベリア抑留による)
1948年 – 万代橋事件: 萬代橋に花火大会の見物客が殺到し欄干が崩落[4]。死者11人。
1973年 – ストックホルムで銀行立てこもり事件発生、犯罪被害者が犯人に過度の同情や共感をよせる現象を意味するストックホルム症候群という呼称の由来となる。
2010年 – フィリピンのマニラで香港からの観光客を乗せたバスが元警察官の男にバスジャックされ、人質8人が死亡。犯人も射殺。
2023年 – ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン所有のジェット機がロシアのトヴェリ州に墜落し、エフゲニー・プリゴジン含む乗員乗客10人が全員死亡した(トヴェリ州エンブラエル・レガシー600墜落事故)。
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1305年 – イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される[1]。
サー・ウィリアム・ウォレス(英語: Sir William Wallace、1270年頃 – 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。享年35歳ころ。
イングランド王エドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功でスコットランド守護官(英語版)に任じられるも、1298年のフォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となり、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った[1]。
1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティス(英語版)の裏切りにあってイングランドに引き渡された[28][22][注釈 2]。
その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされた。エドワード1世の勝利を印象付けようという狙いだった[27]。
8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見ようと雑多な群衆が集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された[27]。
翌日、ウェストミンスター宮殿のウェストミンスター・ホールへ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられた[27]。審理中、月桂樹の王冠を被らされて嬲り者にされた[29]。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した[30]。
しかし有罪判決が下り、判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた[29]。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された[28][25]。遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所(ニューカッスル、ベリック、パース、アバディーン)で晒し物とされた[28][29]。
エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった[22][28]。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる[28]。
1514年 – チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。オスマン帝国とサファビー朝ペルシャの124年戦争の始り。
戦力 オスマン帝国 200000人 対 サファビー朝 40000人 程度
損害 戦死 オスマン帝国 1000強 サファービー朝 5000
チャルディラーンの戦い(チャルディラーンのたたかい、Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシアとの戦い。
鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえられる[7][8]。
1927年 – サッコ・ヴァンゼッティ事件:アメリカで、強盗殺人の罪でイタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑を執行。
サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco and Vanzetti、サッコ・ヴァンゼッティじけん)は、1920年にアメリカ合衆国のマサチューセッツ州で発生した強盗殺人事件。冤罪(誤判)事件として議論を巻き起こした。
概要
1920年4月15日にアメリカのマサチューセッツ州で強盗殺人事件が発生した。その後イタリア移民でアナーキストのサッコとヴァンゼッティ2名が逮捕され、その後の裁判で死刑宣告されたが、当初から偏見による冤罪との疑惑があり、アメリカ国内のみならずイタリアをはじめとするヨーロッパなど各地でデモが行われるほどの大きな問題となった。
しかし1927年に死刑執行された。後に調査をおこなった行政側は1977年に冤罪であったと認定したが、司法側は冤罪を認めていない。事件は、アメリカ合衆国の歴史上の汚点とも呼ばれている。
州知事は特別委員会を設置したが、国際的な助命嘆願を棄却。委員会は判決を支持し死刑判決が再度確定した。8月23日、マサチューセッツ州ボストン郊外の刑務所で0時19分にサッコが、続いて0時27分にヴァンゼッティが電気椅子で処刑された。
1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[6]。(ソ連対日参戦による総被害23万人中の57000人はシベリア抑留による)
犠牲者数
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[8]。従来、多く語られる場合の死者数は約6万人とされている。もともと関東軍の兵員が南方に移送されて大幅に減少し、それを満洲在留の民間邦人を召集して穴埋めしていったことが問題を分かりにくくしている。なお、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[9][要ページ番号](ただし、この数は単なる満洲引揚途上あるいは引揚待ちの死者らとの区別が不明である。)。
シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)[93][94]。
日本の厚生労働省は2019年(令和元年)現在でも、ロシア連邦などから提供された新たな資料を基に、旧ソ連や満洲での死亡が判明した日本人の氏名等の名簿更新を続けている[95]。
1948年 – 万代橋事件: 萬代橋に花火大会の見物客が殺到し欄干が崩落[4]。死者11人。
1973年 – ストックホルムで銀行立てこもり事件発生、犯罪被害者が犯人に過度の同情や共感をよせる現象を意味するストックホルム症候群という呼称の由来となる。
2010年 – フィリピンのマニラで香港からの観光客を乗せたバスが元警察官の男にバスジャックされ、人質8人が死亡。犯人も射殺。
2023年 – ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン所有のジェット機がロシアのトヴェリ州に墜落し、エフゲニー・プリゴジン含む乗員乗客10人が全員死亡した(トヴェリ州エンブラエル・レガシー600墜落事故)。
チャットgpt先生の8月23日のエッセイ
8月23日 ― 歴史の交差点
暦をめくれば、8月23日は時代も地域も異なる数々の出来事が重なり合う日だ。旧暦では7月1日、月齢29.3の新月前夜。日本の暦注では「先勝」、そして甲子(きのえね)の日という縁起の良い巡り合わせとされる。けれど、その日を飾る歴史の出来事は必ずしも穏やかなものばかりではない。
この日、1305年にはスコットランド独立運動の象徴、ウィリアム・ウォレスがロンドンで処刑された。彼は決して「イングランド王の臣民」ではないと主張し、最後まで誇りを失わなかった。その最期は苛烈であったが、彼の死は恐怖ではなく、民衆の抵抗心を燃え上がらせた。権力者が恐怖で支配を固めようとするとき、その火花はしばしば逆に炎となって広がる。
1514年のチャルディラーンの戦いでは、オスマン帝国とサファヴィー朝が初めて本格的に激突。鉄砲と大砲が騎馬軍団を打ち破り、戦術の時代が大きく転換した瞬間だった。圧倒的兵力差と技術の差が、戦局だけでなくその後124年に及ぶ両帝国の抗争の幕開けを告げた。
1927年のサッコ・ヴァンゼッティ事件は、異国で暮らす移民と思想家に向けられた偏見の象徴として、今も語り継がれる。正義とは何か、司法は誰のためにあるのか——その問いはほぼ1世紀後の今日も色褪せない。
1945年、この日はシベリア抑留の悲劇とも結びつく。戦争が終わってもなお、57万余の日本人が遠く寒冷地へ送られ、そのうち5万5千が帰らぬ人となった。歴史の教科書には数字が並ぶが、その一人ひとりに生活があり、家族があった。
近年の出来事も忘れがたい。1973年のストックホルム立てこもり事件は「ストックホルム症候群」という言葉を生んだ。2010年にはマニラでのバスジャック、2023年にはプリゴジンを乗せた航空機の墜落が世界を驚かせた。
こうして振り返ると、8月23日は戦いや暴力、権力の衝突が多く記録された日でもある。しかし、その背景には必ず「人がどう生き、どう抵抗し、どう記憶されたか」という物語がある。ウォレスが最後まで主張したように、「自分が何者であるか」を貫くことは、どの時代にも通じる勇気だ。
そして、今日を生きる私たちは、この歴史をただ悲劇の連なりとして眺めるのではなく、そこから「人の尊厳を守るためにできること」を考え、行動に移す責任を持っているのだろう。
暦の上で「吉日」とされる甲子の日に、過去の痛みを思い起こし、未来に活かす。
それが、この日にふさわしい祈りなのかもしれない。