kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月2日  前216カンナエの戦い、ほか、写真wikipediaカンナエ戦

8月2日

20250802土曜日旧暦6月9日友引(癸卯みずのとうキボウ)月齢 8.3

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月癸卯みずのとう日 年末まではあと151日

吉方位 隠遁日 癸卯みずのとう日 北東 東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%882%E6%97%A5

8月2日の出来事

紀元前338年 – マケドニア王フィリッポス2世がカイロネイアの戦いでアテネとテーバイの連合を破る。マケドニア 死者140人  連合軍 死者2000以上 捕虜4000以上

紀元前216年 – 第二次ポエニ戦争: カンナエの戦い。ハンニバル率いるカルタゴ軍が、共和政ローマ軍を包囲殲滅する。損害 カルタゴ 5000-7000 ローマ 50000-70000

紀元前47年 – ローマ内戦: ゼラの戦い。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍がポントス軍を破る。カエサルは「来た、見た、勝った」と戦勝を元老院に報告。

1221年(承久3年7月13日) – 承久の乱: 幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される。

1944年 – 第二次世界大戦: テニアン島の日本軍が玉砕し、テニアンの戦いが終結。

損害 日本8010 米軍328 戦力 8000対50000

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 富山大空襲。死者2149以上。

1948年 – 神奈川県川崎市で竜巻が発生。戦災跡地に建てられていたバラック住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人。38戸が全壊、50戸が半壊[4]。

1955年 – 神奈川県横浜市に存在した日本カーリット保土ケ谷工場で爆発事故。従業員ら21人が死亡、19人が重軽傷[6]。

1985年 – デルタ航空191便墜落事故。死者135人。

1990年 – 湾岸戦争: イラクがクウェートに侵攻。同日、国連安保理は即時無条件撤退を求める決議660を採択。

戦争:湾岸戦争[1]

年月日:1990年8月2日(クウェート侵攻)/1991年1月17日-同年2月28日[1]/3月3日[2]

場所:クウェート、イラク、サウジアラビア東北部など[1]。

結果:多国籍軍の勝利、地上戦開始100時間後にクウェートを解放し停戦[1]。

損害:多国籍軍 70万人強中 民間軍人合計1000人強死亡 イラク軍 合計 軍200000人戦死 民間200000人死亡。合計40万人死亡。

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紀元前338年 – マケドニア王フィリッポス2世がカイロネイアの戦いでアテネとテーバイの連合を破る。マケドニア 死者140人  連合軍 死者2000以上 捕虜4000以上

 この戦いは古代世界における最も決定的な勝利となった戦いの一つとされる。アテナイ・テーバイの軍隊は壊滅し、抵抗を続けることは不可能となったため、戦争は瞬く間に終結した。ピリッポスはギリシャの各都市に講和条約を提示し、スパルタを除く全ての都市はそれを受け入れてコリントス同盟が結成され、マケドニアの覇権が確立した。

紀元前216年 – 第二次ポエニ戦争: カンナエの戦い。ハンニバル率いるカルタゴ軍が、共和政ローマ軍を包囲殲滅する。損害 カルタゴ 5000-7000 ローマ 50000-70000

戦闘展開

布陣〜序盤戦

包囲完成

戦闘開始と同時に、ローマ軍の重装歩兵はカルタゴの歩兵戦列を突破するために前進した。ヒスパニア・ガリア歩兵は少しずつ押されていたが、弓なりの配置のおかげで、ローマ軍中央の前進速度を多少緩やかにすることができた。その間にカルタゴ軍左翼のヒスパニア・ガリア騎兵が優勢な戦力でローマ軍の右翼騎兵を圧倒し、これを壊走させた。一方、カルタゴ軍右翼のヌミディア騎兵とローマ軍左翼の同盟国騎兵は互角の戦いを繰り広げていた。

自軍の戦列中央が圧倒されつつあるのを見たハンニバルは、両翼のカルタゴ歩兵を前進させ、ローマ軍戦列の両翼を押し込んだ。一方、ローマ軍の右翼騎兵を壊走させたハスドルバル指揮下のヒスパニア・ガリア騎兵は、大きくローマ軍の背後を駆け抜けると、自軍のヌミディア騎兵と交戦しているローマ軍左翼の同盟国騎兵を背後から挟撃した。戦力的に劣勢となった同盟国騎兵はほどなく壊走を始めた。カルタゴ騎兵は逃げる同盟国騎兵を追わず、今度はローマ軍中央の後方へと回り込んだ。

ローマ軍の中央戦列は、ほとんどカルタゴ軍中央を突破しかけていたが、戦列の両翼にいるカルタゴ歩兵はいまだ優勢であり、その方面のローマ軍は前進することができなかった。この時点で、ローマ軍中央の陣形はV字になりつつあった。そこへ両翼のローマ軍騎兵を壊走させたカルタゴ軍騎兵が後方から襲いかかってきた。後方を突かれたローマ軍はパニック状態に陥って極度に密集したため、中央の兵は圧死する者まで現れた。前方をガリア歩兵、両側面をカルタゴ歩兵、後方をカルタゴ騎兵によって完全包囲下に置かれたローマ軍は、逃げることも中央突破もできずに殲滅されることとなった。

損害

この戦闘で、ローマ軍はおよそ5万から7万の戦死者を出し、野営地に残されていた部隊も多くが降伏して捕虜となった。その日の最高指揮官であるウァロは戦場から逃れたが、一方の指揮官であるパウルスは戦死した。また、中央の指揮を任されたセルウィリウスも戦死し、リウィウスは従軍していた80人以上の元老院議員とその候補者が戦死したとしている[7]。当時の元老院は最大でも300人を超えなかったため、4人に1人以上が死んだことになる。

カルタゴ軍の死者はポリュビオスが5,700人と記し、その大半は戦列中央のガリア兵だったとしているが、リウィウスはハンニバルが8,000以上の遺体を埋葬したとしている[8][4]。

戦後と影響

この大敗北の後、ローマはハンニバルとの正面決戦を避け、持久戦に持ち込むことにした。ファビウス・マクシムス、マルクス・クラウディウス・マルケッルスの両名を執政官とし、攻撃対象をシチリア、ヒスパニアなどのカルタゴ周辺へと変更し、外からの切り崩しを狙った。さらに優勢な海軍力を生かしてカルタゴ海軍を脅かし、カルタゴ本国からのハンニバルへの補給を断った。そして、戦力の再編とともに、カンナエの敗戦の原因といえる騎兵の育成に努め、これが後のザマの戦いの勝利に結びつくことになった。もっとも、騎兵の調達は相変わらず困難であることに変わりなく、同盟国の騎馬やヌミディア騎兵に頼ることが多かった。

一方のハンニバルは、この勝利によってローマ同盟都市が離反することを期待したが、同盟都市の結束は依然として固く、十分な成果は上がらなかった。敵地での補給に苦しむハンニバルは、ローマを攻めずに肥沃でカルタゴ本国とも連絡をつけやすいイタリア南部(マグナ・グラエキア)へ主攻を切り替えた。

この戦いから特に包囲戦の有効性が強調されるが、ローマの敗因は包囲されたことによりパニック状態になり、有効な組織的対応が出来なかったことにある点に留意する必要がある。もしローマ歩兵が包囲側の攻撃に耐え、そのまま前進して包囲網を突破し、左右に展開出来たならば、逆に寡少なカルタゴ軍を包囲できたことになり、全く違った結果となっていたと考えられる[9] 。

後年、この戦いは包囲殲滅戦の手本とされ、ドイツ帝国陸軍のシュリーフェン・プランや、日露戦争の奉天会戦の日本軍もこれを参考にした。また、現代の教書でもこの戦いは重要視されている。この戦術は兵力が馬から戦車に変わった現在においても有効であり、スターリングラード攻防戦ではソ連軍がドイツの第6軍をこれと同じ戦術で包囲殲滅している。しかし、あまりにも見事である為、多くの軍人が同じ夢を見て真似をするが、大半はハドリアノポリスの戦いのように包囲に失敗し、大抵が壊滅的な損害を被り敗北してしまう例がほとんどである。

紀元前47年 – ローマ内戦: ゼラの戦い。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍がポントス軍を破る。カエサルは「来た、見た、勝った」と戦勝を元老院に報告。

ゼラの戦い(英語: Battle of Zela、イタリア語: Battaglia di Zela)は、紀元前47年にゼラ(現:ジレ)近郊で行われたガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍とファルナケス2世率いるポントス王国との戦いである。

1221年(承久3年7月13日) – 承久の乱: 幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される。

高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。

1944年 – 第二次世界大戦: テニアン島の日本軍が玉砕し、テニアンの戦いが終結。

損害 日本8010 米軍328 戦力 8000対50000

民間人の被害

テニアン島で収容した在留邦人の子供にキャンディを渡しているアメリカ海兵隊員

テニアン島には、主に砂糖を製造していた南洋興発の関係者とその家族の15,700名(うち朝鮮人2,700名)の民間人が入植していた[2]。陸海軍の指揮官角田や緒方はアメリカ軍の侵攻が迫るとその対応に苦慮し、民間人代表らとの協議を重ねたが、婦女子からは「敵手に陥るよりは喜んで死を選ぶ」という決意を聞かされていたため、アメリカ軍が上陸すると、大本営に対して「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする悲壮な電文を発している[3]。しかし、角田らはその電文を実行することはなく、義勇兵として徴用した16歳から45歳までの男子3,500人を除いた老人や婦女子や朝鮮人12,200名を、テニアン島のなかではジャングルや洞窟など身を隠す場所が多いカロリナス高地に避難させた[1]。

角田は軍に献身的に協力していた民間人に「ありがとう、皆さん、本当によくやってくださって、ありがとう」と常に感謝をしており[4]、軍司令官として立場上は民間人に対して「降伏しなさい」とは直接的には言えないものの、「皆さんは死なないでください。生きてください」「玉砕しなければならないということはない」という本音を話しており、この角田の本音を聞かされていた多くの民間人が軍との自決を思いとどまり避難に応じている[5]。

この角田の姿勢は守備隊の多く部隊も共有しており、海軍第五十六警備隊司令の大家も「我々軍人はなるべく民間人を助ける様にしたい、民間人は一人でも多く助けたい、民間人は一人でも多く生かしたい。」という方針で最後まで民間人の保護に努めている[6]。守備隊が組織的な抵抗力をうしなった8月3日以降、アメリカ軍は拡声器で民間人に投降を促したが、投降に応じない洞窟があると、片っ端から火炎放射器と手榴弾で掃討し[7]、民間人の犠牲は3,000名に達した[8]。しかし、アメリカ軍が収容した民間人は13,000人(うち朝鮮人2,679名)[9]となり[10]、民間人が兵士と共にバンザイ突撃まで行って、多くの民間人が犠牲となった『サイパンの戦い』とは異なり[11]、テニアン島においては角田らの方針によって、結果的に多くの民間人が生き延びることができた[5]。民間人の投降は戦争が終わった後も続いて、1953年(昭和28年)には、南洋興発の製糖所職員で、軍属として招集されていた民間人がアメリカ軍に投降している[12]。

集団自決があったとされる場所に建つ慰霊碑

角田らの方針が全軍に徹底されていたわけではなく、民間人の生存者佐藤照男によれば、アメリカ軍上陸直前にある海軍中佐が村落の住民を集めて「敵が上陸したら、皆さん死んでください、米軍に捕まったら残虐な行為で、性器をもがれるかもしれない」と自決を促されたという証言もあり[13]、集団自決も行われて、テニアン島にもサイパン島と同様に「スーサイドクリフ」と名付けられた断崖が存在し、多くの慰霊碑が立てられている[14]。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 富山大空襲。死者2149以上。

1948年 – 神奈川県川崎市で竜巻が発生。戦災跡地に建てられていたバラック住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人。38戸が全壊、50戸が半壊[4]。

1955年 – 神奈川県横浜市に存在した日本カーリット保土ケ谷工場で爆発事故。従業員ら21人が死亡、19人が重軽傷[6]。

1985年 – デルタ航空191便墜落事故。死者135人。

1990年 – 湾岸戦争: イラクがクウェートに侵攻。同日、国連安保理は即時無条件撤退を求める決議660を採択。

戦争:湾岸戦争[1]

年月日:1990年8月2日(クウェート侵攻)/1991年1月17日-同年2月28日[1]/3月3日[2]

場所:クウェート、イラク、サウジアラビア東北部など[1]。

結果:多国籍軍の勝利、地上戦開始100時間後にクウェートを解放し停戦[1]。

損害:多国籍軍 70万人強中 民間軍人合計1000人強死亡 イラク軍 合計 軍200000人戦死 民間200000人死亡。合計40万人死亡。

概要

イラクは、イラン・イラク戦争を通じて軍備を増強し、ペルシア湾岸の一大軍事国家として台頭した。一方で戦費調達のため多額の債務を負ったうえに、折からの原油価格の下落により石油収入が低下したため経済的に苦境に陥っていた[13]。この原油価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、イラクは両国を非難した[14]。一方、クウェートは戦争中のイラクに対し多額の融資を行っていたが、終戦後にその返済を要請したところ、当時のイラクのサッダーム・フセイン大統領は、これはアメリカ合衆国やイスラエルがイラクを陥れようとする陰謀の一環であると考えて、対決姿勢を強めていった[13]。

1990年8月2日、イラク共和国防衛隊はクウェートへ侵攻した。約6時間で同国全土を制圧・占領して傀儡政権であるクウェート共和国を擁立し、8月8日にはクウェートのイラクへの併合を発表した[15]。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[16]。国際連合安全保障理事会は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソが一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。翌1991年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった[17]。

多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、他にもイギリスやフランスなどの西側ヨーロッパ諸国のみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場のカタールやイラクと同じバアス党政権で東側諸国の一員であるシリアなども参加した。

ヨーロッパ諸国軍は、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務めるアメリカ中央軍の指揮下に入った。一方、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、ハリード・ビン・スルタン(英語版)中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した[18][19]。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったため、面子等に留意しつつも軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していた[20]とされる。

国際連合により認可された、アメリカ、イギリスをはじめとする34ヵ国からなる多国籍軍は、イラクへの攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき[21]、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。

イラクの大統領サッダーム・フセインは開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った[22]。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる[23]この戦争は「第1次湾岸戦争」とも、また2003年のイラク戦争開始以前は「イラク戦争」とも称されていた[24][25][26]。

クウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。

空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。

戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた[27]。

チャットgpt先生の8月2日のエッセイ

8月2日という日――覇権と悲劇の交錯する歴史の節目

暦の上では盛夏、2025年の8月2日は旧暦で言えば6月9日。友引、月齢8.3の半月が夜空に浮かぶこの日は、陰陽五行の巡りにおいて「癸卯(みずのとう)」の日。吉方位は北東と東、隠遁日として内省に適した日ともされる。だが、この穏やかな天象とは裏腹に、歴史の上の8月2日には人類の命運を揺るがす多くの出来事が刻まれている。


古代 ― 覇権の誕生

紀元前338年、カイロネイアの戦い。マケドニア王フィリッポス2世はアテネ・テーバイ連合軍を撃破し、マケドニアによるギリシャ世界の覇権を確立した。死者の数はマケドニア140名に対し、連合軍は2000名超、捕虜4000名以上。この戦いは単なる勝敗にとどまらず、以後の西洋文明の流れを決定づけた軍事的・政治的転機である。彼の息子アレクサンドロス大王の登場に先駆けて、地中海の秩序は大きく塗り替えられた。

同じく紀元前216年、ハンニバルが歴史的な戦術を展開したカンナエの戦いもこの日だ。カルタゴ軍がローマ軍を完膚なきまでに包囲殲滅。ローマはおよそ7万人の兵を失い、その日だけで元老院議員の4分の1以上を失ったという。この「完璧すぎる包囲戦」は、のちの奉天会戦やスターリングラード戦など、近現代の戦略にも大きな影響を与え続けた。

そして紀元前47年、カエサルがポントス王国との戦いに勝利し、「来た、見た、勝った」と簡潔に勝利を報告したゼラの戦いもまたこの日。歴史を動かす瞬間は時として非常にシンプルに表現される。


日本の歴史の転換点 ― 承久の乱とその余韻

1221年、承久の乱。後鳥羽上皇が北条義時に敗れ、隠岐へ配流されたのもこの日。天皇という存在が武士政権によって屈服させられた瞬間は、日本の政治構造において極めて象徴的だった。以後、天皇は名目的存在となり、鎌倉から江戸、そして明治に至るまで、支配権は実質的に武家に移った。8月2日は、日本における“王権から政権へ”の変遷の象徴でもある。


近代 ― 悲劇の記録

1944年、テニアンの戦いが終結。8,000人以上の日本兵が玉砕し、民間人も多く犠牲となった。南洋の島で展開されたこの戦闘は、沖縄戦やサイパン戦と同様に、戦争の非人道性、そして「名誉」と「命」の間で引き裂かれた日本人の姿を映し出す。

翌年1945年、富山大空襲では2,000人以上の市民が命を落とした。これは、敗戦間近の日本本土がいかに徹底的な空襲を受けていたかを示す証左であり、戦争の最終盤における「焦土作戦」の一幕でもある。


現代 ― 戦争の形と国際社会

1990年のこの日、イラクのクウェート侵攻により湾岸戦争が始まった。石油、経済、地政学的野心――すべてが絡み合ったこの紛争は、冷戦終結後の新たな秩序の試金石となった。国連決議660によりイラクへ即時撤退が求められ、多国籍軍の派遣へとつながる。この時点での死者数は民間含めて40万人近くに上ったとされる。

現代における戦争は、かつての包囲戦のような明快な勝敗を超えて、情報・経済・民間人をも巻き込む全方位的な破壊へと変容している。8月2日は、その転換点でもあった。


総じて ― 8月2日が語るもの

8月2日は、覇権をめぐる戦いと人間の尊厳の衝突が何度も繰り返された日である。勝利と敗北、栄光と悲劇。その両面を同時に孕んだ歴史が幾重にも刻まれている。

そして私たちは、その日をただの「過去の出来事」として消化するのではなく、未来に向けた問いとして見つめ直さなければならない。

誰の勝利が、誰の犠牲によって成り立っていたのか?
名誉は命よりも重かったのか?
そして、今の私たちは、それを繰り返していないか?

8月2日――それは、ただの一日ではない。歴史の鏡として、今を映し出す記念碑のような日なのである。