kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月18日  1945占守島シムシュの戦い、ほか写真wikipedia進軍する士魂戦車隊

8月18日

20250818月曜日旧暦6月25日赤口(己未つちのとひつじキビ)月齢 24.3

乙巳きのとみ年甲申きのえさる月己未つちのとひつじ日  年末まであと135日

吉方位 隠遁日 己未つちのとひつじ日 南西 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8818%E6%97%A5

8月18日の出来事

1928年 – 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発[3]。「世紀の恋」と話題になる。

1930年 – 細君譲渡事件。谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 占守島シムシュの戦い。占守島に赤軍が侵攻し日本軍と戦闘。

戦力 日本8400 対 ソ連8800

損害死傷 日本1000(ソ連推計)600(日本発表)ソ連1500(ソ連発表)3000(日本推計)

1968年 – 飛騨川バス転落事故。岐阜県白川町で集中豪雨が起こり、土砂崩れにより観光バス2台が飛騨川に転落し104人死亡。

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1928年 – 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発[3]。「世紀の恋」と話題になる。

藤原あき

生年月日                 1897年8月10日

出生地    東京府

没年月日                 1967年8月8日(69歳没)

出身校    女子学習院

所属政党                 自由民主党

称号        正五位

勲三等瑞宝章

配偶者    宮下左右輔(1913年 – 1928年)

藤原義江(1930年 – 1957年)

親族        いとこ・藤山愛一郎

1930年 – 細君譲渡事件。谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。

女性関係

1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという「小田原事件」が起きた(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)[6][35]。

結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった[6][35]。

翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた[7]。

松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない[22]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 占守島シムシュの戦い。占守島に赤軍が侵攻し日本軍と戦闘。

戦力 日本8400 対 ソ連8800

損害死傷 日本1000(ソ連推計)600(日本発表)ソ連1500(ソ連発表)3000(日本推計)

戦争:太平洋戦争(終戦後)(ソ連対日参戦)

年月日:1945年8月17日 – 同年8月23日[1]

場所:占守島

結果:戦闘は予断を許さないまま、日本軍守備隊は停戦交渉に入り、最終的に降伏、武装解除に応じた[2]。

概要

ソ連は8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したが、ソ連軍は樺太では戦闘が継続しており、8月18日未明ソ連軍は占守島も先制攻撃、武装解除を停止していた日本軍守備隊と戦闘となった。

占守島自体の戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後多くがポツダム宣言の趣旨に反する形で連行され、シベリアへ抑留された。

戦後の逸話

北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車隊は、占守島の戦いにおける陸軍戦車第11連隊(通称:士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車、90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいる[46][注釈 12]。

1968年 – 飛騨川バス転落事故。岐阜県白川町で集中豪雨が起こり、土砂崩れにより観光バス2台が飛騨川に転落し104人死亡。

飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、1968年(昭和43年)8月18日未明、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号において発生した土砂災害によるバス転落事故である[2]。

名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し水没、乗員・乗客107人のうち104人が死亡した[2][12]。

この事故は、日本のバス事故史上における最大の事故となった[13]。世界のバス事故史上においても最大級に分類される事故である[12]。

チャットgpt先生の8月18日のエッセイ

【8月18日という日:愛と戦と水の記憶】

8月18日。真夏の陽射しが街を照らすなか、この日は日本の歴史にさまざまな「熱」を刻んできた。愛の熱、戦の炎、そして自然の猛威。まるで、歴史が人間の情熱と無力を交互に映し出す鏡のようである。


■ 世紀の恋、あきと義江

1928年のこの日、中上川家の令嬢であった藤原あきが、家庭と地位をすべて捨てて、テノール歌手・藤原義江を追いミラノへと旅立った。「世紀の恋」と騒がれたその行動は、ただの恋愛スキャンダルでは済まされない時代の反逆であった。

明治から大正、昭和へと移る時代。女性が自由に愛を選ぶには、世間の枠組みを破る覚悟が要った。あきの一歩は、当時の日本女性にとって“自分の人生を生きる”という決意の象徴だったのかもしれない。彼女はその後、政治家としても名を遺した。世紀の恋は、一人の女性の生涯を貫く意志の炎でもあったのだ。


■ 「細君譲渡事件」とは何だったのか

1930年、谷崎潤一郎・千代子・佐藤春夫の3人が連名で発表した「細君譲渡事件」。その奇妙さに目を奪われるが、その背後にあったのは、人と人との関係に対する誠実さと不器用さのせめぎ合いだったのかもしれない。

恋愛と結婚が制度や世間体と衝突する時、どこまで人は正直でいられるか。谷崎と佐藤の“合議”は、狂気にも見えるが、現代の感覚で言えばむしろ誠実な決着とも思える。文豪たちが人間関係の迷路を抜けようとしたその足跡は、滑稽でありながら、どこか人間くさい温もりを残している。


■ 占守島の戦い:終わらない戦争

1945年8月18日、戦争は終わっているはずだった。玉音放送が流れた3日後、北海道の北端、占守島では、日本軍とソ連軍が激しく戦っていた。

8,400人の日本兵と8,800人のソ連兵。戦局は混迷し、両軍とも多くの死傷者を出した。終戦の空気が流れるなか、命令によって戦いを続けざるをえなかった日本兵たち。彼らが降伏したのは21日、武装解除は23日。だが、戦争の影はそれだけでは終わらなかった。捕虜となった兵士たちは、約束された平和とは裏腹にシベリアへと連行された。

「戦争は終わった」と言うのは簡単だ。しかし、その言葉が届くまでに、いくつもの命がこぼれ落ちていった。その静かな哀しみが、8月18日には確かに残っている。


■ 飛騨川の惨劇

1968年の未明、岐阜・白川町。集中豪雨により発生した土石流が、観光バス2台を飛騨川へと押し流した。乗客104人が死亡。日本のバス事故史上、最悪の惨事となった。

夏の楽しい旅行が、一瞬にして悲劇へと変わる。自然の脅威の前で、人の営みはあまりにも儚い。現場となった白川町の人々は今も、慰霊碑を守り続けている。犠牲者の名前と共に「忘れない」という思いが刻まれている。


■ 忘れられない一日

8月18日という日は、愛の奔流と、戦の混乱、自然の激怒が刻まれた、記憶の交差点だ。

愛ゆえに家を飛び出した人。愛をめぐって合議に至った人々。命令と現実のはざまで戦い抜いた兵士たち。そして、自然の怒りに巻き込まれた旅人たち。

それぞれの物語はバラバラに見えて、根底には同じ問いが流れている。

「人は、どう生きるべきか」

8月18日は、それに対するさまざまな答えが刻まれた一日だ。情熱、誠実、勇気、そして無力――人間という存在のすべてを抱え込んだその記録は、今日という日に私たちが何を選び、どう感じるかを静かに問いかけている。


あと135日で年が明ける。

夏の熱気がまだ残るこの日、暦は赤口、そして南西が吉方位。暦に意味を見出すなら、迷いを断ち切る決断の気配が漂っている。過去に学び、今を見つめ、未来を選ぶ。

8月18日――忘れてはならない、そして忘れたくない日である。