8月15日
20250815金曜日旧暦6月22日先負(丙辰ひのえたつヘイシン)月齢 21.3
乙巳きのとみ年甲申きのえさる月丙辰ひのえたつ日 年末まであと138日
吉方位 隠遁日 丙辰ひのえたつ日
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8月15日の出来事
1057年 – ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。
1248年 – 同年4月に火災で焼失したケルン大聖堂について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工[1]。1880年に完成。
1534年 – イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
1261年 – 東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1461年 – ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1483年 – システィーナ礼拝堂が開場。
1549年(天文18年7月22日) – フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1573年(天正元年7月18日) – 槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
1760年 – 七年戦争: リーグニッツの戦い
プロイセンフリードリヒ大王軍 対 オーストリアハプスブルグ
戦力 プロイセン 16000 対 オーストリア 32000
損害 戦死傷 プロイセン 3500 対 オーストリア 6000+捕虜4000
1863年(文久3年7月2日) – イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。
1868年 – エクアドル地震。エクアドル・コロンビア国境付近で地震。翌日も地震。二度の地震で死傷者7万人。(*エクアドルは典型的なカトリック国)
1886年 – 長崎事件。清国(中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。
清国水兵と斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。長崎市民も十数名が負傷)
1899年 – 森永太一郎によって森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)が創業。
1929年 – 嘆きの壁事件。嘆きの壁においてシオニストとアラブ人が衝突、多数の死傷者を出す。
暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
1945年 – 第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。
1953年 – 各地で豪雨災害が発生(南山城豪雨・多羅尾豪雨)。
死者290人 行方不明者140人 負傷者994人
2007年 – ペルー地震。死傷者数 少なくとも514人死亡[2]、1,090人怪我[2]
2021年 – ターリバーンが首都カブールを陥落し、アフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言[9][10]。アシュラフ・ガニー政権が事実上崩壊した。
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1057年 – ランファナンの戦い。スコットランド王マクベスがマルカム(後のスコットランド王マルカム3世)に討たれる。
ランファナンの戦い (ランファナンのたたかい、英語: Battle of Lumphanan)は、1057年8月15日にスコットランド王マクベスとマルカム(後のマルカム3世)と争い、戦死した戦い。戦場は伝統的にアバディーンシャーのランファナン砦とされている。ランファナン砦の南西300メートルほどの地点に、マクベスが首を取られた場所であるという「マクベスの石」がある[1]。
マクベタッド・マク・フィンレック(Mac Bethad mac Findlaich, 現代ゲール語:MacBheatha mac Fhionnlaigh, 1005年 – 1057年8月15日[2])は、スコットランド王(在位 : 1040年 – 1057年)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の題名にもなったマクベス(Macbeth)の通称で世界的に知られる。マルカム2世の次女ドウナダ(Donada)とマリ領主フィンレック(Findlaich)の間に生まれた。異父兄にオークニー伯トールフィン(ソーフィン)がいる。マクベスの名は、ゲール語で「生命の子(マク・ベーサ)」の意味である[3]。
52歳没。
1248年 – 同年4月に火災で焼失したケルン大聖堂について、マリアの昇天の祝日であるこの日、大司教の命令で3代目となる聖堂の建築が起工[1]。1880年に完成。
1534年 – イグナチオ・デ・ロヨラ他7名によってイエズス会が結成。
イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、カトリック教会の男子修道会[2][3]。1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された[4]。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み[5][6]、日本に初めてカトリックをもたらした[7]。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である[要出典]。
会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit[8]) 教団とも呼ばれた[9]。
イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある。
現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。
イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 (Madonna Della Strada) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアルトゥロ・ソサ(スペイン語版) 師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesù)は歴史的建築物となっている。
1261年 – 東ローマ帝国・パレオロゴス王朝の初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスが戴冠。
1461年 – ルイ11世がノートルダム大聖堂にて戴冠。
1483年 – システィーナ礼拝堂が開場。
1549年(天文18年7月22日) – フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。
1573年(天正元年7月18日) – 槇島城の戦い: 宇治・槇島城に立て籠っていた将軍・足利義昭が織田信長に降伏。義昭は京を追放され、室町幕府が事実上滅亡。
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)7月に織田信長と室町幕府の将軍・足利義昭との間で行われた戦い。この戦いで義昭が敗れた結果、京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した[3][4]。
7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通り、川上の平等院、川下の五ヶ庄より二手に分かれて川を渡ると、しばし休息し、槇島城のある南向きに隊列を整えた[25]。城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。
織田軍は槇島城を攻撃し、槇島一帯も焼き払った[19][26]。槙島城の外構は乗り破られ、火をつけられて迫られた[25]。義昭は槇島城を難攻不落の城と捉えていたようであるが、信長の大軍の前では全く無力であった[1]。
本城も危うくなったことで、義昭は織田軍の攻勢に恐怖し、信長に講和を申し入れた[19]。義昭は敗軍の将として、信長の眼前に引き据えられた[1]。信長は義昭の一命は助けたが[1]、講和の条件として2歳の息子・義尋を人質に出させることで降伏を受け入れた[19]。
1760年 – 七年戦争: リーグニッツの戦い
プロイセンフリードリヒ大王軍 対 オーストリアハプスブルグ
戦力 プロイセン 16000 対 オーストリア 32000
損害 戦死傷 プロイセン 3500 対 オーストリア 6000+捕虜4000
リーグニッツの戦い(リーグニッツのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Liegnitz)は七年戦争中の戦闘であり、1760年8月15日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いるオーストリア(ハプスブルク帝国)軍を破った。
両軍はシュレージエン地方の都市リーグニッツの周辺で衝突した。早朝にラウドン率いるオーストリア騎兵はプロイセン軍陣地を攻撃したが、これをツィーテン率いるハサーの反撃を受けて後退を強いられる。続いて両軍は砲撃合戦を始めるが、これはプロイセン軍の榴弾がオーストリア軍の弾薬庫に命中し、勝敗が決する。仕方なくオーストリア軍は歩兵戦列を前進させるが、プロイセン軍の激しい砲撃によって阻まれてしまった。アンハルト=ベルンブルク公率いるプロイセン軍歩兵連隊が反攻に出ると、オーストリア軍は退却に追い込まれた。
退却するオーストリア軍は止まないプロイセン軍の砲撃に悩まされることになる。ダウンはラウドンの敗北を知ったにもかかわらず、自身が率いる無傷の軍勢を加勢させることを拒んだ。これは後に両者の対立を生む原因となった。
1863年(文久3年7月2日) – イギリス艦隊が鹿児島に砲撃し、薩英戦争が開戦。
戦闘の結果
薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡[27])に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[3]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[28]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[29]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。
島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されなかった。
イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。
1868年 – エクアドル地震。エクアドル・コロンビア国境付近で地震。翌日も地震。二度の地震で死傷者7万人。(*エクアドルは典型的なカトリック国)
1886年 – 長崎事件。清国(中国)の水兵が長崎市内で暴動を起こし、日清両国に死傷者が出る。
清国水兵と斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。長崎市民も十数名が負傷)
1899年 – 森永太一郎によって森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)が創業。
品質第一を心がけ、駐日アメリカ公使夫人や皇室からも注文がきた。やがて箱入りのミルク・キャラメルがヒット商品となり、全国的に有名になる[6]。
帰国後起業家となり多額の富を得た森永はキリスト教を離れたが、1930年に2人目の妻を亡くしたのをきっかけに再び信仰に戻る。関東大震災ではミルクの接待30万人、ビスケット・キャラメルなどの菓子類6万袋、米87石8斗、小缶練乳1万5千缶に達した。それからも、日比谷公園や芝公園などの避難場所でトラックに満載したドーナッツの配布した[7]。
1935年4月に社長を引退、その後はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごした。1937年に71歳で没した[1]。
1919年 – 鹿児島県種子島沖合で海軍運送船「自岐丸」が暴風雨を受けて沈没。死者111人[2]。
1929年 – 嘆きの壁事件。嘆きの壁においてシオニストとアラブ人が衝突、多数の死傷者を出す。
暴動のあった一週間で、ユダヤ人は合計133人が殺害され339人が負傷した(大部分がアラブ人による殺傷)。アラブ人は合計116人が殺害され232人が負傷した(大部分はイギリス植民地警察・植民地兵による殺傷)。
1945年 – 第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送により、ポツダム宣言(正式には「日本軍への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」。7月26日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国主席蔣介石の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から構成される宣言)の受諾・連合国への降伏がラジオと新聞で日本国民に伝えられる(日本の終戦の日)。
1953年 – 各地で豪雨災害が発生(南山城豪雨・多羅尾豪雨)。
死者290人 行方不明者140人 負傷者994人
2007年 – ペルー地震。死傷者数 少なくとも514人死亡[2]、1,090人怪我[2]
2021年 – ターリバーンが首都カブールを陥落し、アフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言[9][10]。アシュラフ・ガニー政権が事実上崩壊した。
2024年 – ロシアのウクライナ侵攻: クルスク州への侵攻を同月6日に開始したウクライナが現地に軍事当局を設置し、クルスク州の占領を開始。
チャットgpt先生の8月15日のエッセイ
8月15日のエッセイ:記憶と転換の境界線
8月15日。この日は単なる「夏の一日」では終わらない重みを持つ。日本にとっては「終戦の日」として特別な意味を持ち、同時に、世界史の中でも様々な終わりと始まりの分岐点として刻まれてきた日である。
日本では、1945年のこの日、昭和天皇の玉音放送によって太平洋戦争の終結が国民に伝えられた。ラジオを通じて伝えられた詔勅の言葉は、戦火に包まれた無数の命と生活を一瞬にして「戦後」へと押し出した。軍国主義の終焉と、新たな時代の到来のはざまで、日本人は敗戦の現実を受け入れざるを得なかった。
だがこの日付は、日本だけの記憶にとどまらない。
たとえば、1057年、スコットランドでは「マクベスの死」が起きている。文学作品で「野望に敗れた男」として知られるマクベスは、実際には17年間安定した治世を築いた王だったが、この日、ランファナンでマルカムに討たれ、その生涯を終えた。王が斃れる日という点で、こちらも一つの時代の終焉である。
また、1534年にはイエズス会が創設された。その後、この会は世界中にカトリック教会の教えを伝播し、日本にも1549年にフランシスコ・ザビエルが到達することでキリスト教布教の端緒を開いた。戦争の終結とは逆に、信仰と思想の拡大の始まりを象徴する出来事である。
そして1760年のリーグニッツの戦いでは、フリードリヒ大王が2倍の兵力を擁するオーストリア軍に勝利した。この戦いもまた、一国の命運と世界秩序を左右した瞬間だった。数的劣勢を覆した「奇跡の戦術」は、後世の軍事思想にも影響を与える。
さらに視点を現代に移すと、2021年のこの日、ターリバーンがアフガニスタン全土の支配を宣言。アメリカの「最長の戦争」が幕を閉じ、世界はまたしても一つの支配構造の崩壊と再構築の瞬間を目撃した。
歴史における8月15日は、繰り返し「境界線」として現れる。戦争の終わりと平和の始まり。王朝の終焉と新政権の登場。宗教的使命の出発点。そして、破壊の後に訪れる再生の瞬間。
日本では、8月15日は黙祷の時間とともに、戦争の記憶と向き合う日である。しかし世界史の中で見れば、それは単なる「追悼の日」ではなく、「変化と再生のしるし」が刻まれた日でもある。まるでこの日が、歴史のなかで、終わりと始まりを繋ぐために選ばれてきたかのようだ。
この日をどう記憶し、どう未来に語るか。それは、過去の痛みと希望を背負いながら、次の「8月15日」を迎える私たちの姿勢にかかっている。忘れずに、ただ悼むだけでなく、次なる道を見つめる契機として――。
それが、8月15日という一日の、本当の意味なのかもしれない。