kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月19日 1980サウジアラビア航空163便火災事故、ほか写真wikipedia事故機残骸

8月19日

20250819火曜日旧暦6月26日先勝(庚申かのえさる日)月齢 25.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月庚申かのえさる日 年末まであと134日

吉方位 隠遁日 庚申かのえさる日 南西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8819%E6%97%A5

8月19日の出来事

1227年(嘉禄3年7月6日) – 延暦寺の訴えで、浄土宗などの専修念仏を禁止。

1281年 (弘安4年7月27日) – 元寇: 弘安の役における鷹島沖海戦。 平戸島から太宰府目指して進軍する元軍と日本軍による海戦。詳細不明。

1574年(天正2年8月3日) – 越前一向一揆: 越前と近江の国境、木目峠を守護していた樋口直房が一揆勢力と独断で講和し退陣。越前国全域が一揆衆の勢力下になる。

1917年 – 第一次世界大戦: 第十一次イゾンツォの戦いが始まる。1917年8月19日 – 9月12日

損害 死傷 イタリア王国 120000人 オーストリアハンガリー 160000人

1934年 – ナチス・ドイツ: アドルフ・ヒトラーをドイツの「Führer(指導者)」とすることが、国民投票の圧倒的多数(89.93%)で承認される。

1942年 – 第二次世界大戦: ディエップの戦い。一日の戦闘。ドイツ圧勝。

損害 死傷 ドイツ500人 イギリスカナダ連合 4000人強

1944年 – 第二次世界大戦・西部戦線: パリの解放が始まる。1944年8月19日 – 8月25日

損害 戦死 連合軍 1630人 ドイツ 3200人 捕虜12800人

1978年 – イランのアーバーダーン市内で映画館が放火される。観客ら377人が死亡[1]。

1980年 – サウジアラビア航空163便火災事故。死亡301(全員)。

1980年 – 新宿西口バス放火事件。6人が死亡、14人が重軽傷。

2003年 – イラクの国連バグダード本部で爆破テロが発生。セルジオ・デメロ国連事務総長特別代表を含む24名が死亡、108名が負傷。

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1227年(嘉禄3年7月6日) – 延暦寺の訴えで、浄土宗などの専修念仏を禁止。

1281年 (弘安4年7月27日) – 元寇: 弘安の役における鷹島沖海戦。 平戸島から太宰府目指して進軍する元軍と日本軍による海戦。詳細不明。

1574年(天正2年8月3日) – 越前一向一揆: 越前と近江の国境、木目峠を守護していた樋口直房が一揆勢力と独断で講和し退陣。越前国全域が一揆衆の勢力下になる。

越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。

天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。

1917年 – 第一次世界大戦: 第十一次イゾンツォの戦いが始まる。1917年8月19日 – 9月12日

損害 死傷 イタリア王国 120000人 オーストリアハンガリー 160000人

戦闘

10度目の攻勢から数ヵ月後、ルイージ・カドルナ参謀総長は戦争決着を望んで、イソンゾ戦線最大の攻勢計画を発動した。戦いにはこれは全軍の70%に相当する歩兵600大隊と5200門もの大戦力が投入され、トルミーノ占領を最終目標としていた。

結果

アドリア海沿岸部を進むイタリア陸軍の大軍はイソンゾ川で幾つかの渡河作戦に成功して新たな橋頭堡を築いた。渡河の一方でオーストリア・ハンガリーの防衛線に向けた攻勢も繰り広げられ、オーストリア本土の入り口に位置するバインジッツァ高原の要塞線に猛攻が加えられた。オーストリア・ハンガリー軍は懸命に防衛したものの最終的にルイジ・カペッロ将軍の伊第2軍が守備軍を撃破、オーストリア・ハンガリー軍のスヴェトザル・ボロイェヴィッチ元帥は防衛線を放棄して退却した。最後の拠点であるガブリエル山の占領は成らなかったが、アオスタ公率いる第3軍はそれ以外の周辺地域の獲得に成功している。

戦いでオーストリア・ハンガリー軍は14万名の死傷者を出し、2万名が降伏した。もはやオーストリア・ハンガリー軍は戦線崩壊の瀬戸際に追い込まれており、再度の大攻勢に耐えられる状態には無かった。しかし対するイタリア側の損害も決して少なくはなく、直ぐに次の攻撃には移れなかった。また攻撃後の編成では第3軍は二つの軍団に分けて占領地に配置されていたが、これは戦線に致命的な弱点を残してしまっていた。

オーストリア・ハンガリー軍の危機にドイツ軍は第12次攻勢で遂に参戦し、この弱点を利用した新戦術によって戦況を大きく覆す事に成功する。

1934年 – ナチス・ドイツ: アドルフ・ヒトラーをドイツの「Führer(指導者)」とすることが、国民投票の圧倒的多数(89.93%)で承認される。

1942年 – 第二次世界大戦: ディエップの戦い。一日の戦闘。ドイツ圧勝。

損害 死傷 ドイツ500人 イギリスカナダ連合 4000人強

1944年 – 第二次世界大戦・西部戦線: パリの解放が始まる。1944年8月19日 – 8月25日

損害 戦死 連合軍 1630人 ドイツ 3200人 捕虜12800人

1978年 – イランのアーバーダーン市内で映画館が放火される。観客ら377人が死亡[1]。

1980年 – サウジアラビア航空163便火災事故。死亡301(全員)。

サウジアラビア航空163便火災事故(サウジアラビアこうくう163びんかさいじこ、英語: Saudia Flight 163)は、1980年8月19日にサウジアラビアで発生した航空事故。貨物室で火災が発生し、緊急着陸に成功しながらも、様々な不手際が重なったために乗員乗客301人全員が犠牲となった。

163便はリヤド空港に引き返し、無事に緊急着陸に成功した(ボイスレコーダーの記録は着陸の直前で終了している)。しかし、機長は事態を甘く捉えていたようで、滑走路上で緊急脱出を指示せず、そのまま誘導路を走行し、着陸から2分40秒後にようやく機体を停止させたが、両翼のエンジンを停止したのはさらに3分15秒後であった。そのため救援隊は機体に近づくのが遅れることになった[1][2]。

この時緊急脱出が実行されなかった理由は、直前に機長が着陸後にすぐ避難しないように客室乗務員に指示していたためとみられる。あるいは、この時客室がパニックになってドアを開けることができなかったのかもしれない[要出典]。客室乗務員も自立的な行動をとらなかった。さらに機関士がマニュアルに従ってエンジンとともに空調システムまで停止したため、火災で空気が薄くなっていた機内は酸欠となってしまった[2]。

このような緊急の状況にもかかわらず、空港の救援隊は練度不足でトライスターのドアのシステムに不慣れだったため、なかなか機内に突入することもできなかった[2]。救援隊が機体最前部左側の非常ドアを開けることができたのは、着陸から29分後で、エンジン停止から23分後のことだった。この時には163便の乗員乗客301名全員が、有毒ガスを吸引するなどして死亡していた[2]。犠牲者は機体前方部に折り重なるようにして息絶えていたという。また機体は主翼から下の構造物と後部を除く部分がすべて焼き尽くされていた。

1980年 – 新宿西口バス放火事件。6人が死亡、14人が重軽傷。

2003年 – イラクの国連バグダード本部で爆破テロが発生。セルジオ・デメロ国連事務総長特別代表を含む24名が死亡、108名が負傷。

チャットgpt先生の8月19日のエッセイ

8月19日という日:炎と変革の記憶

8月19日。この日付をたどると、歴史の中に刻まれた数々の出来事が浮かび上がってくる。古代から近代、そして現代に至るまで、8月19日は常に「何かが起こる日」として、人々の記憶に爪痕を残してきた。

日本では、鎌倉時代の1227年、この日、延暦寺の訴えにより浄土宗などの「専修念仏」が禁じられた。これは一宗教運動の制限にとどまらず、思想と言論に対する権力の介入を象徴する出来事でもあった。宗教という形をとった精神的自由の抑圧は、時代を越えて繰り返されるテーマであり、それは現代にも通じている。

戦の記憶もまた、この日を染めている。1281年の弘安の役、元軍と日本軍の海戦。1574年の越前一向一揆での講和。いずれも、戦争が人間社会に深く根差した現象であり、争いが簡単には終わらぬことを教えてくれる。なかでも越前一向一揆は、権力に対抗する庶民の宗教的かつ政治的な意志の表れとして、現代の市民運動の原型とも言える。

世界に目を向ければ、1917年の第十一次イゾンツォの戦いがある。両軍あわせて数十万の死傷者を出したこの戦いは、ただの戦術的な勝敗を超え、国家の野望と兵士の犠牲という、戦争の本質を赤裸々に映し出している。戦場の勝利は一瞬の輝きかもしれないが、失われた命は永久に戻らない。

そして1934年、ドイツでは国民投票によりアドルフ・ヒトラーが「指導者」として正式に権力を掌握する。民主的手続きによって独裁が誕生するという皮肉は、今なお世界各地で繰り返されている。人々が「平和と秩序」を求めるあまり、強い指導者に全てを委ねてしまう危険は、時代を問わず潜んでいる。

また、この日は「火」によって命が一瞬にして奪われた日でもある。1978年のイラン・アーバーダーンでの映画館放火事件、1980年のサウジアラビア航空163便火災事故、そして同年の新宿西口バス放火事件――いずれも、火という元素が、人間の行動ひとつで破壊へと変わる恐怖を我々に突きつける。特に163便の事故では、緊急対応の遅れと判断の誤りが、助かるはずだった命を葬った。技術が進んだ現代社会においても、「人間」の判断と行動がいかに重く、そして脆いかを思い知らされる。

2003年には、イラクの国連施設が爆破され、平和の象徴であるべき国連の現地代表までが命を落とすという、国際社会にとって痛ましい事件も起きた。平和を実現しようとする者が最も危険にさらされる――そんな現実は、今もなお変わっていない。

8月19日は、「戦い」「火」「独裁」「抗議」「失敗」といった、負の記憶が多く集まった日でもある。だが、それは同時に、「変革」「警鐘」「記憶の継承」といった希望の側面も秘めている。

この日をただ「歴史上の出来事があった日」として済ませるのではなく、私たち一人ひとりがそこから何を学び、どう生きるかを考える機会にしたい。災害や戦争を他人事と思わず、歴史の中の失敗を自分の問題として捉えること。そうすることで、8月19日という日付に新たな意味を加えることができるだろう。

静かに、しかし確実に刻まれていく歴史の中で、私たちは何を選び、何を残していくのか。この一日が、その問いに立ち止まるきっかけであってほしい。