kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月20日 1868プラハの春ソ連チェコに侵攻、ほか写真wikipediaソ連戦車を取り囲む群衆

8月20日

20250820水曜日旧暦6月27日友引(辛酉かのととりシンユウ)月齢 26.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月辛酉かのととり日 年末まであと133日

吉方位 隠遁日 辛酉かのととり日 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8820%E6%97%A5

8月20日の出来事

636年 – ヤルムークの戦い。ハーリド・イブン=アル=ワリードに率いられたアラブ軍が東ローマ帝国を破る。

戦力 東ローマ帝国軍150000人 対 アラブ軍15000人

損害 戦死東ローマ帝国軍 50000以上 アラブ軍3000人

672年(弘文天皇元年/天武天皇元年7月22日) – 壬申の乱: 瀬田川の戦い。大海人皇子軍と大友皇子の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘。

損害 詳細不明だが 大海皇子30000対大友皇子30000で大友大敗と。

917年 – アケロオスの戦い、ブルガリア皇帝シメオン1世が東ローマ帝国を破る

損害 ブルガリア 戦力15000にて損害僅少、東ローマ戦力30000で損害甚大と。

1672年 – オランダ共和制の指導者ヨハン・デ・ウィットと弟のコルネリス・デ・ウィットが民衆に虐殺される。

1794年 – 北西インディアン戦争: フォールン・ティンバーズの戦い

損害 インディアン軍 死者19名 アメリカ軍死者30名 戦傷100だが アメリカの勝利。

1940年 – レフ・トロツキーが亡命先のメキシコにおいてピッケルで襲撃される。翌日死亡。

1944年 – 第二次世界大戦: ヤッシー=キシナウ攻勢が始まる。年月日:1944年8月20日 – 8月29日 戦力 ドイツ+ルーマニア連合 50万+120万=170万強 ソ連 134万

損害 ドイツ+ルーマニア 死傷15万+12万=27万 ソ連 6万6千

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 真岡郵便電信局事件。ソ連軍が侵攻した樺太・真岡で女性電話交換手9名が自決。

1946年 – 食糧買い出しの女性10人の暴行殺害(小平事件)の容疑で小平義雄を逮捕。

1968年 – プラハの春: チェコ事件。ワルシャワ条約機構軍の兵士200,000名と5,000輛の戦車がチェコスロバキアに侵攻。

時             1968年8月20日 – 1968年8月21日

場所        チェコスロヴァキア

結果       

ソ連によるチェコスロヴァキアの占領

モスクワ協定(スロバキア語版)への署名

アレクサンデル・ドゥプチェクの辞任

グスターフ・フサークが第一書記に就任し、「正常化」が始まる

1991年まで、ソ連軍がチェコスロヴァキアに駐留する

アルバニアがワルシャワ条約機構から離脱(1968年9月)

チェコスロヴァキア国民7万人が国外に亡命。避難民の人数は30万人に達した[3]

損害:ソ連
死者:96名 – 98名
自殺者:兵士5名[9]
負傷者:87名
ポーランド
死者:10名(事故死と自殺)[10]
ハンガリー
死者:一名
ブルガリア
死者:一名

チェコ側  民間人と兵士、計137名が殺された[12]

500名が重傷

1989年 – マーショネス号転覆沈没事故。

乗客132名のうち51名が死亡

2008年 – スパンエアー5022便離陸失敗事故。スパンエアー機が離陸失敗、炎上。死亡154名。

日付        2008年8月20日

概要        フラップの設定ミス及び警報装置の故障による離陸失敗

現場        スペインの旗 スペイン・マドリード=バラハス空港

乗客数    162

乗員数    10(うち4人は乗客)

負傷者数                 18

死者数    154

生存者数                 18

2014年 – 広島市安佐北区・安佐南区の住宅地で豪雨により同時多発的に土石流が発生、75人が死亡(平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害 / 広島土砂災害)。

—————- 

636年 – ヤルムークの戦い。ハーリド・イブン=アル=ワリードに率いられたアラブ軍が東ローマ帝国を破る。

戦力 東ローマ帝国軍150000人 対 アラブ軍15000人

損害 戦死東ローマ帝国軍 50000以上 アラブ軍3000人

ヤルムークの戦い(アラビア語: نهر اليرموك、‎、ヘブライ語: נהר הירמוך‎)は、東ローマ帝国とその同盟国のガッサーン朝(英語版)が、正統カリフ勢力のアラブ軍とヨルダン川の支流のヤルムーク川で激突した戦い。この戦いに完勝した正統カリフ勢力によって東ローマ帝国のシリア支配は終わりを告げ、預言者ムハンマドの死後始まったイスラームの「大征服」時代の幕開けとなった。これ以後、キリスト教の影響が強かったレバント地方は急速にイスラーム化が進む。

ヤルムークの戦いでの勝利は、「アッラーの剣」の異名を持つアラブ軍の指揮官の一人ハーリド・イブン・アル=ワリードの代表的な軍事的功績とされている。この戦勝で、ハーリドは偉大な戦術家、卓越した騎兵指揮官としての名声を確立した[2]。

672年(弘文天皇元年/天武天皇元年7月22日) – 壬申の乱: 瀬田川の戦い。大海人皇子軍と大友皇子の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘。

損害 詳細不明だが 大海皇子30000対大友皇子30000で大友大敗と。

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

917年 – アケロオスの戦い、ブルガリア皇帝シメオン1世が東ローマ帝国を破る

損害 ブルガリア 戦力15000にて損害僅少、東ローマ戦力30000で損害甚大と。

アケロオスの戦い(アケロオスのたたかい)は、917年にブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で行われた戦い。

1672年 – オランダ共和制の指導者ヨハン・デ・ウィットと弟のコルネリス・デ・ウィットが民衆に虐殺される。

ヨハン(またはヤン)・デ・ウィット(Johan(Jan) de Witt, 1625年9月24日 – 1672年8月20日)は、オランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)の政治指導者で、ホラント州の法律顧問(raadspensionaris:1653年 – 1672年)。英蘭戦争で共和国を率い、オランダ黄金時代を牽引したが[1]、失脚後兄のコルネリス・デ・ウィットと共に民衆に虐殺された[2]。

1672年6月、痛風の悪化で戦線を離れたコルネリスは、当時の政権を握っていた弟の軍事、外交面での数々の失政がフランスの侵攻で白日の下にさらされ、フランスが示した屈辱的な講和条件を本気で検討し始めたことで共に民衆の憎悪の対象となった。

1672年7月24日、理容師ウィレム・ティヒラーによりウィレム3世の暗殺を企てているとの嫌疑で訴えられ、逮捕された。裁判でコルネリスは無実を主張したが、理容師と面識がないと嘘をついたことで疑いがかかり、拷問にかけられることになった。コルネリスは拷問に耐えて自白を拒んだため、反逆罪については嫌疑不十分となったが、偽証罪で追放処分を受けることとなった。拷問による衰弱のため歩行困難となったコルネリスは弟を呼び出した。デ・ウィット兄弟がいることを知ってヘヴァンゲンポールト(現・ハーグ監獄博物館)を取り囲んだ民兵や群衆は、看守の制止を振り切って乱入し、兄弟を引きずり出して殺害した。

1794年 – 北西インディアン戦争: フォールン・ティンバーズの戦い

損害 インディアン軍 死者19名 アメリカ軍死者30名 戦傷100だが アメリカの勝利。

1940年 – レフ・トロツキーが亡命先のメキシコにおいてピッケルで襲撃される。翌日死亡。

1944年 – 第二次世界大戦: ヤッシー=キシナウ攻勢が始まる。年月日:1944年8月20日 – 8月29日 戦力 ドイツ+ルーマニア連合 50万+120万=170万強 ソ連 134万

損害 ドイツ+ルーマニア 死傷15万+12万=27万 ソ連 6万6千

ヤッシー=キシニョフ攻勢(ヤッシー=キシニョフ作戦、[1][5][6][7]ロシア語: Ясско-кишинёвская стратегическая наступательная операция、ヤッシー=キシニョフ戦略攻勢作戦[8])とは、1944年8月20日から29日までルーマニア東部で行われたソ連軍による枢軸軍への攻撃作戦。ソ連軍の第2、第3ウクライナ方面軍はドイツ軍とルーマニア軍で構成された南ウクライナ軍集団と対峙していたが、モルダビア・ソビエト社会主義共和国を取り戻し、この地域の枢軸軍を撃破してルーマニア及びバルカン半島への道を開こうとした。ヤッシー=キシニョフは、作戦に関連するルーマニアの2つの主要都市ヤシ、キシナウのロシア語読みを意味する。

攻撃の結果、防御側のドイツ軍は包囲殲滅され、ソ連軍はルーマニア本土に奥深く侵攻。ルーマニアでは政変がおきて、枢軸側からソビエト連邦側へ立場を変えることになった。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 真岡郵便電信局事件。ソ連軍が侵攻した樺太・真岡で女性電話交換手9名が自決。

真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また沖縄のひめゆり学徒隊と対比して北のひめゆり(事件)[1]とも呼ばれる。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵の手榴弾や銃撃による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる[2]。

背景

太平洋戦争末期、北方はアッツ島から太平洋の島々・沖縄まで日本軍の玉砕が相次ぎ、民間人も多くの者がサイパン・テニアンから沖縄戦まで軍と運命をともにしていった。とくに戦時において国の重要なインフラとなる通信(電信・電話)を担う職員には、最期まで職責を果たすべくかのように「死んでもブレスト(現代のヘッドセットにあたる機器)を外すな」といったことが教えられていた。これは決して口先だけの決まり言葉で済まずに、かつて日本の電報・電話を担当した元電電公社の職員で後に大学講師・作家となった筒井健二によると、実際に、例えばB29機本土空襲の焼夷弾爆撃によって焼き払われた町では、文字通り職場に最期まで留まって殉職した者もいたという[3][注 1]。

筒井健二は、その中で碑文が建てられたのが、一つは、1945年3月9日の東京大空襲で隅田電話局で主事以下の男性職員3名と女性交換手28名が、熱の辛さをわずかでも和らげようとしたのか相擁して焼け死んだ事件(隅田電話局に吉川英治の文による碑があるという)と、もう一つが、この真岡郵便電信局事件であるという[3]。

1946年 – 食糧買い出しの女性10人の暴行殺害(小平事件)の容疑で小平義雄を逮捕。

小平事件(こだいらじけん)は、1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけて、東京都とその周辺で発生した連続強姦殺人事件である。小平義雄事件とも称する。

1968年 – プラハの春: チェコ事件。ワルシャワ条約機構軍の兵士200,000名と5,000輛の戦車がチェコスロバキアに侵攻。

時             1968年8月20日 – 1968年8月21日

場所        チェコスロヴァキア

結果       

ソ連によるチェコスロヴァキアの占領

モスクワ協定(スロバキア語版)への署名

アレクサンデル・ドゥプチェクの辞任

グスターフ・フサークが第一書記に就任し、「正常化」が始まる

1991年まで、ソ連軍がチェコスロヴァキアに駐留する

アルバニアがワルシャワ条約機構から離脱(1968年9月)

チェコスロヴァキア国民7万人が国外に亡命。避難民の人数は30万人に達した[3]

損害:ソ連
死者:96名 – 98名
自殺者:兵士5名[9]
負傷者:87名
ポーランド
死者:10名(事故死と自殺)[10]
ハンガリー
死者:一名
ブルガリア
死者:一名

チェコ側  民間人と兵士、計137名が殺された[12]

500名が重傷

概要

「プラハの春」(Pražské Jaro)は、ドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記(1953年から1971年までは「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)に選出された時点で始まった。ドゥプチェクによる改革は、経済における一部の地方分権化と民主化を実施し、それによってチェコスロヴァキア国民に権利を付与することを目的としていた。報道の自由や言論の自由を認め、自国民の旅行に対する制限の緩和も含まれた[3]。とくに、行政権限の地方分権化に対してソ連は苦々しく思っており、チェコスロヴァキアと交渉を重ねるも失敗に終わった。1968年8月20日、ソ連はワルシャワ条約機構の50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアを占領した。ソ連軍に加えて、ポーランド軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍も侵攻に加わった[3]。大統領のルドヴィーク・スヴォボダ(Ludvík Svoboda)と国防大臣のマルティン・ズール(Martin Dzúr)の命令により、チェコスロヴァキアの軍隊は戦闘に介入しなかった。1968年8月21日の朝までに、チェコスロヴァキアはソ連軍に占領された[29]。アレクサンデル・ドゥプチェクとその仲間たちは8月21日の朝に逮捕され、モスクワに連行された。プラハに戻されたのち、ドゥプチェクは1969年4月に共産党第一書記を辞任した[3]。1969年4月17日、アレクサンデル・ドゥプチェクの後任として、グスターフ・フサーク(Gustáv Husák)がチェコスロヴァキアの指導者に就任した[30]。1968年8月23日から8月26日にかけて、モスクワにて、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が会談を行い、8月27日に共同声明を発表し[31]、モスクワ協定(スロバキア語版)に署名し[31]、ソ連軍の駐留を合法化し、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。のちに、1991年6月30日までにチェコスロヴァキアの領土からソ連軍を撤退させる協定が締結され、ワルシャワ条約機構は1991年7月1日をもって失効し、消滅した[8]。

チェコの歴史家、プロコップ・トメック(チェコ語版)とイヴォ・ペイチョフ(チェコ語版)は、ソ連による軍事侵攻の犠牲者について、当初は「108人」と計上していたが、その後、「137人」に修正した。プロコップ・トメックによれば、ソ連軍は、侵略の初日だけで50人を射殺したという[12]。この軍事侵攻によって500人が重傷を負った[13]。ソ連兵に銃で撃たれ、その際にできた怪我が原因で死亡した者たちも出た[13]。

この軍事侵攻に対し、中華人民共和国はソ連を非難した一方で、北朝鮮、北ヴェトナム、モンゴル人民共和国はソ連への支持を表明した。ユーゴスラヴィアとルーマニアは、チェコスロヴァキアに対して同情的な反応を見せ、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアの間で、特別な関係が構築され始めた。ソ連から独立したいという共通の想いが、この同盟の締結に繋がった[32]。チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を受けて、ルーマニアとユーゴスラヴィアは自国の防衛を強化する措置を講じた。ルーマニアは「ルーマニアの領土内で軍事演習を実施する」というソ連の圧力に抵抗し、撥無に成功した[32]。ルーマニアとアルバニアは、この侵攻に対する軍隊の派遣を拒否した。1968年8月24日、ユーゴスラヴィアとルーマニアは、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を非難する共同宣言を正式に発表した[30]。アルバニアは1968年9月13日にワルシャワ条約機構から離脱するに至った

1989年 – マーショネス号転覆沈没事故

乗客132名のうち51名が死亡

2008年 – スパンエアー5022便離陸失敗事故。スパンエアー機が離陸失敗、炎上。死亡154名。

日付        2008年8月20日

概要        フラップの設定ミス及び警報装置の故障による離陸失敗

現場        スペインの旗 スペイン・マドリード=バラハス空港

乗客数    162

乗員数    10(うち4人は乗客)

負傷者数                 18

死者数    154

生存者数                 18

2014年 – 広島市安佐北区・安佐南区の住宅地で豪雨により同時多発的に土石流が発生、75人が死亡(平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害 / 広島土砂災害)。

チャットgpt先生の8月20日のエッセイ

8月20日という日は、歴史の中で何度も「転機」や「衝突」の瞬間を刻んできた日です。年ごと、地域ごとに背景は異なりますが、不思議なことに、この日にはしばしば「均衡が崩れ、大きな方向転換が起こる」出来事が重なっています。

古くは636年のヤルムークの戦い。東ローマ帝国軍15万を、わずか1万5千のアラブ軍が破ったこの勝利は、中東と地中海世界の宗教・政治地図を塗り替える契機となりました。数的劣勢を覆すだけでなく、その後数世紀にわたるイスラム世界の拡大を決定づけた意味で、歴史の分岐点でした。

日本でも、672年の壬申の乱・瀬田川の戦いが同日に記録されています。大海人皇子と大友皇子、ほぼ同規模の3万対3万の激突でしたが、勝敗は明確で、大友皇子側の敗北は天武天皇の即位へとつながりました。ここでもまた、権力の座が大きく揺らいだのです。

中世から近世にかけても、8月20日は激しい変動の舞台でした。917年、ブルガリア皇帝シメオン1世が東ローマ帝国を破ったアケロオスの戦い。1672年、オランダの共和制を支えたヨハン・デ・ウィット兄弟が民衆の手にかかる悲劇。力の均衡が一夜で崩れる瞬間は、戦場だけでなく政変や暴動にも表れています。

近代に入ると、この日は戦争だけでなく、政治や社会の潮流の変化も際立ちます。1944年のヤッシー=キシナウ攻勢では、ソ連軍がドイツ・ルーマニア連合軍に大打撃を与え、東部戦線の流れを一気に変えました。そして1968年、チェコスロバキアへのワルシャワ条約機構軍侵攻は「プラハの春」を終わらせ、20年以上の「正常化」時代をもたらしました。戦車と銃声の陰で、自由を求めた声が押し潰された日でもあります。

一方で、8月20日は災害や事故の記憶も背負っています。2008年のスパンエアー機事故や、2014年の広島土砂災害など、戦争とは無縁のはずの日常にも突然の破局が訪れることを、この日は何度も示してきました。

こうして並べてみると、8月20日は「静かな日」では決してありません。戦場の勝敗も、政権の交代も、自然の猛威も、この日に集中的に現れるのは偶然かもしれません。しかし、その背後には人間の営みのもろさと、状況が一瞬で変わる歴史の性質が浮かび上がります。

もしかすると、この日は私たちに「現状が永遠に続くと思うな」という無言の警告を送り続けているのかもしれません。歴史を知る者にとって、8月20日はただの夏の一日ではなく、「変化の予兆を秘めた日」として記憶に刻まれるべき日なのです。