8月17日
20250817日曜日旧暦6月24日大安(戊午つちのえうまボゴ)月齢 23.3
乙巳きのとみ年甲午きのえうま月戊午つちのえうま日 年末まであと136日
吉方位 隠遁日 戊午つちのえうま日 南西 北西 大吉
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8月17日の出来事
986年 – トラヤヌスの門の戦い。東ローマ帝国軍がトラヤヌスの門(英語版)でブルガリア軍に敗れる。30000のローマ兵敗れる。被害詳細不明。甚大と。
1862年 – インディアン戦争: ダコタ戦争が勃発[2]。38名のスー族の絞首刑ほかスー族100人程度死亡。アメリカ軍500人以上死亡。
1915年 – レオ・フランク事件: 米アトランタで少女殺害容疑により服役していたユダヤ系受刑者を群衆が刑務所より拉致、リンチにかけ殺害[5]。
1920年 – 高知県宿毛の松田川で大洪水が発生。氾濫により62戸が流出[6]死者多数。
1942年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: マキン奇襲。日本が占領するマキン環礁をアメリカ海兵隊が奇襲。駐屯していた日本海軍陸戦隊が壊滅。
損害 日本軍 戦死・行方不明46[1](戦力半分以上) 米軍 戦死28
1945年 – ベトナム八月革命。ベトナム全土で武装蜂起開始。
1949年 – 松川事件: 東北本線でレールが外され列車が脱線転覆、乗務員3名が死亡。
1950年 – 303高地の虐殺。44人の米捕虜兵士が北朝鮮軍に虐殺される。
1963年 – 那覇市泊港から久米島向け航行していた久米島定期船みどり丸が、神山島沖合で横波を受け転覆。乗員乗客229人中、112人が死亡。沖縄で戦後最大の海難事故[9]。
1963年 – 藤田航空機八丈富士墜落事故。乗客19名全員死亡。
1969年 – ハリケーン・カミールがミシシッピ州に上陸。死者248人。
1988年 – パキスタン大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクらが乗った飛行機が離陸直後に墜落し、大統領を含む37人全員が死亡。
1999年 – イズミット地震: トルコ北西部でM 7.4の地震。17,000人以上が死亡。
2009年 – ロシア最大級のサヤノ・シュシェンスカヤ水力発電所で事故が発生。送水管の破壊により74名が死亡。
2011年 – 天竜川川下り船転覆死亡事故: 静岡県浜松市天竜区の天竜川下りをしていた船が転覆し、5人が死亡[12]。
2017年 – バルセロナテロ攻撃事件: スペインバルセロナの繁華街で17日、車が群衆に突っ込みテロ事件が発生。13人が死亡、約100人が負傷した[14]。
2019年 – カブール爆破テロ事件: アフガニスタンの首都カブールにある結婚式場で自爆テロが発生し、少なくとも63人が死亡した[16]。
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986年 – トラヤヌスの門の戦い。東ローマ帝国軍がトラヤヌスの門(英語版)でブルガリア軍に敗れる。30000のローマ兵敗れる。被害詳細不明。甚大と。
結果
この戦いで勢いに乗ったサムイルは、1年後ブルガリア帝国の首都だったプレスラフ(英語版)、プリスカを取り戻し、さらに多くのギリシャ人都市を占領していった。
一方、バシレイオス2世はこの敗戦や戦争中に傭兵への敬意を欠いていたことでブルガリア遠征から外されたバルダス・フォカスやエウスタティオス・マレイノスらアナトリアの貴族の不興を買ったことやコンスタンティノープルでの地震による民心動揺によりバルダス・フォカスの反乱が起こり、しばらくブルガリアに手を出せなくなり、バルダス・フォカスの反乱終結後も997年のスペルヒオス川の戦いまで苦戦することとなる。
1862年 – インディアン戦争: ダコタ戦争が勃発[2]。38名のスー族の絞首刑ほかスー族100人程度死亡。アメリカ軍500人以上死亡。
ダコタ戦争(ダコタせんそう、英: Dakota War of 1862、他に Sioux Uprising、Sioux Outbreak of 1862、Dakota Conflict、U.S.-Dakota War of 1862、Little Crow’s Warの呼び方がある)は、アメリカ合衆国ミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、1862年8月17日に始まった、アメリカ合衆国とダコタスー族インディアンとの間の紛争である。
「戦争」と名は付いているが、実情は飢餓状態となった少数民族の「暴動」であり、暴動のその結果は、米国処刑史に残る38名のダコタ族の一斉絞首刑と、ミネソタからのダコタ族の追放という、インディアンに対する合衆国の民族浄化となった。西部大平原におけるスー族との「インディアン戦争」の始まりになる。
ダコタ族に対する軍事裁判
1864年のミネソタ州選挙における共和党の不調に関する、ラムゼーの「もっと吊るしておけば票が伸びた」の物言いに対し、リンカーンは「私には投票のために人間を絞首刑にすることはできない」と応じた[7]。
1862年12月初旬、降伏した2000人以上のダコタ・スー族のうち、392人の捕虜が直ちに軍事裁判にかけられ、307人が殺人と強姦で有罪とされ、死刑を宣告された。ある裁判は5分も要せずに終わり、被告に対して手続が説明されることも、スー族が法廷で陳述することも無かった。シブレー大佐は死刑の即時執行を主張したが、ミネソタ州聖公会の司祭でインディアンとの和平論者であるヘンリー・B・ウィップル(英語版)から、寛大な処置を要請されたエイブラハム・リンカーン大統領は裁判記録の照査を指示し、「戦争」に参加しただけの者と、白人市民に強姦や殺人を犯した者とを区別しようとした。結果、リンカーンは39名のスー族囚人に対し死刑執行の署名をし、残りの者は減刑された。州と軍が死刑宣告した300余人が減刑されたことにラムゼイ知事とポープ将軍は抗議したが、12月6日にリンカーンから「39名の死刑の執行」と「残りの有罪判決を受けた者は次の指示があるまで拘置し、逃亡や不法の暴力を被ることのないよう配慮するように」と通告を受け取った。39名の死刑囚のうち1人は刑執行の延期を認められた[8][9][10]。
ウィップルはこう声明文を読み上げた。
「この由々しき犯罪を責めるとしても、その責めどころを間違わないでほしい。私は人々が声を一つにして立ちあがり、非道極まりないインディアンに対する管理制度の改革を要求してくれるよう要望する。このインディアン管理制度は、我々に“苦悶”と“血”という結果をもたらすのみなのだ。」
しかし、ウィップルのインディアンの擁護に対し、白人市民は敵意と非難を向けた。
ダコタ族に対する一斉絞首刑
マンケイト・スネリング砦でのスー族の一斉絞首刑
1862年12月26日、クリスマスの翌日に、ミネソタ州マンケイトのスネリング砦でダコタ族死刑囚たちの一斉絞首刑が行われた。前代未聞の38人同時処刑は、インディアンたちの絞首の様子が四方から見ることが出来る特別誂えの絞首刑台で行われた。一斉処刑の際には、興奮した白人群衆が処刑場に詰めかけ、軍によって公開規制が行われたほどだった。「38人の囚人に対する一斉死刑執行」は、現在に至るまで、アメリカ史の中でも最大の集団処刑記録を誇っている。
処刑を待つ間に汽車の汽笛を聞いたシャコビー酋長は、次のような言葉を残した。
「白人たちがやってくるにつれ、インディアンたちはいなくなる。」
一斉絞首刑の瞬間の、見物人たちの反応について次のような証言が残っている。
「床が落ちると、兵士や一般市民の間からは、低い歓喜の声がいつまでも漏れていた。」
連隊付き軍医がインディアン囚人の死亡宣告を行い、インディアンの死体は川堤の砂地に掘られた壕にまとめて放り込まれ埋葬された。しかし埋葬前に「シェアダウン博士」という渾名の素性の知れない者がインディアンの皮を剥いだといわれている[11]。噂に拠れば、その皮を入れた小さな箱が、後にマンケイトで売られたという。
また、当時解剖学研究のため、死体には高い需要があったので、何人かの医者は処刑後の死体を要求した。墓が暴かれ、死体は地元の医者達に分け与えられた。マーピヤ・オキナジンの死体を受け取った医者がウィリアム・ウォーラル・メイヨーだった。何年か後に、メイヨはマーピヤ・オキナジンの死体をルシュールに運び、医者仲間の前で解剖した[12]。その後骸骨を洗い乾燥しワニスを塗って、自分の自宅兼事務所の鉄製ケトルに保管した[13]。マーピヤ・オキナジンや他のインディアンの遺骸と識別されるものは後に、アメリカ先住民の墓地の保護と遺品の送還法に従い、メイヨー・クリニックによってダコタ族に返還され、再度埋葬された[14]。
1915年 – レオ・フランク事件: 米アトランタで少女殺害容疑により服役していたユダヤ系受刑者を群衆が刑務所より拉致、リンチにかけ殺害[5]。
終身刑に減刑されたフランクであったが、1915年8月16日にメアリ・フェイガン騎士団と名乗るグループによって収監されていた刑務所から拉致され、25時までに刑務所の農場から出る。8月17日、フランクはメアリの生まれ故郷であるマリエッタ(386km離れた)へと連行され、そこでリンチを受け縛り首にされ「処刑」された。彼の殺害には25~28人が関与しており、その中には老獪なジョセフ・マッケイ・ブラウン前知事といった政治家が含まれていたが、フランク殺害で誰も逮捕起訴されることはなかった。この事件を利用して、失政に対する民衆の不満を巧妙に逸らし、それまで休眠状態にあった差別主義者クー・クラックス・クラン(KKK団)を復活させることに成功したといわれている。
一方で、この事件は米国社会のユダヤ人たちに反ユダヤ主義への危機感を与え、名誉毀損防止同盟を創立させる契機となった。
真相
1986年に設置された、フランクの無罪と特赦を知らせる看板。
この事件の真相が明らかになるのは、1980年代に入るのを待たなくてはならなかった。 当時14歳で、工場の事務所で働いていたアロンゾ・マンはコンリーの犯行を目撃していたが、真実を話すまでには至っていなかった。1983年3月4日、マンは宣誓し、コンリーが殺害した事実について語った。そして3年後の1986年3月11日、ジョージア州はレオ・フランクを特赦とした。事件から70年以上が経過していた。
1920年 – 高知県宿毛の松田川で大洪水が発生。氾濫により62戸が流出[6]死者多数。
1942年 – 第二次世界大戦・ギルバート・マーシャル諸島の戦い: マキン奇襲。日本が占領するマキン環礁をアメリカ海兵隊が奇襲。駐屯していた日本海軍陸戦隊が壊滅。
損害 日本軍 戦死・行方不明46[1](戦力半分以上) 米軍 戦死28
アメリカ兵による日本軍戦死者の遺体陵辱行為
この作戦でアメリカ兵による日本兵の遺体に対する陵辱行為が発生した。
(米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断)
8月22日、日本軍戦死者の遺体収容にあたった谷浦英男大尉は、下腹部を露出し仰向けに倒れた不審遺体15-6体を発見するも腐敗が激しく、この時点では陵辱行為の有無は不明だった[12]。
後年、作戦に参加したアメリカ兵の1人が、テレビ番組(戦線Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグ(Sherman Grinberg)に対し、戦死した日本兵から男根と睾丸を切断し口中に詰め込み、記念撮影したことを告白し、 蛮行の実態が明るみに出た。 [13]
1945年 – ベトナム八月革命。ベトナム全土で武装蜂起開始。
ベトナム八月革命(ベトナムはちがつかくめい、ベトナム語:Cách mạng tháng Tám / 革命𣎃𠔭)は、1945年8月17日に始まった、ベトミンが総蜂起してベトナム帝国(阮朝)を倒した革命である。
この革命の結果、ベトナム民主共和国が成立したが、日本軍(枢軸国)に勝利したフランス軍(連合国)によるインドシナ再植民地化によって血みどろの抗争となり、第一次インドシナ戦争にもつれ込んだ。
1949年 – 松川事件: 東北本線でレールが外され列車が脱線転覆、乗務員3名が死亡。
1950年 – 303高地の虐殺。44人の米捕虜兵士が北朝鮮軍に虐殺される。
処刑
8月17日午後2時には、303高地に対して、ナパーム弾、爆弾、ロケット弾、機関砲を用いた国連軍の空襲が敢行された[29]。この時点で北朝鮮軍士官のひとりは、アメリカ軍が接近しているので、捕虜を確保し続けられなくなると言った[27]。この士官は部下に捕虜の射殺を命じ、北朝鮮兵たちは、ガリの中で動かずに、しゃがみ込んでいたアメリカ兵捕虜たちを射撃した[25]。後に捕らえられた北朝鮮軍の兵士によれば、50人の監視兵の全員か大部分がこれに加わったとされるが[27][30]、生存者の証言によると、下士官に指揮された14人の監視兵が、捕虜たちをPPSh-41短機関銃で射撃したという[23][24]。北朝鮮軍の全員がその場を立ち去る前に、数人の北朝鮮軍兵士は現場の谷に立ち戻り、最初の銃撃から生きのびた者たちにさらに射撃を加えた[23][27] 。わずか4人[22][24]、ないし5人[23][26][31]だけが、死体の下に身を隠して生き延びた[22]。結局、この谷間で、41人のアメリカ軍捕虜が殺された[27]。その過半を占める26人は、迫撃砲小隊の所属であったが、他所で捕らえられた捕虜も含まれていた[32]。
1963年 – 那覇市泊港から久米島向け航行していた久米島定期船みどり丸が、神山島沖合で横波を受け転覆。乗員乗客229人中、112人が死亡。沖縄で戦後最大の海難事故[9]。
1963年 – 藤田航空機八丈富士墜落事故。乗客19名全員死亡。
1969年 – ハリケーン・カミールがミシシッピ州に上陸。死者248人。
1988年 – パキスタン大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクらが乗った飛行機が離陸直後に墜落し、大統領を含む37人全員が死亡。
1999年 – イズミット地震: トルコ北西部でM 7.4の地震。17,000人以上が死亡。
2009年 – ロシア最大級のサヤノ・シュシェンスカヤ水力発電所で事故が発生。送水管の破壊により74名が死亡。
2011年 – 天竜川川下り船転覆死亡事故: 静岡県浜松市天竜区の天竜川下りをしていた船が転覆し、5人が死亡[12]。
2017年 – バルセロナテロ攻撃事件: スペインバルセロナの繁華街で17日、車が群衆に突っ込みテロ事件が発生。13人が死亡、約100人が負傷した[14]。
2019年 – カブール爆破テロ事件: アフガニスタンの首都カブールにある結婚式場で自爆テロが発生し、少なくとも63人が死亡した[16]。
チャットgpt先生の8月17日のエッセイ
8月17日という日 – 歴史に刻まれた記憶の綾
8月17日──盛夏の陽がなおも照りつけるこの日付の裏側には、幾重にも折り重なる「記憶の層」が静かに息づいている。表面の静けさとは裏腹に、この一日には多くの人々の叫び、痛み、そして希望が凝縮されている。
この日は、時に国家の運命を左右する戦いが起こり、時に小さな民族の叫びが押し潰される日でもあった。986年、東ローマ帝国がトラヤヌスの門でブルガリアに大敗を喫し、その余波が帝国の内部抗争や反乱を招いたことに始まり、1862年には飢餓と差別に追い詰められたダコタ族の「暴動」が起き、結果的に38名が同時に絞首刑に処された──それは今なおアメリカ史上最大規模の集団処刑として記録されている。
「暴力」と「報復」は、時代や場所を越えて、驚くほど似た顔をして現れる。1915年、アメリカ南部では冤罪とユダヤ人への偏見が渦巻く中、レオ・フランクという一人の男が群衆に引きずり出され、私刑に処された。国家が正義の手を離し、群衆の激情が裁きを行ったこの事件は、アメリカ社会に深い傷を残し、同時にユダヤ系市民が自らを守るための団結を促す契機ともなった。
戦争の暗い影もこの日にはついて回る。1942年、太平洋戦争下のマキン環礁では日本とアメリカの間で激しい戦闘が起こり、戦死者の遺体に対する陵辱行為までが記録に残るなど、戦場の非人間性が露わとなった。1950年には、朝鮮戦争中に北朝鮮軍によって米軍捕虜が大量虐殺される「303高地の虐殺」が発生し、戦争の倫理とは何かを改めて問いかける。
自然災害もこの日を襲った。1969年のハリケーン・カミール、1999年のトルコ・イズミット地震──どちらも多くの命を奪い、自然の前に人間がいかに脆弱であるかを知らしめた。
そして近年、2017年のバルセロナでのテロ、2019年のカブールでの爆破事件といった凄惨な事件は、宗教や民族、政治の名のもとに行われる無差別な暴力の連鎖が、現代にも根深く存在していることを私たちに突きつけてくる。
それでも、希望の芽は残る。1945年のベトナム八月革命は、植民地支配からの脱却を掲げた民衆の熱意が国を動かした瞬間だった。政治の混乱や外圧に晒されながらも、国を持とうとする意志が一つの時代を作っていった。
歴史とは、単なる「過去の記録」ではない。それは、忘れ去られた者たちの声であり、知らぬ間に今を形作っている数多の層である。8月17日が記録してきた戦争、災害、革命、差別──そのどれもが私たちに問いかける。「あなたは過去から何を受け取り、どう生きていくのか」と。
静かに、そして確かに、この日もまた歴史の中に組み込まれていく。だがその記録の中にこそ、未来を照らす微かな光が潜んでいるのかもしれない。